カランと入り口の鐘が鳴るのと同時に、布の裁断をしている女性が振り返った。
「あら、ネージュちゃんに、…ジェラール?」
「マリアさん…?」
見知った顔、それは花祭りで顔の赤みを気にしていた夫人―マリアだった。天幕にも時折訪ねて来ていて、しっかりとした知り合いだ。まさか、ジェラールの叔母だとは思わなかったが。
ベラといいマリアといい、家族構成には驚かされてばかりだ。ネージュを見下げるジェラールの顔は少し驚いているように見えた。
「ネージュ、知り合いか?」
「はい。花祭りで知り合いました」
「そうか、なら話が早い。叔母上、彼女と結婚したんだ」
「…んっ?」
「ジェラールさま…。また、そんな突拍子もなく…」
ジェラールの言葉に目をまん丸にしたマリア。そりゃそうだとネージュは小さく息を吐いた。この人、エクトルさんやアドルフさんに伝えた時もそうだけど、どうしてか前置きがない。ネージュはジェラールを見た後、ネージュを見やる。
「ジェラール…貴方が、結婚したの?ネージュちゃんと?」
「そうだが?」
「…まあ、それはおめでとう!それで、ジェラールは何を求めてうちに来たのかしら?」
「ネージュの服だ。家に連れて行くんだが、仕事着では行けないと」
「それはそうよ!仕事着で良いなんて思うの貴方だけよ」
「すみません、マリアさん。お店も閉めてるのに」
「いいのよお、察しの悪いジェラールが悪いんだもの」
騎士団長にそう言えるのはマリアぐらいではないか、そう思いながらネージュは頭を下げた。だが、やっぱり閉店後に訪れる店には申し訳なさがある。
そして、挨拶と結婚の手順が逆なことについて何も言わないマリアに、ネージュは心から感謝した。きっと、いつか王命による契約結婚だとバレてしまうだろう。けど、バレるその時までは、今を噛み締めたい…。
「そうねえ、ネージュちゃんに似合う服は…。んー、綺麗な髪だしねえ、黒を選んでも映えるでしょうけど…」
「叔母上、出来る限り早めに頼みたいんだが」
「はいはい。やっぱりこれね」
マリアはそう言って、出してきたのは青と白のワンピースだった。小さなリボンが着いているワンピースを手渡されて、ネージュは目を瞬かせる。
「可愛い…」
「でしょ。昔、姉さんが紙に書き起こしてたのを最近作ってみたの」
「母上の服か?」
「そうね。流行りを無視してるから、私の自己満足で作っただけなんだけど…。ネージュちゃんにはきっと似合うと思うの。着替えてらっしゃい」
「はい」
奥の試着室に通されて、ネージュは真新しいワンピースに着替える。綺麗に磨かれた鏡の前で、ネージュはワンピースの裾を摘まんで少しだけ広げて見せた。可愛い。服には、無頓着だった。なにせ、オシャレを楽しむような年代は治癒魔術師として駆け抜けてきた前線暮らしで、それ以降には渡り鳥みたいな暮らしをしてきたからだ。そういえば、こんな可愛い服を着たのは初めてかもしれない。
「…に、あうかな」
小さな呟き。鏡の前でくるりと回ってみる。ジェラールの母親が書き起こした服、可愛いからこそ自信がなかった。試着室から出るのが、ちょっとだけ怖くてネージュはたたらを踏む。
「ネージュ?大丈夫か?」
「あっ、はい!出ます」
ジェラールの声にひらりと裾を翻して、ネージュは思い切って試着室から出た。物陰からおずおずと顔を出せば、ジェラールが手招きをする。
「おいで、ネージュ」
「…はい」
勇気をもって一歩を踏み出せば、視界の隅で白の裾が揺れる。一歩目以降がなかなか踏み出せないネージュに、ジェラールが近付いて来てネージュの手を取った。おずおずと見上げれば、ジェラールは目元を緩めていた。
「似合っている」
「本当、ですか…?」
「あぁ。可愛いよ」
「…ありがとうございます」
ネージュとジェラールのこそこそとした会話に、マリアが目を見張っている。わなわなと唇を震わせて、ジェラールを指さす。その指も震えていて、結婚報告以上に驚いているようだった。
