「ジェラールさま、それからご両親以外にご迷惑をおかけする人は…」
「迷惑?」
きょとんとするジェラールに、ネージュは口をもごもごと動かした。まるで、迷惑だとも思っていない風に、どう言えば良いのか分からなかった。えぇっと、なんて言えばちゃんと伝わるだろう。
「あの、私は故郷では冤罪ですけど罪で国を追われた身です。その身でありながら、他国の公爵家の方と結婚するということは、ひとつも考えてもいなかったことで…。独り身だからと高を括って今まで、放置していたと言いますか…」
「その件については、俺も両親も納得している。ちなみに、言うとだ。クロヴィス家は、自由恋愛を推奨する家系でな」
「自由恋愛?ジェラールさま、だからといってご両親を丸め込んだんですか!?こんなっ、事故物件を!?」
「いや、待て待て。そうじゃない。誰と結婚しようとも、親は口出しをしないという事だ。それに、自分のことを事故物件と言うんじゃない」
思わず腰を浮かせば、ジェラールは慌ててネージュに座ることを再度促す。ネージュは、座り直したあと、ジェラールの蘇芳色の目をしっかりと見た。
「いえ、事故物件なのは本当の事なので。私のせいで、良からぬご迷惑をおかけすることは、ご両親も重々承知だということですよね…。なんでですか?でも、ほんっっとうに、良いのですか。私に拒否権はなくとも、ジェラールさまには拒否権があるでしょう?」
「良いよ」
はっきりと言い切った言葉に、ネージュは目を瞬かせた。下手すれば、死ぬまで一緒だと言うのに。もっと下手すれば、死んでも一緒にいることになるというのに。ならば、ネージュは思いつく限りの思いを口にするべく言葉を落としていく。
「…他のところに女性を持っても良いですからね」
「持たない」
「あ、でも私の見えないところでお願いします」
「持たないと言ってるぞ」
「それから、子供が出来たら、お別れしましょうね」
「だから俺は、最後まで君の面倒を見るつもりなんだが」
「…えっと」
「もう良いか?不安はないか?」
――嗚呼、この人は。
「ジェラールさまは」
「なんだ?」
「良いんですか、こんな私で」
「まだ、俺は君の人となりを知らない。だが、部下の命を救い、また街の人たちを救った。それだけで決め手は十分ある」
「実は、悪女かもしれませんよ?」
「悪女なら、君が立派な淑女になるよう努めよう。それも夫である俺の仕事だろう」
どうした、まだ文句あるか?そう言わんばかりの態度に、ネージュは口を閉じる。思いは全部吐き出したから、もう言うことは無い。言えるものがない。
「……よろしくお願いいたします」
「頷いてくれて良かった」
「なんだか、含みがありますね?」
「誰だって顔見知りが傀儡にされるのを、見たくはないだろう?」
「なっ」
まさかの発言に、ネージュは動きを止める。なに、結婚に同意しなかったら傀儡にされてたってこと!?『君の有能さを手放したくない』と言っていたから、治癒魔術師としての腕を国が買ったということなのだろう。それは理解できた。だから、結婚って。とんでもない枷を与えるのだな、この国は。
ふぅと息を吐きながら、ジェラールは立ち上がり机の引き出しから書類を取り出す。それを一瞥したあと、ネージュに渡した。書類の一部は埋まっているようで、目を滑らせればそれはジェラールの署名だった。
「婚姻届?」
「俺の名前は署名してあるから、あとは君の名前だけだ」
「…はい」
名前を書く手は少しだけ震えている。たった今、夫が出来た。故郷を離れて、数年。腰を据えた国で、契約が基づいた結婚をすることになった。しかもその相手が公爵家の息子である、騎士団長ときた。
この国に来た頃の自分が聞いていたら、きっと卒倒するだろうなあ。とんでもない未来が待っているよ、と過去の自分に言いたくなる。
「これからは、ネージュ・クロヴィスだな」
