[ジェラール視点]
教会から出てから、ずっと沈黙が続いていた。ガタゴトと車輪が大地を踏みしめる音だけが、沈黙の馬車の中に響く。ジェラールは、ネージュから目を逸らして窓の外を見ていた。一体、なにを言えばいいのだろうか。
多分、ネージュはネオについて何か気付いている。だが、何も言わなかったのは、俺の面子のためか。気付かないフリを選んだのは、賢い選択だった。
神父でもあり、国の尋問官でもあるネオの所に連れて行ったのは、ただ単純な思惑があった。ネオにネージュのことを暴かせようとした。奴のところに連れて行くことは、気が進まなかったがそれは言い訳だ。
ネージュが、この国に馴染んだ理由を知りたがった国王からの指示があったのだ。しかし、口下手な自分では役不足だからと、書類提出を体のいい理由にしてネオのもとへ連れて行った。
ネオであるなら、暴けるだろうと。結果は、想像していたものと大して違わなかったが。しかし、ネージュは普段の穏やかさを隠して、僅かな敵意をネオに見せていたのは新たな発見だったな。
しかし、あの町は本当に薬師を必要としていた。何度も国からの応援を要請していたが、その要請も叶わず、年老いた老婆一人が頑張っていた。今は、ネージュの代わりとして薬師が出向いているが、最初は不満だらけで散々な目にあったと聞いている。
そこまで、ネージュを必要として、町をあげてネージュを愛していたのだ。ネージュは気付いていないようだけれど。
「…ジェラールさま」
「なんだ」
沈黙のなか、先に口を開いたのはネージュだった。綺麗な空と同じ青い色の目が、窓の外を見ていたジェラールを静かに見ている。いつから見られていたのか、気付かなかった。
「ジェラールさまは、何がお好きですか?食べ物でも、何でも良いです」
「え?」
「好きなものです。マーサさんのご飯でも、お母様のご飯でも何でも良いです。教えてくださいませんか?」
突然の質問に、次の言葉が出て来ない。好きなものを聞かれたのか、俺は。しかし例えが食事ばかりだなあ。食べ物と言われたら、それしか思い浮かばない。どうしてくれようか。にしても、好きなものか。
「…待て、どうして選択肢にマーサの料理がある?」
「だってマーサさんの食事を摂られているでしょう?だから、好きなものもあるかな、と思って」
「そうか…。確かに、マーサの食事は美味しいが」
「ふふ。でも、やっぱり一番はお母様のご飯ですか?」
「…まあ。長く食べているからな」
良いなあ、と小さな呟きを聞き取ってジェラールはネージュを見た。青色の目とかち合って、ゆっくりと微笑んだ。
「…えっと、私の両親は、十歳の時に流行り病で揃って他界しました」
「そんなに早くにか」
「はい。故郷の国は、慢性的な流行り病があるのです。丁度、大流行で変異体が出た年だったので、多くの人たちが亡くなりました。そこに、私の両親が含まれているだけです」
「随分と、その」
「…両親との記憶は薄くて。ずっと、二人きりの世界を持っていた両親でしたから。だから、私は母の手料理の味も、父が遊んでくれた記憶も、ありません」
「二人きりの世界?」
「はい。娘の私のいない世界です。ずっと恋人のような二人でした。適当に済まされる食事だったので、五つを超えた頃には、自分で食事を用意するようになったのです。おかげさまで、料理するの得意なんですよ」
ネージュの寂しそうな表情に、ジェラールは戸惑う。寂しい幼少期を送って、そのまま治癒魔術師になったのだろう。十六には前線に居たのだから、早い時期から治癒魔術師としての訓練を受けていた筈だ。
「ジェラールさまが、そんな顔をしなくても良いのですよ。もう過去の事ですから」
「…これからは、何も寂しくない。俺が、家族になった」
「……えぇ、そうですね」
