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第36話

「今日はとても天気が良いわねえ、ヴェーガ」


ぐるりと喉を鳴らしたヴェーガに、ネージュは微笑みながら騎士団の本部を歩いていた。中庭が見えるむき出しの廊下を歩きながら、中庭の美しい木や花を見やる。空には見慣れた影―フルスが飛んでいる。その上にも一つ影があるから、また違う子が飛んでいるのだろう。


「あの花、お屋敷にもあったわね。グンジに何の花なのか、帰って聞いてみようかな」


どうにかこうにか、お屋敷での暮らし、使用人たちのいる暮らしに慣れてきたところだ。使用人たちとの関係も、こちらが思うに良好だし、みんなが良くしてくれる。ただお風呂には一人で入りたい。あちこち磨かれるのは、とても恥ずかしい。傷がないわけではない身体を磨いたところで、傷跡はなくなりもしないと言うのに。


『ネージュさまは、とても頑張り屋なのですね』身体を磨きながら、手入れをしながらそう言われて、優しく労わる様にされてしまえば、されるがままになるしかないのだ。私ってチョロいのよ。初めて知ったわ。


ジェラールとの仲も良好とっても良いだろう。なんと、最近は就寝前にネージュの寝室で少しだけ話をするようになった。眠りにつきやすいというハーブティーを飲みながら、少しずつ色々な話をする。柔らかな蝋燭の灯りの下で、寝台に腰掛けて思い出をなぞる時もあるし、今を語ることもある。その日によって、話題が異なった。


寝室は今は別だけれど、そのうち一緒になるのだろうと時折考えるようになった。


――そう、ジェラールとの関係が嫌じゃないのだ。元から、そうだったのだけど、更に結婚相手がジェラールで良かったと思うようになった。まどろっこしい。素直に認めると、ネージュはジェラールに‘恋’をしているのだ。


「…はあ」


ネージュは持っていた医学書を持ち直して、頬が熱くなってきているのを感じた。‘恋’というものを知らないわけではない。十六の頃から前線戦場暮らしだったネージュでも、恋はしていたことがあるのだ。巷では初恋は実らないと言うが、まさにその通りだった。あっけなく、そして寂し気に散っていった。


それは本当に恋だったのかと聞かれたとしても、ネージュには頷ける自信はあった。あれを恋と名付けなければ良かったと、後悔した夜も少なくはないほどに。


けれど、二度目の恋は様子が違う。比較的平和な国で結婚の事情はあれども、ネージュはジェラールに大事にされているようで。ネージュがジェラールといると、必ずと言っていいほど侍女たちが沸き上がる。それがまた怖いのだが、彼女たちは必ず『良い男になりましたね』とジェラールに言うのだ。


つまりは、そういうこと。周りから見て、ネージュはどうやらジェラールに‘愛’されているようで。自分でも、それは恥ずかしいけどなんとなく自覚している。ジェラールは、優しくて柔らかくて温かいのだ。ネージュに触れる手も、名前を呼ぶ声も、全部。


ふいに、前を歩いていたヴェーガが足を止めた。


「ヴェーガ、どうしたの?」


身を低くして、グルルと低い声で唸る。こんな騎士団の本部に、そんな威嚇するような相手がいるなんて。そう思いながら、ネージュは正面を見た。


きらびやかなドレスを身に纏った三人の少女が、廊下を塞いでいる。ネージュは思わず、振り返って後ろを見た。そこには誰もいない。ということは、彼女たちの目的はネージュにあるようで間違いないのだろう。


「あなたがネージュさんですか?」

「え、ええ。そうですけど」


三人のうち右側に居る少女が口を開く。少女の口から出て来たのは、ネージュの名前で。やっぱり、私かあ…。ご令嬢に何かした覚えが全くないのだけど…。と、頭を回転させていると、ふとジェラールの顔が横切った。


「あなたがクロヴィス団長とご結婚されたとか」


あーあ。ジェラールさま関連、ついにご令嬢から来ちゃったや…。


「そうですけど。それが何か?」

「どうしてあなたが結婚されたのか分かりませんが。クロヴィス団長には、ネイオリア様が一番ふさわしいと言うのに!」


左側の少女がそう言い切ると、中央の少女が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。なるほど、この左右の二人は取り巻きという事か。なるほど。そう思いながら、ネージュは心の中で苦笑いを浮かべた。


