ネージュ・アルナルディは、ぼんやりと岩の先端から落ちる雫を見ていた。その向こう側では、ザァザァと強い雨が降っている。時折、雷鳴が響き渡り辺りを照らす。そうして、また雷が落ちた。五回目だと指折り数える。
時期的には、おかしいことではない。今の時期は特に天候が不安定で、朝は晴天だったのに昼になると雨が降る、という時はよくあることだ。風が強く吹き始めた辺りから、雨が降るなあとは思っていたのだ。だが、大丈夫だと嵩を括った。その結果が、この大雨であった。
「はぁ…」
濡れた肩を雫を落とすかのように払って、ネージュは大きく息を吐く。雨が降り始めて、慌てて通い慣れた洞窟に走り込んだ。だが、あまりの突然の大雨に慌てすぎて、薬草の入ったカゴを置いて来てしまった。降り始めても、雨脚の緩い小雨だと思っていたから。
カゴは、あとで取りに行けばいいと思う反面、中の薬が草泥まみれになっている可能性も無きにしも非ずだと考えてしまい、どっちを取っても面倒臭さが勝ってネージュのやる気を削いだ。
「ねえ、ヴェーガ。この雨すぐに止むと思う?」
くぅ。
自信のなさそうな鳴き声を出す使い魔に、ネージュは肩をすくめる。そして、濡れてしまってもなお美しい煌めきを放つ銀色の毛皮を撫でた。ヴェーガの足元は泥まみれで、帰ったら洗わなきゃなと思う。
もう何年目の付き合いになるだろう、ヴェーガはネージュの考えを読んだように身を震わせた。女の子なのだからお風呂は入ろうねと言っても、嫌がってしまうのだ。狼ってよく水浴びしてる印象があるんだけどな。
自信のなさそうなヴェーガの鳴き声がもう一度して、ネージュは意識を外に向けた。俄然、見えている景色は変わらない。
「そうね、分からないわよね…。でもしばらくは、帰れなさそうだわ」
雷鳴を伴ってザァザァと視界を遮るほど強い雨が降っている。草木の葉をしっとりと濡らし、地面を泥濘みに変える大雨。しばらく待ったとて、この大雨は止むことはない予感がした。下手をすれば、この調子で夜まで降るかもしれないことに、ネージュはもう一度大きく息を吐いた。
濡れて汚れても仕方ないから、走って帰ろうかな。
もう少し、雨足が落ち着くのを待ってみようかな。
ネージュはそう考えながら洞窟から外を眺めていると、不自然に木々が揺れた。雨音が遠くに聞こえて来て、緊張感が走る。ヴェーガもそのことに気付いたのか、耳を立てながらそちらを見やり、身を低くして唸る。
「なに…?」
ネージュは腰に佩いた護身用の短剣を握りしめた。あの木々の隙間から出て来るのが魔物だった場合、決死の覚悟を持って戦わなければならない。実地の戦闘経験がないネージュでは、どこまで出来るかは分からないが、それでも生きるためには戦わなければならないことだけは分かっていた。そして、森に入るという事はそういった危険も付き物であるというのも、もちろん承知の上だった。
ネージュは森から目を逸らさずにいると、少しずつ木々の口が開けた。六回目の雷が轟いて、深みのある落雷の音が響き渡り、そして薄暗い空を不穏に照らす。
「――この先に、洞窟があるぞ!」
「急いで行け!」
「走れ…!!」
複数のざわめきが近付いて来ている。それが、人の声だと気付いたのは、随分と近づいていた時だった。注視していた森の奥から飛び出してきたのは、所々煤けた集団。遠目でも分かるそれは、ネージュの記憶の片隅に残っている騎士団の制服を着ていた。
「騎士団…?」
ネージュを見上げるヴェーガの目。大丈夫かと問いかけるような目に、ネージュは気付いて苦笑いを浮かべた。魔物じゃなかったと一息つけるが、まさか騎士団とは。こんな辺鄙な場所にまで、着ているという事は遠征の帰りだろうか。そう見当つけていると、大勢が洞窟に入り込んできた。
「人がいるぞ!」
「構わん!行け!!」
どたどたと足音を立てながら騎士たちが洞窟に入り込んできて、鼻孔を擽るのは様々な臭いだった。それは雨の蒸れた臭いと、それを勝るような血の臭い、それから死の間際に感じる臭いに、ネージュは目を見張る。
ネージュとヴェーガが隅に避けていたところに、駆け込んできた騎士団の騎士たちは、ネージュと一匹の銀狼に目を向けるだけで何も言わない。ただ、その死の臭いを漂わせている騎士二人に向けて声を掛け続けていることが、ネージュに説明をするよりも重要ことだったからかもしれない。