「それでも寂しいと言うなら、俺の両親もいる。ああ、兄も二人いてな。とても賑やかだぞ。冬には長兄夫婦の下に子供も生まれるから、もっと賑やかになる」
「まあ、ジェラールさまは末っ子さんなんですね」
「末っ子さんだな。上に兄がいるから、俺はのんびり騎士団長をやれているんだ」
「そうなのですね。また、ご挨拶出来ますか?」
「ああ」
少しだけ表情が明るくなったネージュに、ジェラールは心の中で安堵の息を吐く。誰しも、妻になった女性の憂いを帯びた顔など見たくはないだろう。そこに、愛があるかは別にして。悪い印象のないネージュだからこそ、そう思うのかもしれない。かつての婚約者たちを考える。
公爵家の名前と騎士団長であるジェラールの地位に目が眩み、ジェラール自身を見ることがなかった婚約者たち。すべて、ジェラールの手で白紙にしたけれど。
「しかし、ご両親もお義兄様も、こんなとんでもない事故物件に会いたいでしょうか…。ジェラールさまを縛る枷というのに」
「だから、事故物件と言うなと言っているだろう?両親にも兄たちにも、契約結の話はちゃんと着けている。それに、俺はもう大人だぞ?三十二なんだから、自分のことは自分で決める」
「う…。でも…」
「自分を卑下にするような言葉は聞きたくない。あのな、ネージュ」
「はい」
冤罪を背負わされて追放されたお人好しの治癒魔術師。それがジェラールのなかでのネージュだ。まだ、そこまでしか分かっていない。早くに大人になることを強要された、少女のような女性。
「契約から始まる結婚だが、ちゃんとした夫婦に、家族になりたいと思っているんだ」
「…はい」
「これは君の安全や諸々の保障のための結婚だ。そして、有能な君を国に縛るための結婚でもある。結婚に巻き込まれた被害者には、俺はならないぞ」
「でも」
「でももへったくれもない。ネージュ、俺と一緒に幸せになってくれないか」
「…幸せ」
言葉をなぞるネージュに、ジェラールは頷いて見せた。『幸せ』ともう一回呟いて、まるで言葉の意味を噛み締めているかように。
「ジェラールさまは」
「うん」
「私と、幸せになってくださるんですか。私は、幸せと言うものがどういうものか分かりません。こうやって平和に過ごせていることが、幸せと言うのかもしれませんが…」
「幸せの基準は人それぞれだ。何も変わらない日常が倖せだと思うのも、その通りだと思う。ネージュが、俺と過ごす中で幸せと言うものを知ってほしい」
「…はい」
ネージュとのことは可愛らしいと思う。だが、その気持ちは、まだ愛しいとまでは成長しきっていない。けれど、きっとネージュとは家族になっていくのだろうと思った。この関係はネージュの意識一つで、きっと変わっていく。もちろん、自分の感情もいい方向へと変わっていくだろう。
「もう少しで着く」
「はい」
「…ところで、好きなものだが」
「あ」
「鳥の照り焼きが好きだ。マーサのは香辛料が利いているんだが、母の作るものは少し甘めでな」
「まあ。あれ、照り焼きに香辛料ですか?」
「マーサは暇があれば創作料理を研究しているから。意外と思うだろうが、香辛料を使った照り焼きもいけるぞ。食欲をそそられる」
「それはとても気になりますね…。今度、マーサさんに要望を出してみようと思います」
「そうしてみると良い。喜んで作ってくれるだろう」
一歩前に進むことが出来たように感じながら、ジェラールは目を細めた。ガタンと進んでいた馬車が止まるのを感じる。御者が窓を三度叩くのを合図に立ち上がれば、ネージュがジェラールを見上げた。
「あの、ジェラールさま」
「なんだ?」
「――ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼むよ」
今は、ゆっくりとネージュの感情が育つのを見て行こうと思う。何も急かすものはないのだ。