「おかえりなさいませ、ジェラール様。ようこそいらっしゃいました、ネージュ様」
玄関に並び立つ使用人たちの姿。その様が圧巻すぎて、ネージュは引き返して帰りたくなった。思わずジェラールの手を握り締める。帰りたいけど、手を繋いでいるから帰れない。
「ひえ…」
「大丈夫だ、ネージュ。みんなもただいま」
「お、お邪魔します…」
「ご当主がお待ちですよ、ジェラール様」
「ああ。ネージュ、彼は使用人統括で執事筆頭のノクトだ」
「よろしくお願いしますね、ネージュ様」
「は、い。ネージュです、よろしくお願いします」
片眼鏡を掛けた長髪の男が恭しく頭を下げて、ネージュも倣うように頭を下げた。では、とノクトが玄関の扉を開けて、ネージュはクロヴィス邸に入った。足跡と息を可能な限り殺す。静かに、音を響かせないように。
「ネージュ、そんなに足音も息も殺さなくていい」
「…ぃぇ、むりです」
「そんなか細い声で…。ネージュ、君は意外と怖がりだな」
「初めて知りました…。知らなかった…」
「ははっ、そうか」
真っ直ぐを見て、ネージュは息を細々と吐きだす。ああ、手が震えている。ぎゅうぎゅうとジェラールが握って、まるで緊張が解そうとしているようだった。そのおかげで、ネージュは立てているようなものだった。
「大広間は此処だが、ネージュ。深呼吸を三回」
「はぃ」
すーはー、すーはー、すーはー。深呼吸している間に、ネージュはゆっくりと考える。ジェラールのご両親は、どんな人か知らない。知らないのに、こんなに怯えているのは失礼なことだ。そこまで行きついて、ネージュの小さな震えは止まった。
「大丈夫そうだな」
「はい、もう大丈夫です」
「ノクト、開けてくれ」
「はい」
こくりと頷くネージュを見たノクトが大広間の扉を開ける。ゆらりゆらりと光が煌めき揺らぐのが見えた。
「ただいま戻りました、父上、母上」
「おかえり、ジェラール」
「ネージュさんも、いらっしゃい」
優しそうな夫婦は、ふたりは寄り添ってネージュとジェラールを出迎えた。ネージュを見る目は、想像と違って柔らかくて優しかった。まるで、ジェラールがネージュを見る目と同じようで。
「はじめまして、ネージュ・アルナルディです」
「ネージュ、君はもうクロヴィスだが?」
「あっ」
「はは、まだ慣れてないか?」
「な、慣れと言いますが…、あの、ご両親に認められていないのに、クロヴィスの姓を名乗るのはどうかと思うのですが」
「またそんなことを言うのか。疑心が強すぎないか?」
ぱちんと口を空いた手のひらで覆えば、ジェラールはまた笑った。確かに、書類上はクロヴィスの姓だけど…。ネージュは、下からジェラールを見上げてこてりと小首を傾げる。
「疑心…そうでしょうか?」
「あぁ、そうだよ。怯えて疑っている。そろそろ俺を信用しないか?」
「う…」
信用している‘つもり’だった。所詮‘つもり’でしかなかった。そのことを、突き詰められたようで、ネージュは目を伏せた。
「ジェラールさまのことは」
「ん?」
「疑ってない、です。けど、やっぱり自分の事なのに受け止められないというか」
「またあとで話し合いだな」
「今日は泊まられるんですか?」
「明日は早いから帰るよ。……なんだ、父上、母上。そんなニヤついて」
ジェラールがネージュから視線を逸らすことで、ネージュは今、此処が、何処なのか、はっきりと再認識した。繋いだ手を放そうとしても、ジェラールは放すことはなく、ネージュは頬が熱くなるのを感じる。
「――いやあ、うちの息子も捨てたもんじゃないなあと思ってな。ネージュさん、はじめまして。父のディルクだ」
「ふふ、熱いわねえ。母のアンドレアよ。よろしくね、ネージュさん」
「…よ、よろしくお願いします」
ああああ、恥ずかしい。恐怖心はもうないけれど、羞恥心が凄い。その羞恥心をやり過ごすことが出来ずに、心臓の鼓動が先走っているような気がする。顔を真っ赤にしているネージュをジェラールやディルク、アンドレアは微笑ましく見った。