ネージュもそのことを察して、何も言わず口を噤む。意識のない二人に呼びかけて、呼びかけて、何度も声を掛け呼び続けている。けれど、どんどん呼吸は浅くなっていくのが少し離れた所に居るネージュからでも見て取れた。
この国って、魔術師の資格って存在するのかしら。あの国ってわりと独特な形式多かったから、そう思いながらネージュはこの国について記憶をあさる。
かつて、ネージュは生まれの国で治癒魔術師という怪我や病を治す治癒の魔術を専門に使う術者だった。しかし、謂れのない罪を背負わされ、治癒魔術師としての資格を剥奪、および国外追放という罰を受けた。そうして、生まれ故郷を出たが、罪の追及のために追い掛けて来る者もいない。
他国に顔を知られている、知らされているわけでもなさそうで、ネージュはこの国フォルモンドに辿り着き、ようやく腰を据えることが出来た。国のはずれの、小さな町の薬師として今はのんびりと暮らしができている、というわけだ。
今は薬師だから、治癒魔術を使う機会はないに等しかった。久しぶりに、それを使うかもしれない。そのことに、心臓がバクバクと音を立てる。
「あの」
「なんだ」
「少し、良いですか?」
「見ての通り、そんな余裕はないんだが」
全員で祈ってるより、治癒魔術を試すとかそういうのはないのだろうか。使い手が居ないのは、編成的にどうなのだろう。ネージュは騎士たちの隙間から、延命を一秒でも祈られている若手らしき騎士を見た。
二人揃って内臓の損傷と、開放骨折、頭部から顔面にかけての深い裂傷を負っていた。ネージュは、薬草を取っていた近くで激しい戦闘をしていたのか、と少し驚きながら傷を覗き込む。
二人を治せるかと問われれば、問題なく治せる。それはネージュが治癒魔術師だからだ。治癒に関するすべてのことを叩き込まれているから。特に戦場の最前線で治癒魔術師として、日夜関わらず治癒魔術を使い続けて来た。
国を守るために奔走する彼らを救っても、罰は当たらないだろうとネージュは考えて一歩を踏み出す。困惑の目と近づくなと言う目がネージュに突き刺さる。
「オイ、何を」
「近づくんじゃねえ」
剣を抜く音がして、グルルルとヴェーガが喉の奥を鳴らして威嚇する。一触即発の雰囲気に、ネージュは威嚇を止めるようにヴェーガに手のひらを向けた。
「大丈夫よ、ヴェーガ。騎士団の皆さんも、剣を収めてください。お二人を治すだけです」
「なお、す?」
「はい」
「お嬢ちゃん、治癒魔術が使えんのか?」
「…一応、それを生業としていた時期もありましたので。下がっていただけますか?」
「信用しても良いのか」
「腕は確かだと自負しています」
目を見合わせる騎士たちを尻目に、ネージュはしゃがみ込んで横たわる二人に手のひらを向けた。淡い白い光が燐光を散らしながら、二人の傷口に集まる。傷口がみるみるうちに塞がっていくのを、騎士たちは目を見開いて見ていた。はみ出ていた骨さえも、ネージュの治癒魔術によって元に戻って行く。
「すげえ…」
「二人を一度に治せるなんて」
「しかも、うちの治癒魔術師よりも治りが早いぞ」
小さな囁きを聞き流しながらネージュは回復した後のことを、元気で過ごしていることを考えた。そうすれば、もっと治りが良くなるからネージュは、まるで祈りのように考える。
「――うん。傷は全部治したので、意識の方は本人の気力次第ですね」
「え、この状態で意識戻らねえとかあるの?」
「はい。急激な回復に脳の認識が追い付かない、というのが稀にあります。でも、その心配もなさそうですね」
ネージュは、ゆるりと微笑む。瞼を震わせて、それぞれが目を開けた。おぼろであるものの光のある目が、ネージュを捉えて瞬きが繰り返される。ネージュは、その眼の前に人差し指を立てて出し、視線の追いかけを確認する。
二人は、何が何だか分からない顔で立てられた指を追いかける。大丈夫そうだとネージュは頷いて、しゃがみ込んで様子見をしていた騎士たちを見上げた。
「うん、大丈夫そうですね。帰ったら、念のため詳しく検査はしておいてください」