ネージュは、美しかった景観の街並みが崩れていることに、どことなく寂しさを覚えながら騎士について走った。
「ここですね!この場所からでも魔術の使用は可能ですか?」
「はい!少し大がかりな魔術を使います、万が一の時は逃げてください」
「そのようなことはしません!必ずあなたをお守りいたします」
それだけは譲らないと告げた騎士の圧に、ネージュは言い返すこともなく頷いた。ワイバーンがあちこちで暴れている。その先頭で、長身の黒髪の男が剣を振りかざしているのが見える。
「…いた」
クロヴィス団長だ、見つけた。あの人を中心に魔術を展開すれば、きっとこの街は助かる。見慣れた顔ぶれの騎士たちも、そこに居るから。きっと大丈夫だ。確証のない自信がそこにはあった。
「すーっ、はーっ…よし」
深呼吸を繰り返して、ネージュは両の手のひらを騎士たちに向ける。少しだけ大掛かりな向上魔術になるけれど、その分の威力はこれまでの比ではない。上空に魔術陣が現れて、先ほどよりも深い緑色の光があたりに広がっていく。暗闇と化した空を切り裂きながら、降り注ぐ光のように。
「なんだ、身体が急に…!?」
「おい、後ろを見てみろよ。あの人、俺等に魔術を使ってねえか?」
「あれは…まさか、ネージュさん!?」
「余所見しないでください!!」
振り返る騎士たちに、何とも言い難い気持ちになりながらネージュは叫ぶ。こっちに注目はしなくて良いのだ。目の前の魔物に注視してほしい。ほら、火を噴いた!
「向上魔術です、今のうちに戦ってください!」
「向上魔術!?そんな高等魔術、どこで覚えたんですかあ!」
「そんなの良いから、目の前に集中してください!!」
ネージュの全力の叫びで、漸く騎士たちはワイバーンに向き直った。魔術を使う者、剣を握りしめ走り出す者、さまざまだった。しかし、そこに不安定さはない。それがいつもの彼らなのだと、ネージュは魔術を使いながら思った。
「ネージュ殿」
「く、クロヴィス団長」
いつの間にネージュの近くに来ていたのか分からないが、ジェラール・クロヴィスがネージュの正面に立っていた。護衛についていた騎士が慌てて敬礼を取る。
「向上魔術、感謝する」
「いえ!私は救護班の応援が出来ればと思い、此処まで来たので」
「それでも。こんなに身体が軽いのは初めてだ」
「良かった。効果は人それぞれで、最大でも三十分しか継続しません。なので」
「ああ。君、彼女を必ず救護班の元へ」
「は、承知いたしました」
ジェラールはその美しい蘇芳色の目を細めて、ネージュを見たあと足早に去っていく。ネージュが見たことのないほどの、大きな火炎の渦がジェラールから放たれる。
「クロヴィス団長は炎系の魔術を得意とされているんです」
「まあ」
ネージュの驚きをくみ取ったかのように、騎士はネージュに言う。憧れがあるのだろう、場にそぐわずその声は弾んでいた。
ワイバーンの噴き出す炎と、ジェラールの放つ炎が拮抗する。炎系が得意なら、もうひとつ手はある。ネージュは手を組んで願う。
強く、強く、願う。
その炎が、すべてを焼き尽くすものであるようにと。
この破壊しつくそうとする魔物たちを、焼き払える業火になるようにと。
ネージュが願う刹那、囂々と炎が音を立てて燃え上がる。ジェラールが一瞬、ネージュを見た。ジェラールとネージュの視線が絡み合って、最後。
ドンッと大地を揺らしながら、火柱がいくつも立った。巻き上がる温かい風が、ネージュたちの頬を擽っていく。
「すげえ…。ここまでの大きな魔術は見たことがありません」
「緊急事態ですからね…。それよりも、救護班の所へ急ぎましょう」
「そうですね、急ぎましょう」
美しく舞い上がる火の粉を尻目にネージュたちは、救護班の総本部となっている高台へ走った。
『第七話』
高台に上がって来たネージュたちは、半壊した街を見て言葉を失った。ここまで酷いものを、ネージュは見たことがなかった。
