その長身の男――エクトルがネージュを見て、『チッ』と小さく舌打ちを零す。ネージュの視界の端っこで、にっこりと笑うのはアドルフだ。騎士団、みんな家族みたいなこと言っていたような気がするんだけど、違うのだろうか。
けれど、その舌打ちの対象が自分だという事はなんとなく気付いていた。その目は、ネージュもよく知っているものだったから。
嫌悪というのは、案外忘れられないものだ。
「エクトル」
「はい、団長」
「魔術師団から何か報告は?」
「は」
ジェラールの言葉に、佇まいを正したエクトルは持っていた書類をジェラールに渡した。ジェラールはそれを流し見する。すらすらと蘇芳色の目が書類の上を滑っていくのを、ネージュはぼんやりと見ていた。
「ネージュさんは、魔術にも詳しいのですか?」
「本職の方には劣りますけど、それなりに見ては来ているので」
「見て?」
「はい。前線で常に過ごしていたので、防御術もそれなりに身につけなければなりません。どういう魔術に、何が効くのか。それを見落とすと命も落としかねないので、現地で学ぶこともありましたね」
「はー…。その前線というのは、対魔物ですか?」
「その時々、ですかね」
アドルフの問いかけに、ネージュは過去を思い出しながら話した。でも、ネージュは守られてばっかりだったように思う。防御魔術を遣えないわけではないけれど、それを使う前に必ず、黒魔術師の彼が居たから。彼の声が、もう思い出せない。一抹の寂しさを覚えながら、ネージュは目を伏せた。
「ネージュさん?」
「いえ。そういえば、あの黒魔術ですが何か解け――え?なんで私を見るんですか?」
その言葉に、誰しもがネージュを見た。ジェラールは、書類を置いてネージュに問いかける。
「…ネージュ。何故、あの魔術が黒魔術だと思うんだ」
「何故って、黒魔術の基本は血液で魔術陣を書くことですよ?」
「あの魔術は、地方特有のものだと報告が上がっているが。君は違うと?」
「えっと、確かに黒魔術にも流派はあるとお伺いしています。なので、地方特有というのも、あながち間違いではない、と思うのですが…」
尻すぼみになっていくネージュに、ジェラールは眉を持ち上げた。魔術師団から来ている報告書を見たって、黒魔術だという記載はないのだ。
「ネージュさん、黒魔術も詳しいのですか?」
「一応、黒魔術は治癒魔術の対極に位置するものです。ですが、それは黒魔術について詳しいということではないのです」
「対極というのは、聞いたことがないが」
「生を司る治癒魔術と死を司る黒魔術、というふうに私の国では定義されています。なので、基本的な黒魔術は‘そう’なんです。血を使って魔術陣を描き、時には生命力や魂を糧にする」
ご存じかと思いますが、とネージュは区切る。一般的ではないけれど、黒魔術はしっかりと根付いているものだ。彼にも黒魔術師の部下が何人かいたように、たったひとりしか使わない、というものでもない。
「あの地下にあった魔術陣は、子供の血を使うことでその子供自身の生命力と魂を糧としたのでしょう」
「何を目的として?」
「分かりません」
「分からない?そこまで、知っておいて?」
「エクトル」
「最初からおかしいんですよ。あなたの使い魔が、どうしてあの場所を知ったんですか?」
それが分かれば、ネージュとて困っていない。けれど、今のエクトルに何を言っても無駄だとネージュは分かっていた。ネージュの言葉を聞いてくれることはない。
「あなたが、企んだことでは?」
「副団長!!失礼にもほどがあります!」
アドルフがネージュの隣から声を上げる。しかし、ネージュは堪えた様子も見せず、淡々とエクトルを見た。
「私には黒魔術が使えません」
「ハッタリでしょう?」
「いいえ、事実使えないのです」
「何を根拠に」
ネージュは首を横に振って、息をついた。裾を捲り上げて右腕を見せる。何も無いように見えるだけの腕。
「腕?」
「命を奪うことを目的とした黒魔術を治癒魔術師が使うことは、祖国の掟によって禁じられています。あまり見て気持ちのいいものではないのですが…」
