夜が深まり始めた頃、ネージュはジェラールの隣に座ってぽつぽつと昼間あったことを話していた。
「そのご令嬢は、ネイオリアと言っていたんだな?」
「ええ…。ジェラールさま、ご存じなのですか?もしかして、婚約し…」
「待て、ネージュ。それ以上言うなよ、小娘相手に婚約してどうする」
「…いえ、ですが、十六辺りが結婚の適齢期で、貴族では当たり前ではありませんか」
「君は、俺が十六やそこらのご令嬢と結婚すると?」
「……うーん…。ありえませんね」
「良かったよ、その答えに行きついてくれて」
ジェラールはそろりとカップを持ち上げて口元に運んだ。それを横目で見ながら、ネージュはネイオリアを思い出す。
『本当の愛なんてないんでしょう』
耳にこびりついて離れない。その言葉が頭の中で繰り返されるたびに、心臓がズキッと痛む。他の人にもそう思われていたりするのだろうか。特に、ジェラールに恋焦がれるような女性からは。
「ネージュ?」
「…ん、はい?」
「何を考えている?」
「二度目は会いたくないなあ、と」
「俺も会いたくはないなあ」
「ですが、相当ジェラールさまに恋焦がれているようでしたよ?」
ネージュがそう言うとジェラールは顔を顰め、机にカップを置いた。そして脚を組み直す。とても苦い顔をしているわ…。
「あれは、サンチェノールの娘でな。大臣ではなく夫人から、娘の婚約に申し立てをされたことが何度もある」
『何度も』のところを強調するジェラールに、ネージュはサンチェノールを思い出していた。尋問会でネージュの敵であった大柄の人。大柄といってもガタイが良いと言うわけではない。
「母とサンチェノールの夫人は、折り合いが悪いから拒否していたがな。確か、娘が十を超えた辺りから言い出したんだったか…」
「まあ。それは、ジェラールさまとても幼い奥様が出来るところだったのですね」
「十六下の娘を相手にしろと言われてみろ、俺は遠征地から戻らんよ」
「ははは…」
苦笑いしか出て来ない。保温魔法が掛けられているティーポットから、それぞれのカップにハーブティーを注ぎ入れていると、ジェラールが口を開いた。
「やはり、護衛が一人ぐらいは必要か?」
「えっ」
「君の下に贈り物をしてきた奴もまだ見つかっていないし、子供たちを攫った不審者の発見もまだだ。何かあってからでは遅いからなあ」
「私は大丈夫ですよ?」
「ネージュ?」
「アッハイ。でも、フルスにヴェーガもいるのですよ?」
「フルスもヴェーガも着けていても、虫が寄って来たんだがな?」
虫。ジェラールは至って真剣な顔つきで言い放つ。ネージュは追及しなかったが、どうやらジェラールはネージュの失言にイラついたのだろう。だって、本当に大丈夫なのに。
「過保護だとジェラールさまが笑われたりしませんか?」
「騎士団長の妻が一人で道を歩くことの方が危ないんだが」
「別に一人では…」
「ネージュ?」
「はい…」
「君は、この国がとても平和だと思っている節があるが、そんなわけない。城に上がればドロドロとしているし、人攫いなんかも平気でいる。それに、クロヴィス家だからという理由で恨みを買うこともあるんだ」
ジェラールは、『善意ばかりの国なんかじゃない』と言葉を落とす。それでも、ネージュからすればこの国は平和で温かくて優しい。きっと比べる対象が、故郷の国だから。それ以外の国に移り住んできたけれど、そこまで印象に残ることもなかった。
「私が危機感や警戒心がない、というのは理解してます。しかし、私相手に人員を割いてどうするのですか。まだ復興作業に人手も必要な時期ですし」
「まだ言うか。君の護衛になりたい男はごまんといる。うちは、女性騎士の雇用は王妃付きのみということが惜しいところだが。だから、君の気にするところじゃない」
ジェラールは、ネージュを見据えて言う。まるで逃がすつもりはないと言いたげで。