「さあさあ、ふたりとも席についてちょうだい!折角の料理が冷めちゃうわ」
「ネージュ、隣に」
「…はぃ」
手を放して一歩踏み出したジェラールが椅子を引いて、ネージュを呼ぶ。あああ、椅子を…あああ。ネージュはそろりと近づいて椅子に座れば、ぽんと軽く肩を叩く。大丈夫だと伝わって来る。が、それはそれで心臓が痛い。
ちゃんと出来るだろうか。そればかりが頭の中をぐるぐると駆けめぐっていく。ちゃんと、できるか。そればかり。
「ネージュさん、肩の力抜いて大丈夫だよ」
ディルクの言葉に、ネージュの肩はキュッと持ち上がる。その間違いなく肩に力が入った姿に、ジェラールとアンドレアは噴き出した。ディルクも、くつくつと笑いが噛み殺せていない。
「じぇ、ジェラールさまあ…」
「はははっ」
「ジェラールさまああ」
右隣に座るジェラールの腕に縋り付いた。もうだめだ、私はだめ。帰りたい。ヴェーガの美しい毛並みに顔を埋めて吸いたい。お日様で温まった優しい香りを肺いっぱいに吸いたい。
「ふふ、ネージュさん、大丈夫よ、大丈夫」
「っ」
ぎゅぅぅとジェラールの腕を握りしめながら、おそるおそると正面に座るアンドレアを見た。優しい目がネージュを見ている。それはアンドレアだけじゃない。ディルクも、優しい目でネージュを見ていた。その優しい目にジェラールの根源をみた気がして。
「恥ずかしいのは俺のせいにしていいから、な?」
「…ぅ」
「そうよ。なんでも、ジェラールのせいにしていいのよ」
そのアンドレアの言葉が、助け船のように思えても、それがどうしても羞恥心をあおってくる。でも、引っ掛かった言葉に、ネージュは震える唇を開く。
「な、なんでもは、できないです……。あの、今回の結婚は、私のせいで、」
「ネージュ」
「公爵家であるということも含めて、国王からご当主に婚姻についての通達があった、と思います」
どれだけ機密な内容だと言えども、相手は公爵家だ。なあなあで話をうやむやにすることは出来ないだろう。ネージュは頭が冴えて来るのを感じた。ジェラールから手を放して、膝の上に置く。
「私は、事故物件と言っても良いほどです。故郷の国を、謂れのない罪ですが、永久追放されました。それ以降はただの治癒魔術師である、ということだけを背負って生きて来た、一般市民で、それ以外に取柄なんてなくて…」
「ネージュ、事故物件と言わないという約束をしたはずだが?」
「ジェラールさま、今私は真剣にっ」
「真剣でも何でも、自分を下にする発言はするなと言っているんだ」
「…それでも、私は、クロヴィス家にご迷惑を」
口を開こうとして、コトンと音がしたことでネージュは口を閉じた。ネージュは音がした先の、ディルクを見る。ディルクは、ひどく穏やかな顔をしていた。
「――ネージュさん、君がジェラールの部下を幾度となく救ったことは聞いている。ワイバーンの襲撃直後に、救護所の助けもしたってことも聞いているんだ。その後の救護活動のこともね」
「私は、ネージュさんがジェラールのお嫁様になってくれるの、とても嬉しいわあ。こんなジェラールの一面を見たことないもの」
「お前な…。とにかく、クロヴィス家当主としても、ネージュさんのクロヴィス家入りを嬉しく思うよ。ようこそ、クロヴィス家へ」
ゆらりと蝋燭が揺らめいた。頬を伝っていく、冷たいもの。目の前が、ゆらゆらと揺れる。ディルクとアンドレアは微笑んでいて、ジェラールがハンカチをネージュに渡す。
「お義母さん、お義父さんって呼んでね。可愛い娘が出来たわ、あなた!」
「ああ。素敵な娘ができたな」
ネージュは、ジェラールからハンカチを受け取って涙を拭う。溢れる涙は止まることを知らないのか、ずっと流れた。
「ネージュ、だから言っただろう。心配することはないと」
「…っはい」
肩を引き寄せられ、ネージュはジェラールに擦り寄った。ふわりとネージュの冷えた手を包み込むのは、アンドレアだった。
「ネージュちゃん、私たちの可愛い娘、よろしくね」
「――はい、よろしくお願いします」
それはネージュの心からの言葉だった。