「えっと、引継ぎもこれで大丈夫だと思います」
「うん。紙でも引継ぎしてくれてあるから、大丈夫ね。何かあったら連絡してもいいかしら?」
「あ、はい。大丈夫ですよ。えっと、住所が…」
「――邪魔しても?」
「まあ、クロヴィス団長」
ネージュが住所を言おうとした瞬間、ジェラールが天幕の入り口を開けて顔を覗かせる。女医の目が輝くのを間近で見て、ネージュは苦笑いを零した。
やっぱり慕われてるのね、ジェラールさまって。
「どうかされたんですか?」
「妻を迎えに」
「…妻?」
「ああ」
きょとんとする女医のレーナは、苦笑いを浮かべているネージュとジェラールを見比べた。そういえば朝も似たような光景を見たなあ、なんて思いながらネージュは持っていた患者たちの診断書を机に置く。
「えっ、えっ、えっー!!?」
ひと際大きな声がレーナから出て、それは天幕の外にも響いたのだろう。『どうしたの?』『ネージュちゃんの天幕からだな』という声がちらほらと聞こえて来る。
「あれ、珍しいですね。クロヴィス団長が来られるなんて」
「妻を迎えに来たんだ。実家で食事をする予定でね」
「…つ、ま?」
ジェラールが振り返って、天幕の外で話をする。ああ、これで私がジェラールさまと結婚したことが一瞬で広まるわ…。いえ、いつかは分かることなのだけど…。結婚した、昨日の今日でこれは良いのかしら…。
「ネ、ネ、ネ、ネージュちゃんが結婚!?」
「あわわわわ」
レーナにガシッと肩を掴まれて、ネージュはそのまま前後に揺さぶられる。レーナの声は大きいままで、それはしっかりと天幕の外にいる人たちの耳にも届いていた。
「えっ、ネージュちゃんが!?」
「ネージュちゃんがクロヴィス団長と結婚したんだって!」
「――今まで妻が世話になったから、礼を言いに来たんだ。ありがとう」
「っきゃああああ!!」
「ああああああ!!」
ジェラールがそう言えば、天幕の外から絶叫にも似た歓声が響いた。なんか声の数が、さっきよりも多い気がする。天幕の外から出るのが何だか怖い。ネージュがそう思っていると、ジェラールから手が伸ばされる。
「ネージュ、帰るぞ」
「…はい」
「まあ…」
レーナの生温かな視線を感じながら、ジェラールの手を握る。引き寄せられて、ネージュはジェラールの隣に立った。まじまじと揃っているところを見られるのは、なんだか気恥ずかしい。
「わ、私先に外出てるわね!」
「えっ」
にこやかに天幕から出て行くレーナに、ネージュはもう何も言えなくなった。恥ずかしい、って声を大にして言えるかもしれない。恥ずかしい。
「…ジェラールさま」
「ん、なんだ?」
「結婚したことって本当に今、公表しなきゃならないんですか…?」
「あー」
見上げれば、ジェラールの蘇芳色の目とかち合う。優しい目に見下ろされていることに気付いて、更に恥ずかしくなる。この人、こんなに柔らかな目をしてたかしら…。そう言うほど、知りもしないのだけど。
「うちの妻は、どうやら人気者らしいからな」
ジェラールはひどくおっとりとした声音で言う。唇の端を少しだけ持ち上げて、空いた手でネージュの頭を撫でた。
「最終日だって他の住民にも伝えていたのか?」
「もしかしたら、という風にお伝えをしていたのですが、何かありましたか?」
「花束を抱えた男たちがうろついていていたぞ」
「……それ、別に私目当てとは限らないのでは?」
「そうとも限らんよ。見てごらん、あちこちで散ってる」
頭を撫でた手が、ちらりと天幕の入り口の布を捲る。あちこちに突っ伏している男たちが見えた。花も散っているのが見える。そして、それをお面白がるように見ているレーナたちもいた。喜劇の小さな一場面を見ているようで。
「ウーン…」
「なんだ、それとも意中の男でもいるのか?」
「いえ!そのような方はいませんが」
「なら結構。まあ、そういう男が現れても今更遅いがな」
フッと笑うジェラールに、ネージュは首を横に振る。もう心に決めたのだ。ちゃんと、見失わずに着いて行く人を決めた。ネージュは繋いでいる手に力を込める。
「そんな。私はジェラールさまについていくと、決めたのです。他の殿方なんて知りません」
「そうか」
手を繋いで天幕の影から寄り添って外を眺めているネージュとジェラールを、今か今かと待ち構えているのが、なんとなく分かる。ネージュの言葉を聞き取りやすいように、大きな背を屈めて話すジェラール。その、微笑みながら頬を染めている仲の良い新婚夫婦の姿に、誰も彼もの視線が集まっていた。