「いっそのこと、君の医務室を俺の執務室の隣に移すか?」
「あ、護衛でも何でもつけてくださっていいので、それだけは」
「なんだ急に。俺の隣では不満か?」
「不満はありませんが、医務室は訪ねやすいから機能するものですし」
「訪ねやすさも問題だな」
「…ジェラールさま」
ジェラールの名前を呟くだけで、それ以上何も言えなくなったネージュ。心配してくれているのは分かる。分かるけれど、さすがに限度と言うものが存在すると思うの。
「私のためにと言ってくださっているのは分かるのですが、それではジェラールさまが笑われてしまいます…」
「何かあってからじゃ遅いんだ。笑われたって良いよ」
「私が嫌なのです」
「なに愛妻家だからな、で片付く話だ」
「ですが…」
「俺は君を軽んじるつもりはないからな。医務室の件は保留中にするが、護衛は明日にでも選出するから心づもりするように」
「はぁい」
「それから。ちゃんと、相談できて偉いぞ」
「…は、い」
ポンとジェラールの大きな手がネージュの頭に乗っかる。そして、髪を撫でるように梳くように手を滑らせた。
「ジェラールさま」
「ン?」
「お手伝いできることがあれば、ぜひ私にも教えてくださいね」
「ああ。その時は」
ジェラールはもちろんと頷くけれど、ネージュはきっと相談しないだろうなと思う。なにせ家に仕事を持って帰って来ない。暮らし始めて日が浅いのもあるし、今はまだ残業をしていないけれど、引っ越し前夜の様に残業する日も出て来る。
持ち帰るぐらいなら、いつの日か言っていたように本部に泊まり込むのも想像できた。公私をはっきりとつけたいのだろう、とまで想像できた。
「俺は自室に戻るから、ネージュも早めに寝るように」
「分かりました。ハーブティーのおかげで、最近寝つきが良いんです」
「グンジ特製のハーブティーは効果が良いからな。それじゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
ちゅ、と額に口づけを落として、ジェラールはネージュの寝室から出て行った。足音が通り過ぎて行ったのを聞き届けて、ネージュは大きく息を吐く。どくどくと心臓が煩い。
「…慣れない」
本当に慣れない。額に口づけをされるなんて。両親にすらされたことがないというのに。ネージュは熱がこもる額を抑えながら、よろよろと寝台に腰掛ける。
「はあ…」
ネージュは、額を抑えたまま寝台に横になった。はしたなく寝台の上をごろごろ寝転がいたい気持ちを抑えながら、ネージュは目を閉じる。ジェラールは、ありったけの‘愛’を私に与えようとしている、と思う。
けれど、それらを‘愛’と呼んではみるけれど、ネージュは愛を知らない。愛がどんなものなのか分からない。多分、恐らく、そうだろう、と推測して‘ジェラールから与えられるものを‘愛’と形容付けているだけだ。
愛とは、一体何なのか。
愛とは、一体どういうものなのか。
ネージュには、少しそれが分からない。だから、‘愛’の返し方も分からない。ジェラールに何を返せるのだろう。与えてもらっているばかりのような気がする。
『本当の愛なんてないんでしょう』
ネイオリアの言葉が、頭の中で反響する。言い返した。だって、愛を与えてもらっていると思ったから。でも、理解は出来ていない。
なら、それは‘愛がない’といっても過言ではないのだろうか。片方の一方通行だけの‘愛’で、‘本当の愛’は成り立つのだろうか。
私はジェラールさまに恋をしている。ドキドキして、お顔を見るたびに名前を呼んでもらうたびに嬉しくなる。けれど、それは恋だ。愛ではない。それは言い切れた。
ネージュはごろりと寝返りを打つ。カーテンの隙間から、綺麗な満天の星空が見える。明日も晴れるだろうと、ネージュは思いながら目を閉じた。
やっぱり、どう考えたってネージュには愛の返し方が分からなかった。
――愛って、何なのだろう。