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第10話

 それから数日間。ハルは事あるごとに少女の様子を確認するようになっていた。

 睡眠学習をきちんと行うことができているか、お腹が空いているなどの問題が発生していないか。とにかく些細な変化を少しでも見逃さないように少女に対して気を配り続けていた。

 最初はただハルを見つめるだけだった少女も、次第にハルに対して自分の方から応じようとするような態度を見せることも出てきた。

 睡眠学習の効果によるものなのかは不明であるが、ともかく少女が自分となんらかのコミュニケーションを取ろうとしている兆候が出てきたことは、ハルにとって大きな進歩だった。

 そして一週間後。少女の様子に明らかな変化が起こり始めた。

「さぁ、今日の調子はどうかな? 睡眠学習は上手くいっているかな?」

 この日も、いつもの通りに少女の様子を見に来たハル。しかし、部屋に入ったその瞬間、彼はそれまでとはどこか空気の流れが違うということを肌で感じ取っていた。

 よく見ると、それまでベッドで寝ていた状態でハルの言葉などに応じていた少女が、ベッドから起きてハルを迎えていた。

 上半身を起こしただけの状態であるとはいえ、ひとまず自力で起き上がることができるようになったことは、それだけでハルの心に相応の安心感をもたらしていた。

「おっ、今日は自分で起きてきたんだね。さて、今日の体調チェックを始めようか」

 ハルはそんな少女の様子に確かな変化を感じ取りながら、日課となっていた体調チェックを始めようとした。しかし、そこに思わぬものがハルの前に飛び込んできた。

「……大丈夫。ワタシ、身体、悪くない……」

 その声が聞こえてきた瞬間、ハルは思わず飛び上がってしまうほどの驚きに襲われた。一体誰の声なのか。今この部屋には自分と少女しかいない。となれば、その正体はおのずと一つに集約されることになる。

「えっ? き、キミ。も、もしかして、声が……?」

「……ハル。ワタシ、大丈夫。身体、少し、軽くなった……」

 恐る恐るハルが問い返すと、少女は先程よりもはっきりとした口調で再度返事をした。まだ若干弱々しい部分が残っているものの、それが少女の声であることは間違いのない事実だった。

「そうか、そうなんだ。キミ、喋れるようになったんだね。よかったよ。身体もそれほど悪くないみたいで、これで俺も一安心だよ」

 少女の声を確かに聞き取ることができたハルは、喜びよりも安堵の念の方が強く心に浮かび上がっていた。もし、あの極寒の大地にさらされていた影響が今になって現れたとしたら、それはそれで大きな問題になるところだった。

「それじゃ、改めてキミの名前を聞いてみようか。俺の名前は憶えてくれていたみたいだし、今度はキミの名前を聞かせてほしいな」

 ハルは、そこで改めて少女の名前を聞き出そうとと試みた。しかし、そこでまたしても少女は口を閉ざしてしまった。

 その理由を、今度はすぐに察知することができた。ある程度言葉を話すことができるようになっても名前が言えないということは、名前を思い出すことができない、というところに結論される。

「……なるほど。やっぱり、名前が思い出せないんだね。だけど、このままじゃ、これからキミをどうやって呼べばいいか、困っちゃうな……」

 少女が名前を思い出せないことは分かったものの、それはそれで別の問題が浮上するものだった。今後少女をどのように呼べばよいのか、それを固めておく必要がある。

「……ハル。ワタシ、ハルに、名前、決めて、ほしい……」

 ハルが悩んでいるところに、少女がある提案をした。しかし、果たしてそれをしても良いのかどうか、ハルはすぐに結論を出すことができなかった。

「えっ? 俺に? それはできるけれど、キミは、本当にそれでいいのかい?」

「……うん。大丈夫。だから、付けて。ワタシに、名前……」

 本当にそれでいいのかとハルが尋ねると、少女はまだぎこちなさが残る話し方で答えた。どうやら、少女は本気でハルに自分の名付け親になってほしいと思っているらしい。

「分かったよ。ちょっと待っていてね。今から考えてくるから」

 ハルは考えを集中させるためと、少女が着ることができる服を探すため、一度部屋を出ていった。

「……うーん、まいったな。考えるとはいったけど、そんな責任重大なこと、本当に俺がやっていいのか……?」

 ハルは一つ一つ部屋を回りながら、少女の名前を考えるろ同時に、彼女が似合いそうな服を探していた。

 その中で生活色がある程度残っている部屋を見つけると、この部屋ならば見つけることができそうだと思い、部屋の中を物色していった。

「どこにあるんだ……? これでもない、これでもない……、あっ、これは?」

 そして、ハルはちょうど子供服サイズのワンピースドレスを見つけた。純白の飾り気のない質素なドレスだったが、これでも、あの少女に着せるには十分だろうと、ハルは判断した。