「ネイオリア様は中央女学院でも学年主席で、生徒会に所属しているんですの!」

「はあ…」

「もちろん魔術にも秀でていますし、クロヴィス家にも釣り合うサンチェノール家のご令嬢ですのよ!」

「どこの馬の骨か分からない、あなたよりもネイオリア様が一番ふさわしいんです!!」


勢いを増してきた二人に、ネイオリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべた。こういう時、どう乗り切れば良いのかまったくもって変わらないのだけど。コレ、どうしたらいいの?なにを言って、どうすれば正解なのかしら。


「治癒魔術しか使えないあなたよりも、ネイオリア様はクロヴィス家のお役に立てるのです」

「ああ。そう言えば、お父様から聞いたのですが。ネージュさん、審問会に掛けられたそうですね。結婚早々クロヴィス家にご迷惑をかけるなんて、なんて迷惑甚だしいのかしら」


それは、自分でも思っていたことだ。ズキリと胸が痛むような気がしたのを、ネージュは見て見ぬフリをした。言いがかりをつけて責められるのは、慣れていることだ。


「――お二人の間に、本当の愛なんてないんでしょう?」

「…はい?」

「だって!出会って数ヵ月にも満たないとお聞きしていますの」

「出会って数ヵ月の結婚には、愛はないと…?」

「ええ!一体どう言いくるめて、ぽっと出のあなたがクロヴィス団長とご結婚されたの?」


随分と失礼ね、この子…。どこのご令嬢かは知らないけど、ジェラールさまに相談した方が良いのかしら。あとで知られたら、また危機感と警戒心がないと言われてしまうし、ゾッとするような人怖な話をされてしまうから、念のために相談はするべきね。ま、言わなくてもフルスが報告しちゃうんだしね。自分から言っておくのが賢い選択なのだ。


「あの、用件がそれでしたら失礼します」

「まあ!何も言わずに逃げるのかしら!」


何を言ったって聞き入れないだろうに、よく言うわ…。ネージュは小さく首を横に振りながら、小さく息を吐いた。


「私、これでも忙しいので失礼します」

「ネイオリア様の言葉を無視するなんて!」

「――…では、ひとつ。人を下に見て誰も彼もに噛みつくのは止めた方が良いですよ。この件、ジェラールさまにご報告させていただきますね」

「なっ!?卑怯よ!」

「卑怯も何も、私は夫に相談するだけです。見知らぬご令嬢が、こう言って来たのです、と」


十五、六歳にもなれば大人の仲間入りとして扱われるが、どうも彼女たちは人を下に見てはいけません、と教わることがなかったのだろう。


貴族のご令嬢がみんな、こうではないと思っているが、少しばかり嫌な方に気持ちが傾いてしまう。きっと、どうしたって彼女たちのようなご令嬢が先に思い浮かぶことだろう。なんにせよ貴族って怖いな、とネージュは久しぶりに思った。


「では、失礼しますね」


気持ち強気に出たものの、良かったのかしら。でも、クロヴィス家の人間としてナメられるわけにはいかないものね…。ジェラールさまに相談して、それから考えるとしましょう。


ネージュはヴェーガの首もとを軽く叩いて、もと来た道を引き返す。別の道から目的地には行きましょうか。ちょっと遅れちゃったな。ジェラールから贈られた懐中時計を見ながら、ネージュは足早に歩き始める。


歯がみする少女の形相を、ネージュは見ていなかった。


ネージュに与えられていた医務室に辿り着いた時、ネージュははっと思い出して、空に向かって声を掛ける。


「あ。フルス!フルス、降りてきて頂戴!」


小さな影が空から降りて、ネージュの近くにあった枝に停まる。キョッと鳴きながら、小首を傾げるフルスの可愛さに、頬が緩んだ。


「あのね、フルス。さっきのことだけど、私が自分でジェラールさまに言うからね?だから、急いで報告しなくて大丈夫よ」


ヴェーガの本当かしら、そんな視線が顔に突き刺さっているような気がしている。


「ジェラールさまには急いで伝えなくても大丈夫だからね?ね?」


フルスの目がヴェーガに向いた。ふたりで何かを相談しているようにも見える。通じるなにかがあるのだろうか。


しっかりと時間をかけて、ふたりは相談したあとネージュを見る。見られたって、ふたりの言葉は分からないのだけど…。察しろと言われても、狼と鳥だし、表情も察しにくいというのに。


「…多分、ふたりは先に報告するということで一致したのね…?」


その通りだと言うように、ヴェーガが吠えた。フルスもばさりと翼を羽ばたかせる。ここにネージュの拒否権はないのだということが、なんとなく分かった。


「じゃあ、私からも言うけど、ということを言っておいてね?絶対よ?」


キョッと鳴いて、フルスは再び空へと飛びあがる。そしてジェラールの執務室がある方向に飛んで行くのを、ネージュとヴェーガは見送った。


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