一人で過ごすのも最後の夜、ネージュはぼんやりと月明りを浴びながら考えていた。月はいつの間にか真上に登っていて、ネージュを照らす。
『ネージュ・アルナルディの犯した罪は、聖女に対する殺人未遂であるとのこと』その言葉が、ずっと頭から離れない。ジェラールの驚いた雰囲気もまた、忘れることが出来ずにいた。
どう思ったのか、聞いていなかった。
「はあ…」
グルルと喉を鳴らしてやって来たヴェーガが、座り込むネージュの膝に顔を乗せた。そして、美しい瞳をネージュに向ける。
「どうしたのって…?そうねえ、どうしちゃったのかなあ」
こんなことで悩むことなんて、今までなかった。だって、独り身だったし。誰かとこういう関係になることもなかった。
――恋をするなんて思ってもいなかったから。
「ああ……」
ヴェーガの毛皮に顔を埋めて、ネージュは大きく息を吐く。柔らかな匂いが鼻孔をくすぐって、心を落ち着かせていくのを感じながら、ネージュは目を閉じる。
「うー…」
言葉が出て来ない。相談できるような人も居ないし、もどかしさを自分で消化する方法しかなくて。どうしましょう。明日から、ジェラールさまと一緒に住むのに。
鼓動を刻むヴェーガの心音を聞いていると、コツン、コツンと窓が何かに当たる音がする。顔を上げて、窓の外を見やれば一羽の鳥が手すりに留まっていた。
「夜鳥種…?」
その鳥は、ネージュを見ると紙を巻いた足を差し出した。そろりと手を伸ばして、その紙を解いて、目を落とす。ジェラールの字で、『下を見て』と書かれていた。
下…?
手すりから体を伸ばして、下を覗く。暗闇でも煌めく蘇芳色の目とかち合った。
「えっ」
「やっぱり、起きていたか」
こっそりと落とされる声が届いて、ネージュはカーディガンを羽織って部屋を飛び出す。夜の匂いが、ネージュの頬をそろりと撫でて行く。
「ジェラールさま、なんで、こんな」
「君が起きていると思って。日中会った時も、何か言いたそうな顔をしていただろう?」
「そ、そんな顔していましたか?」
「ああ。気になって、来てみたんだ」
「…ジェラールさまは、もしかして仕事帰りですか?」
「まあね。明日、王城に出さなければならない書類を出し忘れて居た奴が居てな」
疲れたように息を吐くジェラールに、ネージュは小さく苦笑いを浮かべた。それは、大変だ。こんな月が真上に来る時間まで、残業だなんて。
「ジェラールさま、お夜食食べますか?」
「夜食?」
「はい。明日、お引越しでしょう?食材の片づけをしているんですが、干し肉とパンが残ってて」
「じゃあ、いただこうかな」
「ぜひ」
「フルス、君は待っていろ」
「ふふ。フルス、あなたもいらっしゃい。ジェラールさま、この子は干し肉食べますか?」
「食べるが…」
「ヴェーガの干し肉があるんです。ヴェーガはちょっと飽きてて…」
ジェラールは、ネージュをちらりと見たあと口笛を吹いてフルスを呼んだ。ネージュの部屋の手すりから降りて、ジェラールの腕に足を突ける。
「美しい子ですね」
「俺が躾けたんだ」
「まあ!」
「上の二人の兄たちも、鳥を躾けている。父は犬を躾けて、母のお茶会の共につけているぞ」
「何かそういう習わしですか?」
「そうだな。従える側になる時もあるから、それをまず動物を相手に知るんだ」
「…なるほど」
王家の傍系と言っていたこともあるし、そういうこともあるのだろう。ネージュは扉を開けて、暖炉に火をくべて鍋を温める。
「かなり片付いて来たな」
「はい。元々、荷物は少なかったので」
「だが、少しは増えたと言っていただろう?」
「はは…騎士の皆さんが、時折まだ贈り物をくれまして」
「は?」
ジェラールの蘇芳の目が細まるのを、ネージュは目を逸らす。逸らした先で、ヴェーガがフンと鼻息荒く息を吐くのが見えた。墓穴を掘ったな、と言わんばかりの態度だ。
