「ジェラールさま」
「ん?」
「ところどころに、動物の気配がするのですけど…」
「なんだ、気付いたのか」
気付いたのか、ってなんだ。見られている気配がすると思って、意識を向ければそれは人でも魔物でもなく、残るなら動物しか思いつかなくて。何か知っているであろうジェラールに聞けばそう返ってきた。ネージュは思わず半眼になってジェラールを見る。
「ジェラールさま?」
「そんな顔をするな。ただ、家に預けていた鳥を全部この屋敷に移動させたんだ」
「とり」
「五羽程度だが、大きさもそれぞれで、ネージュを観察しろと伝えているから見られている感覚が強いのだろうな」
「…それ、また私につけるって言いませんよね?」
「さあ?」
イタズラに笑うジェラールに、ネージュは大きく息を吐く。どれだけ、私は危機感がないと思われているのだ。そこまで思っているほど、危機感は…。
「君は、危機感がないからなあ」
「そんなことっ」
「やり返せると思っているから、そうなんだろう?」
「う」
そうである。ジェラールの言うことは、少なからず合っている。危機感はなくても、大体の人間ならやり返せる。そう思っている節はある。だが、危機感がないわけではない。ちゃんと、それなりに危機感はあると思っている。
「危機感がある子は、野郎ばかりの馬車に乗ったりしないから」
「え」
「ほら、君は危機感がない。ついでに警戒心もない。困ったなあ」
ジェラールはそう言うと、ネージュの手を強く握った。見上げれば、心配そうな色の強い蘇芳色の目と合う。こんなにも、心配されたことがなくて、ネージュは口を閉じる。言い返す言葉が思いつかない。何を言っても、正解じゃない気がする。
「ネージュ」
「…はい」
「騎士たち相手でも、警戒はしなさい。危機感を持ちなさい。損は無いから」
「…分かりました」
「本当に?」
「はい。ジェラールさまがそうおっしゃるなら」
「…自発的には思わないと言うわけだな」
さて、とネージュから視線を逸らして天井を見るジェラール。ネージュは、そんなジェラールの視線を追いかけて天井を見上げた。天井さえも美しい場所だなと思う。現実逃避だった。
「昼食は預かってきているから、食べながら話でもしようか?」
「ま、まだこの話するんですか…!?」
「君が分かるまで話をするつもりだが」
「…えぇ……」
ネージュは、やるせ無く項垂れた。どれだけ危機感がない、警戒心がないと言われても、一日で身につくものだろうか。身につけば苦労はしないと思う、なんて思っていた数時間前のが嘘のようで。ネージュは、昼食を食べ終わる頃にはしっかりと危機感と警戒心が芽生えていた。だって、人怖な話をされるとは思っていなかった。人怖い。
ーーそう考えれば、ミアをはじめとする街の子供たちも、警戒心がないのだろう。かっこいい騎士団が街を守っているから、悪い人間がいないと思っている。私とはちょっと違うかもしれないけど。
「な、わかっただろう?」
「はい…とても、分かりました」
「今度はちゃんと分かってくれたようで俺も嬉しいよ」
「人が怖くなりましたけどね」
「それも仕方ないことだと、俺は思うけどな」
「…大事な何かを失ったような気がする……」
机に肘をついて頭を抱えれば、ジェラールが笑う。『君には俺がいるから、大丈夫だけど』そう呟いて、ネージュの髪を柔らかく梳くように撫でる。その手が温かくて優しくて。そういえば、ジェラールはネージュにたくさんの‘愛‘を教えてくれているような気がする。ああ、好きだな。そう思って、ネージュは顔を上げられなくなった。
「耳、真っ赤だけど。何考えているんだ?」
「い、いえっ」
「ふぅん?」
するりと外耳を撫でてくるジェラールに、ネージュの肩が跳ね上がって顔が持ち上がる。真っ赤に染まったネージュの顔を、ジェラールは微笑んで見ていた。ジェラールが何を考えているのか、さっぱり分からない。でも、多分、悪いことは考えていないと思う。それが良いことなのかも分からないけど。