ネージュは目を伏せたあと、左手のひらを向けて魔力を腕に這わせる。中から魔力を当てるのではなく、外側から当てることが重要なのだ。
指先から肘までかけて浮かび上がる黒い紋様に、誰もが眉を顰めた。
「うわ…。治癒魔術師であるネージュさんからしたら、禍々しいものですね?」
「これも黒魔術です。治癒魔術師として認められた時に、これを刻まれるのです」
「ネージュさんの祖国って…」
「知らぬがなんとやら、です」
「――だが、根拠は無い。それすらも自作自演としたら?」
エクトルになんと言えば良いかな。そうネージュは考えながら袖を下ろす。ここまで疑われるのも、久しぶりだなあ。
「私が黒魔術を使えば、この身に施された魔術陣が展開されて死にますね」
「死に?」
「はい。治癒魔術師は命を救わなければなりません。そこにある失われかけている命すべてを、治癒魔術師である私は救いあげなければならないのです」
命ひとつ救えない治癒魔術師は、使えないのだ。ネージュはそう教わって、今までを生きてきた。きっと、その意識は早々には変わらないだろう。
「傲慢だな」
「私もそう思います。治癒魔術師は神でもなんでもないんですけどね」
「…団長、俺はネージュ・アルナルディが一番疑わしいと思います。こんな人間が、これから騎士団と共にすると?」
ネージュは、溜め息を飲み込んだであろうジェラールを見た。蘇芳色の目は呆れが強く浮き出ているが、そのことにエクトルは気付いてもいなさそうだ。
「では、副団長さんは私を疑っていてください」
「なに?」
「騎士団の方々は、なぜか私に甘いのです。だから、ひとりでも副団長さんのような方がいらっしゃれば安心できます」
「安心だと?」
「はい。私は驕らず、慢心せずに生きていけます」
事実、クロヴィス団長も私を甘く見ている節がある。冤罪とはいえ前科持ちであるにも関わらず、「気にせず」に騎士団に招くというのだから。
訝しそうにしながらも黙ったエクトルに、ネージュは小さく笑を零した。隣から『勝ちましたね』と囁き声が聞こえてくるが、別にネージュはエクトルと勝負をしていたつもりはないのだ。
「――話を戻すが、子供の魔力と生命力を使って、さらに魂を糧にすれば何が出来る?」
「召喚魔術、でしょうか」
「黒魔術で?」
「うぅん」
出来ないこともないのだけれど、あの贄となった子供の保有魔力が分からないから不明点は多い。未発動のまま置かれていたけれど、魔術陣に踏み込んだ時に発動するようになっていた。
第三者の魔力をも奪おうとしていた、悪質なもの。
「この国の魔術師はなんと?」
「不明点が多すぎるため回答を避けたいと」
「…職務放棄ですか?」
「そう取られても仕方ないな」
ポカンと呆気に取られながらジェラールを見やれば、ジェラールも思うところがあるのか首を横に振った。話題を変えようと、ネージュは少しだけ考えたあと口を開く。
「他の子供たちが心配ですね…。何事もなく見つかればいいのですが」
「襲撃があってから統制をとるために、各方面に検問を敷いているから王都から出たとは考えにくい」
「…そうだと良いんですけど」
「黒魔術の件もあるから、増員して明日から当たるようにしよう。アドルフ、夜間の者にも伝えておいてくれ」
「はい」
ぱちんと指先で書類を叩いたジェラールから目を逸らして、ネージュはちらりとエクトルを見た。何も感じることのできない無表情で、ネージュは見ていなかったことにする。見ないフリをすることも、たまには大事なのである。
「あ、そうです。魔術陣の写しをくださいますか?」
「あぁ、あとで用意させよう。何か分かるのか?」
「見覚えがあれば」
「見覚えな…。ネージュ、そんなに近くに黒魔術師が居たのか?」
「え?あ、はい。隣人みたいな感じの人が居ました」
「隣人」
彼のことを表現するには、それ以上の言葉が見当たらなかった。ネージュにとってたった一人の、隣人。決して‘良い人’とは言い難かったけれど、ネージュからすれば良い人の枠に居た。
思い出しても仕方のないことだ。
ジェラールの視線に微笑み返して、それ以上語ることはしなかった。