「わ、私は受け取っていませんよ?玄関に置いてあったり、大家さんに頼んでいたり…返そうにも名前が分からなくて」
「なんでもっと早く相談しないんだ」
「バタバタしてたので…」
「もしかして、俺が聞かなければ言わないつもりだったか?」
「いえ!いつかは、相談しようと思っていました…」
「いつか、な」
返答を誤ったらしい。だが、取り返すことは出来ずにネージュは鍋の中をかき混ぜる。
「ネージュ、俺は君の危機感がとても心配だ」
「…う」
「誰彼かまわず、笑顔を振りまくのを止めろとは言わない。言わないが、そのあとまでは優しくしなくて良いと思うんだが。どうだろうか?」
「…はい」
「自己防衛の魔術を使ったことがあるなら、なぜ改善しようと思わない?」
「…冷たくあしらっても、逆に燃え上がってしまう方が居まして」
「……その時は?」
「違う部隊の方が、いつも…」
そうか、とジェラールは低く呟いて椅子に座った。ネージュは、そのジェラールの表情から感情を読み取ることが出来ずにいた。鈍いわけではないけれど、あれこれと考え過ぎているのか、その感動がどれに該当するのか見当がつかないのだ。
「ネージュ、君にフルスをつけようと思うんだが?」
「…え?」
「この子は、俺の躾けた中でも一番優秀なんだ。俺の番だと君のことも教えてある」
「つ、つがい」
「頭も良いから、君に擦り寄ろうとしているやつのことは、俺にも教えてくれるだろう」
微笑むジェラールから感じる圧から逃げるように、椅子の背もたれに留まって小首を傾げるフルスを見た。くるりとした目がネージュを見て、見つめ合う。
「ヴェーガは何をしているんだ?」
「ヴェーガですか?ヴェーガは常に私の影の中にいますけど…」
「ならば、常に姿を見せるようにしておけ。許可しよう。それに、子どもを攫った不審者も、まだ見つかってないんだ」
「…その不審者を建前に、私にヴェーガとフルスをつけようと…?」
「俺の妻は、危機感が薄いようだからなあ」
「う…、そんなに危機感じゃないわけじゃ」
「名前も分からん奴から与えられた物を、家に入れるなって言ってるんだ」
「…反省します」
温まったスープを器に入れて、少し火を通したパンを出す。寄って来たフルスも干し肉をやろうと、平たい皿に肉を切り入れた。
「ジェラールさまも、お肉食べますか?」
「いや、これだけで良い。ネージュは食べないのか?」
「フルスと一緒にお肉齧ります」
「…そうか」
何か言いたそうなジェラールは、そろりとスープにスプーンを入れた。この人は、食事中あまり喋らない。ネージュは、フルスに肉を小さく千切って口元にやる。
「ねえ、フルス。あなたは、どんな子なのかしら?」
肉を噛みながら、フルスはじっとネージュを見た。ネージュもじっとフルスを見る。キョッ、キョキョッと小さく声を上げて、何かをジェラールに言っているようだった。
「随分と可愛らしい啼き声ね。あんまり見ないでって言ってるの?」
「そうだが、よく分かったな」
「本当ですか!」
喜ぶネージュに、フルスはまた何かをジェラールに言う。それを静かに聞いていたヴェーガは立ち上がって、椅子に座るネージュの膝に顎を乗せた。
「ヴェーガ、フルスって言うの。不本意だけど、私につけてくださるんだって」
「本音が出ているぞ」
「だって、自己防衛ぐらいできるのに」
「過信はいけないぞ」
「はあい。でも、家族が増えるって嬉しいですね」
「家族か。君には、一度に多くの家族が出来たな」
「…幸せ者です、本当に」
――ねえ、どう思いましたか?私が聖女のことを殺そうとした女だって聞かされて、どう感じましたか?
そう聞きたい言葉を呑み込んで、ネージュは小さく千切った干し肉をフルスとヴェーガの口元に運ぶのだった。