「さて、使用人たちが顔を見せる頃合いだな…」
ジェラールが立ち上がって、振り返れば固まった。言葉が途中で途切れたことで、ネージュも一緒になって振り返る。ニマニマと笑みを浮かべた使用人たちが、ネージュとジェラールを見ていた。ワア……。今のやりとりを、いつから見ていたのだろう聞いていたのだろう。なんだか怖い。
「ジェラール様ってあんなに甘ったるい方でしたっけ?」
「いや、マリア様も奥様も言っていたではありませんか。恋を知れば仏頂面も変わる、と」
「いやいや、変わりすぎでは?」
「世間のお嬢様方も目をかっ開くだろうなあ。良い男になりましたな、ジェラール様!」
グッと親指を立てる青年と三人の女性たち。苦笑いするのは屈強な男性たち。ああ。彼等とこれから一緒に住むのだな、そう思いながらネージュは苦笑いして頭を下げた。きゃあ!と女性陣から小さな声が上がる。一体どんな感情なのだろう、それは。
「…あの賑やかなのが、うちの使用人になる連中だ」
「…そのようですね……」
「悪い奴らではないんだ。ただ、ちょっとお茶目というか」
「お茶目」
お茶目、なのだろうか。ちょっとよく分かんない。ネージュは、手元の昼食を片付け始めながら思う。明らかに陽気な雰囲気の彼等と過ごすの、なんだか怖いな。失礼すぎると思うのだが、どうしても恐怖心はある。
「また、怖がってるのか?」
「見知らぬ人と暮らせって言われてるので…」
「あー…まあ、ゆっくり慣れるといい。悪い奴らではないから」
「…はい」
ゆっくり、かなり時間がかかると思うが。ネージュは、遠慮なくジェラールの言葉にうなづいた。だって怖いものは怖いんだもの。私よりも、ジェラールさまをよく知る人たちだ。どんなふうに思われるのかも怖くて。
「そろそろ入ってきたらどうだ?」
「入室許可でたぞー!入ろー!」
あの陽気な青年が真っ先に入ってくる。ビシッと決められた服が、少しばかりチグハグに見えてしまう。
「執事のレオだ。ノクトの息子になる」
「ノクトさんの…」
「ノクトの陽気さを全て持って行ったと、周りに言われているぐらい陽気な奴だ」
「やだなあ、ジェラールさま。父は元からあんな感じですよお」
「はいはい。侍女のエルサ、カトレア、シンリーだ」
茶髪のエルサ、黒髪のカトレア、赤茶のシンリー。まずは髪色で合致させなければと、ネージュはしっかりと外見を目に焼き付けさせる。三人は、きゃあきゃあとネージュを見て沸いているが、それが恐怖心を煽ってくる。何はともあれ、怖い。
「料理人のマルーニ。もう一人来る予定だったんだが、兄上のところに出向してしまってな」
「マルーニです、よろしくお願いしますね、奥様」
料理人とは思えないほど屈強なマルーニ。覚えた。これは間違えようがない。と思っていたら、マルーニの後ろからまた屈強な男が出てきた。
「庭師兼御者のグンジ。確か、マルーニの従兄弟だったか?」
「はい、身内になります。奥様、グンジと申します。どうぞよろしくお願いいたしますね」
「以上だな。妻のネージュだ、怖がりだからあまり怖がらせないでやってくれ」
「奥様、よろしくお願いしまーす!」
「皆様、若輩者ではございますが、何卒よろしくお願いいたします」
「まあまあ、奥様!もっと気軽に!」
そう言ったのは茶髪のエルサだ。レオの次に陽気なのかも知れない。気軽になんてできない。ネージュは苦笑いを浮かべて、ジェラールの側に寄る。ジェラールの側なら、強くなれる気がするのだ。でも、今回はちょっと無理っぽい。
「人見知りはないんだろう?」
「治癒魔術師なのでそれはないですけど…」
「じゃあ、本当の怖がりということか」
あなたの関係者だからです、とは言えずにネージュはジェラールから視線を逸らすのだった。