「ネージュちゃん!」
「はぁい」
「あのね、ミアが帰って来たの!」
「えっ」
満面の笑みを浮かべたミアの母親が、ネージュの天幕に入って来た。とても嬉しそうで、ネージュの両手を握りしめる。
「ミアが、ちゃんと帰ってきたの!」
「あの、お母さん」
ネージュは口どもる。ミアは、まだ帰ってきていない筈だ。今朝から参加し始めた朝礼でも、そのことはちゃんと言っていたし、進展がないとも言っていた。
「それでね、ネージュちゃんにミアの検診をお願いしたいの!大丈夫かしら?」
「え、ええ。大丈夫ですよ」
なにを診ることになるのだろう、分からないが、ミアではないのは確かの様に思う。興奮状態のミアの母親に連れられて、ネージュは天幕を出た。
「お母さん」
「なぁに、ネージュちゃん」
「しっかり眠れていますか?」
「…」
ネージュの問いかけに、ミアの母親は黙る。そして、ほの暗い茶色い瞳がネージュを捉えた。
「眠れるわけ」
「では、食事は?」
「食べられるわけないじゃない!可愛い娘がいなくなったんだから!!」
随分と感情の起伏が激しい。睡眠不足と食事を摂れていないからだろう。下手すれば、投薬療法が必要になるかもしれない。
「――こんな所にいたのか、ネージュ先生にまでご迷惑をかけて!」
「あなた!ミアはどう?ちゃんと食事してるかしら?」
「…あれは人形だよ。ミアじゃない」
「人形?そんなはずないわ!あれはミアよ」
父親が悲痛な顔で、母親を抱き締めた。ネージュは小さく息を吐いて、ミアの母親に一歩近づく。
「お母さん。その子を見せてもらっても、いいですか?」
「…あなたもミアじゃないって言うんでしょう?」
「何か手掛かりになるかもしれませんから」
「家に入って」
「ネージュ先生。お忙しいのに本当にすみません」
「大丈夫ですよ。お邪魔しますね」
ミアの影がちらつく家に入る。ミアの部屋に通されて、ネージュは椅子に座らされた人形に気付いた。明らかに、ミアを模している人形はネージュを静かに見ていた。
「触れても良いですか?」
「どうぞ」
しっとりとした手触りとほのかな温かさ。室温のせいかしら。いいえ、これは人肌の温もりだわ。首筋に手を滑らせる。
トクトクと指先が脈を感じ取った。
「えっ」
「ネージュ先生?」
慌ててもう一度指先を当ててみる。トクトクと。間違いなくそれは脈だった。手首を取ってみても、同じように脈に触れることが出来た。
「生きてるわ。お父さん、至急騎士の方を呼んでください!魔術師も一緒に来てもらえるように伝えて」
「い、一体何が」
「この子、もしかしたらミアちゃんかもしれません」
「本当ですか!?」
「もしかしたら、です。今の私では何とも」
「呼んできます!」
「私の名前を出してもらったら、大丈夫です」
「わかりました!!」
大急ぎで父親が駆けて行くのを見送って、ネージュは人形の手を取る。真っすぐを向いたままで、なにも反応を見せることはない。人形だから当然だが、その温もりは異質だった。
「ネージュさん、魔術師も連れて来ましたよお!」
「アドルフさん、お疲れ様です。ありがとうございます!」
「魔術師のイクスと申します。で、例の子供は」
暫く待っていると、昨日ぶりのアドルフがローブを被った人物―魔術師のイクスを連れて来た。
「はい。早速ですが、この子になります。脈があるんです」
「…ほう。ちょっと失礼しますよ」
イクスは人形に触れる。目を閉じて、人形に集中しているようだった、五…十…十五…二十…三十秒経過した辺りで、イクスは目を開いた。
「どうです?」
「いくつかの魔術の気配がしてますね。時間がかかりますが、解術を行っていきましょう」
「他の子も、人形となって戻って来ている可能性もありますね」
「では、俺はそちらを当たります。ネージュさんはどうされますか?」
「私は診療所に戻ろうかと。私では役に立てなさそうなので」
「あ。この子、一度魔術師団に連れて行っても良いですか?」
イクスの問いかけに、父親が視線を彷徨わせる。
「助かりますか?」
「――助けますよ」