「私、此処から出れないです」
「そうか?」
「恥ずかしい…」
「出なきゃ帰れないぞ?」
「…うー」
「俺の影に隠れていると良い」
ジェラールの言葉に、ネージュは少しだけ考えて首を横に振った。それじゃあ、駄目だと分かっている。恥ずかしくても、ちゃんと隣に立たなければならない。恥ずかしいけど…。それが、ジェラールのためでもあると知っているから。
「…行きます」
「無理してないか?」
「大丈夫ですよ、覚悟括った女は強いんですから」
そう言って、ネージュは天幕の外へと一歩を踏み出した。ざわめきと視線にさらされる。やっぱり駄目だわ、恥ずかしい。もう暫くは、此処に顔出しできない気がする。
「ネージュさん、良い旦那さん捕まえたわね!」
「…アハハ、そうですね」
歓声とともに飛んでくる野次のような声に、ネージュは受け入れてくれているという事実だけを噛み締めることにした。ジェラールさまとの結婚を、祝福してくれる人がいるなんて思ってもなかったから。
でもまあ、正しくは‘国家に捕まった’が正しいかもしれないが。
「それじゃあネージュ、行くか」
「はい、ジェラールさま。みなさん、今までありがとうございました!」
集まった住民たちに頭を下げる。
「こちらこそ、ありがとうー!」
「幸せになるのよー!!」
「団長さん、ネージュちゃんを幸せにしてあげてねー!」
婦人たちの声に、ジェラールも頭を下げた。『必ず幸せにします』と返して。すると、黄色い悲鳴があがる。そのなかには、頬を赤く少女たちの姿もある。きっと、ネージュのような結婚を憧れるのだろう。小さな町の流れ者の薬師が、騎士団長と結婚するなんて夢物語みたいなものだ。
視線と歓声を浴びながら、ネージュとジェラールは広間を後にした。夕焼けの中、二人並んで歩く。少し前も、こんな時間を過ごしたように思う。あれは、ただの迎えだったけれど…。いや、結婚の話をされたな。あれから、数日しか経っていない。驚きだ。
少し歩いた先に用意されていた馬車の扉を、御者が開ける前にジェラールが開けた。
「どうぞ」
「ありがとうございます。あの、この格好で良いんですか?といっても、ドレスとか持ってないんですけど…」
「かまわんよ。俺も君も仕事帰りだから、それを承知での招待でもある。だが、ケープだけは脱いでおくか」
「本当に良いんですか?」
「大丈夫だ。仕事には理解があるからな。魔物の体液まみれで帰っても、嫌な顔一つしない。寧ろ、洗濯係の侍女が嫌な顔をしたぐらいだ」
「まあ…」
となると、使用人の方々に嫌な顔をされる場合があるのでは?ネージュはそう思いながら、ケープのボタンを外す。騎士団の紋章が光るようになったケープは、故郷に居た頃から使っている。もう替え時かもしれないとぼんやりと思った。
「気になるか?」
「…初めての顔合わせなのですよ?」
「既製品になるが構わないなら、衣装屋に寄ろう」
「ですが、どこも閉店してるのでは?」
「此処は首都だぞ?復興に合わせて夜会をする貴族も出て来たから、それを繕うのに店員は居る。表は客が入らないように閉めているだけだ」
「それを閉店というのでは…」
大丈夫だと頷くジェラールは、まだ続けるのだろう口を開いた。
「仕事帰りに夜会に出ることもあったからな、その時に世話になった店がある。うちの母親の妹夫婦がしているんだ」
「お義母さまの?」
「ああ。前にも言わなかったか?うちは自由恋愛主義だと」
「お聞きしました」
「布を裁断する母に父が惚れたのがきっかけだからな。だから、うちの母は一般の市民だ」
「そうなのですか?」
布を裁断する女性に惚れるとはどういう場面なのだろう。ネージュは不思議に思いながら、御者に声を掛けるジェラールの背を見ていた。
「母たちより先に、叔母に合うが大丈夫か?」
「…それを言われるとなんだか大丈夫じゃなくなってきました」
「ははっ、気さくな人たちだから大丈夫だ。それに、あれだけの住人たちに好かれているんだから、大丈夫だよ」
「…そうでしょうか…」
ガタン、と馬車が向きを変えたのを感じる。それからしばらく走った後、馬車が止まった。今度は御者が扉を開けて、ジェラールが先に降りる。手を伸ばされるのを取りながら、ネージュも馬車を下りた。
「表は締まっているからな、裏口から入るぞ」
看板の灯りは落ちているが、店舗の中は明かりが灯っていた。中で作業をしているのだろう、人影がうろうろとしているのが見える。それを見て、ジェラールはネージュの手を引いて店舗の裏側に回った。