「は、い」
「各所に通達が出るのは、明日以降だ。書類だが、一緒に提出しに行くか?」
「えっ」
「折角だからそうしよう。明日は診療所を休むことは出来るか?」
「働きづめで、休めと言われているので大丈夫かと…」
「では、明日の朝に迎えに行く」
とんとん拍子に話が進むことに、ネージュの心が追い付かない。結婚ということにまだ驚いているというのに。まさか、書類―婚姻届―を一緒に出しに行くなんて。勝手に出して、はい終了になるかと思っていたのに。
「結婚式も、そのうちしよう」
「け、契約婚だと言っていたではないですか」
「お互い神に誓うものは色々あるだろう?俺は、最後まで君の面倒を見ることを神に誓う」
「…わあ」
その、ジェラールの返答に返す言葉が出て来なかった。どこまでも、良い人だと思う。私には勿体ないほどの、イイ男だわ…。ネージュは、頬が熱くなるのを感じるのを、パタパタと手で仰ぎ風を送った。
「それじゃあ、今後のことについて少し話をしよう」
「はい」
「暮らす家だが、どうする?」
「今、お借りしてる家は…?私一人とヴェーガ一匹に対して大きな一軒家ですけど…」
「あれは騎士団名義で借りているからな。父の別宅を改装させてもいいんだがな、住む家にこだわりは?」
こだわり、と言われても特には思いつかない。住めば、住み慣れるからだ。だが、しいて言うなら、庭があれば嬉しい。薬草を育てることの出来る庭が欲しい。
「えっと、お庭があれば…特には」
「ふむ。では、やはり父の別宅が丁度良いな。少し離れたところにあるから、馬車を常備させることになるが」
「あの、ワイバーンの被害は大丈夫だったんですか?」
「本宅も別宅も、中心部からは少し離れているからな。屋根が少し剥げたぐらいだ」
「そうなのですね。被害が少なくて良かったです」
「侍女と執事を本宅から数人移すが…。その辺りは、慣れてもらうしかない」
「…はい」
慣れる。それは世話をされる、ということだろう。出来る限りは自分で出来るように、侍女たちにお願いすることに決めて、ネージュはひとつ頷いた。
「集団生活は慣れています」
「…集団生活と言うか、一応は新婚生活になるんだが?」
「ジェラールさまって素敵な旦那様になりそうですね」
「うん。君の旦那になるんだけどな?」
呆れ顔のジェラールに、ネージュは何も言わず笑みを零す。どんなに言ったって、こんな事故物件の夫になるジェラールには申し訳なさがある。
「申し訳ないとか思うなよ」
「へ」
「俺は、全部を受け止める気で王命に頷いた。王命だから、頷いたんじゃない。あくまでも、相手が君だから頷いた」
「…なんで、そこまで」
「さあな」
肩を竦めるジェラールに、ネージュはツンと鼻の奥が痛むのを感じた。唇を噛み締めて、溢れそうになる涙を堪えるために俯く。これほどまでの、人の温もりを感じたことはあっただろうか。二十数年の人生を振り返って見て、考える。
「ネージュ、泣かないでくれ」
「…っ」
頬を伝って、スカートを濡らす涙。いつぶりに見た涙だっただろう。分からない。忘れてしまっていたから。悲しくて泣いているんじゃない。ただ、温もりに触れて、その温もりの返し方が分からない。
「受け入れられないこともあるだろう。無理しなくていい」
「…ぅああ、」
「隣に座るぞ」
顔を覆い隠せば。隣が深く沈みこんだ。そして、ポンとネージュの頭に軽く手を乗せた。そのまま、何度も何度も宥めるように髪を梳いていくジェラールの手。そのあまりの優しい触り方に、ネージュの涙はもっとあふれた。
「目が腫れるぞ」
「っく」
「ネージュ」
名前を呼ぶ声も、聞いたことがない程優しかった。だめだ、完全に涙腺が壊れてしまったようだ。涙があふれて止まらない。小さく響くネージュの嗚咽。それを静かにジェラールは宥めながら聞いていた。