「ジェラール…貴方、女の子をちゃんと褒めること出来たのね!?」
「…失礼な人だな。褒めることぐらいできるが?」
「ただのおっとりした仏頂面男かと思っていたのに!あらあらまあまあ!」
「甥に向かって言うことか?」
むっとするジェラールに、ネージュは慌てて握った手に力を入れる。ジェラールの視線がネージュに落ちて来るのを受け止めて、ネージュはぎこちなく笑ってみせる。
「ジェラールさまは、ちゃんと私を褒めてくれるんです」
「まあ、そうなのねえ。ふふ、その服は私が贈るわ。もちろん、ちゃんとした贈り物はあとでさせて頂戴ね」
「そんな」
「ネージュちゃんのおかげで、肌艶が良いって褒められてるのよ」
マリアは頬に当てて笑う。ネージュもつられて頬を緩めた。肌艶が良いのは、マリアが頑張っているからなのに。ネージュはそのお手伝いをしているだけだ。
「甥っ子に可愛いお嫁さんが出来て良かったわあ。さ、姉さんのところに行くんでしょう?気をつけてね」
「はい。本当にありがとうございます」
「あ、天幕の診療はどうするの?」
「一応今日で私は引くことになりました。これから騎士団でお勤めを」
「そうなのね。残念だわ。でも、ネージュちゃんなら、騎士団でも通用すると思うから頑張ってね」
「はい」
「それじゃあ、叔母上。また、ネージュのドレスを頼みに来るから」
「まあ!待って頂戴、私に結婚式のドレスを頼むってこと!?」
「ああ」
「まあまあまあ!!」
あら?ジェラールさまが私を褒めたこと以上の驚きと喜びようだわ…。ジェラールとマリアを交互に見やるネージュは、ジェラールの言った言葉を思い返しながら、ぽっと頬を染めた。
結婚式のドレス…。胸がほこほこと温かくなるのを感じる。貴族の結婚式は準備に大体一年ほど掛かるらしい。きっと、それまでに、私はジェラールさまに恋に落ちる。今でさえ、こんなに嬉しくて胸が温かくなるのに。恋に落ちない筈がないわ。
「詳しいことはまた今度聞くわね、ほら行ってらっしゃい」
「それでは、また」
「マリアさん、ありがとうございました。また来ますね」
「ええ、ネージュちゃんもジェラールも待ってるわ」
マリアの店をあとにしたネージュとジェラールは、再び馬車に揺られていた。
――ガタゴトと揺れる馬車の速度と心臓の鼓動を刻む速度が同じような気がして、ネージュは深呼吸をクリい返す。それに気付いたジェラールが口を開く。
「どうした?」
「あー…緊張してまして…」
「緊張?ネージュは顔には出ないんだな」
「…治癒魔術師が強張った顔をして処置をするの、すごく心配になりませんか?」
「まあ、心配にはなるが…」
「なので、特に緊張は顔に出ないようにしているのです」
「そういう訓練もあったのか?」
「訓練というより、教えですかね。常に笑顔たれ、と」
「笑顔、か」
「一番安心するとのことで」
なるほどな、と呟いたジェラールの何気ない会話にネージュは安心感を覚えた。騎士団長という役職に就いていることもあるのだろう。ジェラールが『大丈夫』だと言うのなら、『大丈夫』なのだと思える。それは、凄いことで。
だから、ネージュが騎士団と知り合うきっかけとなったあの時。あの編成隊の騎士たちは、ジェラールの姿を見た時に喜び勇み声を上げたのだろう。ジェラールを見れば、大丈夫だと思えるから。
「そんなに心配しなくても、ネージュを取って食ったりはしない。本当のことは話すことになるが、何を言われても俺はネージュの味方だ」
「…ありがとうございます、ジェラールさま」
ゴトンと音を立てて、馬車が止まる。外から御者の『着きましたよ』という声がする。心臓が煩くて、震える手を握り絞めた。どんなにジェラールが居ても、こればかりは緊張が勝った。
「行こう」
ジェラールは安心させるようにネージュの冷えた手を握り締めて、馬車から一歩外へと踏み出した。