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第26話

ネージュとジェラールが、婚姻届を提出した翌日。


「ネージュと結婚したから」


朝礼が終わった後、ジェラールの執務室に呼ばれていたネージュとアドルフは突然のジェラールの言葉に固まった。とても、突然すぎる言葉に何を言ったのか分からなかった。


「…んえ?」


ネージュは、前置きのないジェラールの言葉を時間をかけてなんとか理解したあと、目をまん丸にしてジェラールを見た。


それを言うの今であってます?ネージュはそう思いながら、ぽかんと口を開けたまま固まっているアドルフやエクトルを見る。ふたりは状況が呑み込めていなくて、理解も出来ていない様子だった。


無理もないと思う。

いきなり上司が結婚したと言うのだから…。しかも、その相手が私だし…。


「ネージュ、おいで」

「あ、はい」


立ち尽くすネージュをジェラールが呼んで、空いた隣の席に腰を下ろす。理解が追い付いていなさそうなアドルフも、ひとまずネージュに倣って向かいの席に座り込んだ。そして、ニマニマと笑みを浮かべる。あ、この人ジェラールさまが言ったこと理解してるわ。


一人立ち尽くすエクトルは、一度目を閉じて天井を向く。一拍、二拍、三拍をおいて目を開けて再びジェラールを見た。それでも、困惑の色が強くて。


「え?え?」


きょとんとした顔のエクトルというのは、なかなか見物かもしれない。嫌っているネージュが、まさか敬愛するジェラールと結婚したというのは、エクトルからしたら悲報に違いないだろう。


ことを理解し始めたエクトルは、口をぱくぱくさせながら、ネージュとジェラールを交互に見やる。どうやらそれ以上の言葉が出て来ないらしい。それと対照的に、一緒に話を聞いていたアドルフはこれでもかと目を輝かせていた。


「わあ…!本当ですか?!いつから、そういう関係に!?」


知り合って間もないですよねと言外に告げるアドルフに、大きく溜息を吐いたのはジェラールだった。言うのを早まったかなと言わんばかりの表情で、隣に座っていたネージュは苦笑いを浮かべた。


「俺の一目惚れだが?」


まあ。国絡みの結婚だということは出来ないから、そういうことにするのだろう。だが、一目惚れとは。目を瞬かせるネージュの手の甲を、ジェラールはそろりと撫でた。


「団長の!?今までそんな素振り、全然見せなかったじゃないですかあ!まさか団長に出し抜かれるなんて、悔しがる奴らばっかりですよ」

「引け開かすものでもないだろう」

「まあそうですけどお…。いきなり結婚とはやりますね、団長」

「うるさい」

「ネージュさんは、交際期間とかなくて良かったんですか?」

「えっ」


まさかの問いかけに、ネージュの思考が止まる。自分にその矛先が向くとは思わず、うろうろと視線を彷徨わせる。どうしよう、そう思っているとジェラールがネージュの手の甲をもう一度そろりと撫でて、話を切り上げるように書類を振った。


「アドルフ、納得してくれた上での結婚だが?」

「えーっ、だってお付き合いのキラキラした期間って必要じゃないですか?」

「…そうなのか、ネージュ?」

「いえ…。自分が結婚できるとは思っていなかったので、特には…」

「でも、順序がおかしいですよ。まあ、これから新婚さんですしぃ、仕事もほどほどにして早めの帰宅を心がけてくださいね!」

「お前にそこまで言われる筋合いは…」


呆れたようにぼやくジェラールに、アドルフはしたりと笑う。これで、アドルフの追及は止まったのだった。


「…はあ。ネージュ、黒魔術を書き記した紙が届いたぞ」

「あ、はい。お預かりします」

「何かあれば逐一報告するように」

「分かりました」


古い洋紙に書き記した魔術陣を見ながら、ネージュは頷いた。それで話を逸らしたつもりなのだろうか。何も言わなくなったアドルフだが、依然とニマニマとした顔でネージュとジラールを見比べるし、エクトルに至ってはネージュを睨み殺す勢いで見ていた。