「なんて、こと」
「これは…」
それは、表現できないほど酷いありさまで。崩壊して煙が上がる街。美しさの欠片も残っていなかった。その街に故郷であろう騎士は言葉を失って、がさりと地に膝を着いた。吐き出す息を震わせて、その凄惨さに目を見張ったままで。
ネージュは他に掛ける言葉も見当たらず、そっと背に手を伸ばす。ワイバーンの咆哮が聞こえて来る。けれどワイバーンの数は着実に、減っているから。大丈夫だと、そう意思を込めて。
「行きましょう。クロヴィス団長たちが、きっと食い止めてくださいます」
「…っはい。救護班の陣営は、あの旗が立っているところです」
ネージュは立ち上がる騎士を見て、ひとつ頷く。ここで立ち止まっている時間はないのだ。立っている旗を目指して、ネージュたちは足を早めた。
坂道で息が切れ始めた頃、旗のふもとが見えて、再び言葉を失った。多くのケガ人が集まって、その痛みに呻いて泣いて叫んで――絶命の音が、そこまで来ている。
「騎士さん」
「はい?」
「私は救護班の応援に入ります」
「分かりました。私はこのままクロヴィス団長のもとに合流します」
「ご武運を」
「ネージュさんも」
敬礼して、足早に坂を下っていく騎士を見送ってネージュは視線を戻した。治療に当たっている人に声を掛けた。ネージュを見て訝しそうにする。血に濡れたローブがやけに鮮明に見えた。
「すみません」
「はい!」
「応援に来たものです」
「応援…?」
「治癒魔術師で薬師をしているネージュ・アルナルディと申します」
「誰かの口添えで…?」
「騎士団との面識がありまして」
騎士団、治癒魔術師、薬師、そこまで呟いてハッと目を見開いたその人は唇をわななかせる。ネージュの名前に思い当たる節があったのだろうか。立ち上がって、ネージュを指さす。
「まさか騎士団の新人を助けた薬師!?」
「そ、うですけど…。応援に入らせてもらっても、大丈夫ですか?」
「ぜひ!!助かります!僕はユリウスと申します。此処の最高責任者を言い渡されています」
ユリウスと名乗ったその人は、天幕に駆け戻ったあと、「救護班のシルシです」とネージュに白いローブを渡す。それを受け取って身に纏えば、深みのある消毒の匂いがした。
「重傷者は?」
「こちらです。赤い紐を着けているのが重傷者のシルシになっています」
「分かりました」
「ワイバーンが引き次第、下の街にも降りていく手筈になっています。下にある病院の医師たちが総出で、第二陣営を張っていますが…連絡は途絶えています」
深刻な状況だと告げたユリウスに、ネージュは少し考える。連絡が途絶えているのなら、見に行くのは止しておいた方が良いだろう。できれば、現状を把握しやすい第二陣営の応援にあたりたい気持ちもあるけれど、今は此処に集中するべきなのだろう。
「ネージュさん?」
「いえ、私はどこから見て行けばいいですか?」
「では、こちらの重傷者の手当てをお願いします」
「はい」
ネージュは自身の髪を一本に結い上げ、深呼吸を繰り返す。久々の、その生と死の戦場に鼓動が逸る。呼吸の狭さに手が震えて、小さく苦笑いをおとす。忘れていた感覚だ。
「ネージュと申します。今から、治しますね。痛いのあっちに飛ばしましょうね」
横たわる騎士の隣に跪いて、手をかざす。淡い白い光が燐光を散らしながら、傷口に集まる。傷口がみるみるうちに塞がって、服の損傷と血の跡だけが残った。
「…ぇ、あ」
「痛いところありませんか?」
「は、はい」
「良かった。では、私は次に行きますね。何かあったら呼んでください」
「あのっ、あなたは――」
「ただの治癒魔術師です」
目をぱちぱちと瞬かせる騎士に、ネージュはゆるりと微笑んだ。手を空に伸ばして、不思議そうに手のひらを握って開いてを繰り返しているのを尻目に見る。生きて戻って来れるなんて思っても居なかったと、そんな雰囲気で。
「さあ、痛いのをあっちに飛ばしましょうね――」