イクスの断言とも取れる言葉に、ネージュは目を見開いた。あまりにも、それは無責任が過ぎる。そう思っていると、アドルフが口を開いた。
「イクスは魔術師団きっての天才です。だから、自身があるんですよ」
「お知り合いなんですか?」
「幼馴染なんです」
「なるほど」
そう言うのなら、ネージュは口出ししないと決めてイクスに頭を下げた。此処で頼りになるのは、彼しかいない。
「イクスさん、よろしくお願いします」
「任せてください」
「…頼もしいですね。知っている魔術師とは、なんだか雰囲気も違うような」
「そうですね。イクスは他の魔術師と違って、比較的社交的なんです」
「社交的」
思わず繰り返してしまった。それは、魔術師相手では聞かない言葉だった。アドルフもそれを思っているのか、苦笑いを浮かべていた。
「それじゃあ、私もこれで失礼しますね」
「あのっ、ネージュ先生」
「はい?なんでしょう?」
「妻は、元気になりますか?」
思い詰めた表情の父親に、ネージュは項垂れたままの母親を見た。顔色は悪いが、今は投薬も必要ないだろう。
「よく寝て、よく食べれば、大丈夫です。もしも、寝れない食べれない状態が続いたら、私の天幕まで来てください」
「分かりました。ありがとうございます」
「それでは、これで」
ネージュはアドルフと、片腕に人形を載せたイクスと共に家を出た。イクスと人形は、どこかちぐはぐだった。
「ネージュさん」
「なんです?」
「もし、この子が人間に戻った場合起こりうる症状は予測できますか?」
「…まずは、脱水による症状。それと同時に魔術への抵抗反応が出るかと思います」
「抵抗反応?」
アドルフの不思議そうな声音に、イクスはアドルフにこれ見よがしに大きく溜息を吐いた。
「ごくまれに、魔術を受けた後に起こることがあるんです。抵抗反応っていうと、魔術を受けている途中に起こるものと勘違いされやすいんですけどね」
「そういう症状もあるんですか。治癒魔術師の同席も必要になりますね…」
「そうですね、万が一の場合に備えて」
こくりと頷いたイクスを見て、ネージュもつられてこくりと頷いた。これからネージュは中央区に戻って、診療所を開ける。そうして、ネージュの日常は戻って来た。
――夕方、ネージュの下には‘無事に人に戻った’と伝言が入った。抵抗反応もなく、二日ほどの入院で済むとのことだった。
「釈然としない終わりだけど、無時に戻ったのならこれで良いのかなあ」
「なんだ、独り言か?」
「きゃぁっ!」
突然聞こえて来た声に、ネージュは驚いた声を上げて振り返った。そこには、ようやく見慣れ始めた顔がひとつ。天幕の入り口を捲って、入り込んでくる。
「ク、ロヴィス団長!」
「お疲れ」
「お、疲れさまです。どうかされたんですか?」
「あー…」
ネージュの言葉に、言いづらそうに顔を顰めたジェラール。小首を傾げて、ジェラールを見ていると、ジェラールはあっちこっちに蘇芳色の目を彷徨わせながら、ネージュに歩み寄る。
「あの?」
「…君の身柄の保護のために、王命で婚姻の話が出た」
「……はい?すみません、今、なんて…?」
ネージュを見下ろすジェラールは、思い切ったように口を開いて声を潜めながら言った。ネージュはジェラールの言葉に、ぱちぱちと目を瞬かせてジェラールの言葉を理解しようと頭を回すも、理解が追い付かない。
「結婚の話だ」
「けっこ、ん?」
誰と誰の、結婚?え、私と誰かの結婚?そんな話ある?王命って聞こえて来たんだけど。王命で、結婚するの?
「混乱しているだろうが、結婚の話だ。残念ながら、王命のため拒否権はない」
「えぇ…。あの、王命ってなんで王命なんですか?」
「うん。王からの命令で王命なんだ、ネージュ。お前の有能さを手放したくない、ということだな」
「え、裏事情を話すんですか?クロヴィス団長も混乱気味?」
「…ネージュ」
ネージュを見る蘇芳色の目は、どこか疲れの影が見えた。暫く待っていると、ジェラールはゆっくりと瞬きをする。そして、小さく息を吐いて言い放つ。
「――結婚相手なんだが、俺だ」
「…んぇ?」
鳥の鳴き声が、遠くでした。