「…ジェラールさま」

「なんだ?」

「やはり、いきなり話すなんて無理があるのでは?」

「そうか?」

「えぇ…」


ジェラールの真っすぐな視線に、ネージュは苦笑いを零す。もう少し、順を追ってというか出来るなら、報告はもう少し待ってからでも良かったでも良かったのでは…。ご両親にご挨拶も出来ていないのに、幼馴染だというエクトルに先に言うなんて。


「だが、もう既に夫婦なのは事実だからな。外野が何を言おうとも関係ないさ」


その‘外野’が今にも怒り出しそうなんですけどね…。ジェラールに、ネージュの言いたいことが伝わるにはまだ先のようだ。


「いつ、婚姻届を?」

「えっ」

「いつ?」


無表情のエクトルが静かに言葉を落とす。凄い、これだけで怖いと思わせることができるなんて。怖いなあ、と思うだけでそこに本当の恐怖はない。本当の恐怖をネージュは知っているから、そこまで怖いと思うことはないのだが。


それはさておき、エクトルに見据えられているネージュは少し考えたあと口を開く。


「き、昨日ですけど」

「ふうん?」


それ以降、口を閉じたエクトルにネージュは、小首を傾げる。何が言いたいのだ。何も言わず、品定めするかのように見る。心の中で、どんな罵詈雑言が溢れているのだろう。ジェラールと結婚したことで、もっと嫌われたわけだが。


「エクトル、ネージュを睨まないで仕事に行け。アドルフも」

「えっ!?他に何か言いたいことあるから、俺等呼んだんでしょ!?」

「話は済んだが?」

「いやいや、何も済んでないです!ネージュさんとご結婚されて、それで?!」


ジェラールは大きく息を吐いて、正面に座るアドルフを見た。ネージュはそれを横からちらりと見る。本当にそれ以上を話すつもりはなかったのだと、なんとなく分かる。仕事以外の事はあまり喋らない性格なのだろう。


「二人で一緒に住むんですよね!?一緒に出勤とか!?わあ、楽しみだなあ!!」


勝手に妄想して勝手に盛り上がるアドルフに、ネージュは顔が引き攣っていく。凄い、何が楽しみなのか全然分からない。エクトルとは違った意味で恐怖を抱いてしまう。ネージュは、アドルフに引きながら思わずジェラール側に身を寄せた。


「ジェラールさま、アドルフさんって…」

「お前の前では猫を被っていただけだな」

「まあ…」

「かなり分厚い皮だったようだが、これで剝がれたぞ」


ジェラールに小さな声で問いかければ、ジェラールは溜め息交じりに答える。随分と分厚い皮を被っていたようで、しきりに興奮した様にアドルフは喋っていた。それが、癪に障るのはエクトルで。苛々したような顔になっていくのを、ネージュは見た。


さっさと退散させてもらおう。


「…えっと、私はこれで失礼しても良いですか?今日で、中央区の診察をするのは最後なので、ご挨拶と引継ぎをしなければならなくて」

「分かった。帰りは迎えに行くから」

「分かりました。お待ちしてますね」

「あぁ。それと――今夜、食事に実家に帰る。ネージュもおいで」


耳にささやかれる言葉に、ネージュはピシリと固まった。この人、本当に今言うの?ってときに言うよね。心臓が跳ねるのが、なんだか痛い。今日一日緊張して過ごさなければならない、という事実。気が遠くなる。


「ネージュ?」

「あっ、いえ、分かりました」

「気負うなよ」

「…はい」


ふいに手を上げたジェラールが、ネージュの髪を梳くように頭を撫でる。それは、とても優しい手つきでネージュの強張っていた顔が緩んでいく。アドルフの方から、なんだか気持ちの悪い歓声が聞こえるのは、聞いていないことにして。


「それじゃあ、いってきます」

「いってらっしゃい」


立ち上がってアドルフとエクトルに頭を下げたあと、ネージュはジェラールの執務室を出た。食事会かあ…。公爵家だものね…、礼儀思い出しておかなくちゃ…。


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