「よし、これならあの子が着ても大丈夫だろう。……あっ、彼女の名前を考えるの忘れていたな……」

 無事にドレスを見つけることができたハルだったが、本来の問題である少女の名前については、まだ解決していなかった。どうしようかと周囲を見渡していた時、ある単語が彼の目に飛び込んできた。

「……んっ? あの絵は、大木と、葉っぱ……?」

 それは、一枚の絵画だった。一本の巨木と、その巨木の枝から無数に伸びている深緑色の葉。これまで地下シェルターでずっと暮らしてきたハルにとって、それはまさに幻想的な光景そのものだった。

 今は雪と氷に覆われたこの地上にも、かつてはこのような巨木が何本もあり、そして葉も文字通り数え切れないほどに舞い散っていたのだろうか。

 ハルは改めて、この地上の秘密を解き明かし、世界をかつての緑豊かな大地に戻してみせると、その決意を強く胸に宿すのだった。

「よし、決めた。あの子の名前は『リーヴ』にしよう」

 その絵画を見たハルの脳裏に、ある単語がよぎっていった。それは、葉の複数形を示す言葉の、最後の文字を省略したもの。

 あの少女に、地上が元に戻る希望を見出そうとする意味で、ハルはその名前を付けようとしていた。

「さて、戻るか。あまり待たせてしまったら、あの子が心配するかも知れないし」

 ハルはドレスを手にしながら、少女の部屋に戻っていった。ハルが戻ってきた時、少女は先程と大して変わらない態勢で彼を出迎えてくれた。

「ただいま。キミの名前、考えてきたよ」

 持ってきたドレスを一旦ベッドの脇に置きながら、ハルは部屋の中にあったメモ用紙と筆記用具を持ってきた。そして、筆記用具でメモ用紙に自分が決めた彼女の名前を書き記し、それを彼女に渡した、

「それが、キミの名前だよ。どうかな? 気に入ってくれたかな?」

 ハルから受け取ったメモ用紙を一目見た少女は、そこに書かれていた『リーヴ』という名前に対し、どこか食い入るような態勢を示していた。

 どうやら、相応の興味を示してくれたらしい。少なくとも、全く気に入らなかった、ということはなさそうである。

「……リーヴ。うん、いい名前。ありがとう、ハル……」

 少し経った後、少女はハルに感謝の意を示した。そこで、ハルは初めて、少女の笑顔を見たような気がした。

 決してはっきりと分かるようなものではなかったが、それでも彼女が笑ったというのは紛れもない事実だった。

「そうか、気に入ってくれたんだね。ありがとう。あと、キミが着る服も探してきたんだ。ちょっと、着てみてくれないかな?」

 名前の問題が解決したことで、ハルは次の問題となる、彼女の服について触れてみることにした。用意したドレスを彼女に手渡しながら、彼女にそれを着てみるように進言した。

 ハルからドレスを受け取った少女は、最初こそどうすればよいのか分からず首を傾げていたが、次第にこれが服であることを理解したのだろう、おもむろにそのドレスを着始めた。

 これも睡眠学習プログラムのおかげかなと思いながら、ハルはとっさに後ろを向き、少女の姿が自分の視界に映り込まないようにした。

「……ハル、終わった。見て……」

 ハルの背中に少女の声が届けられると、彼はゆっくりと正面を向き直した。すると、そこにはベッドから出て、純白のワンピースドレスに身を包んでいる少女の姿があった。

 思っていた以上にシンプルなデザインだったなと思いながら、むしろあまり華美になり過ぎない方が今の彼女にはよく似合うだろうと、ハルは自分の判断が正解だったと実感していた。

「……ハル、これ、どう、かな……?」

 そう問いかけるリーヴの姿は、ちょうど肩の付近まで伸びた銀色のストレートヘアーと、ハルが着せた純白のドレスの雰囲気と相まって、少女でありながらどこか少女然としないものを感じさせた。

 しかし、改めて少女の全身を見てみると、その身体は本当に小さく、両腕も少し力を入れただけでたやすく折れてしまうのではないかと思われるほどにか細い。

 その一方で、少女からはなんとも形容し難い、不思議な空気が感じられた。まるで、目の前にいるのにどこにもいないような、そんな空虚な印象を匂わせるものがあった。

「うん、よく似合っているよ。それじゃ、これからよろしくね、リーヴ」

「……うん。ハル、私の、友達。これからも、一緒……」

 ともかく、これで彼女とコミュニケーションを取る手段を確保することができた。それを確かめるように、ハルはリーヴと握手を交わした。リーヴの小さな手は、大人であるハルの手にすっかり収まり、その感触を互いに共有する形となった。

 結局、彼女から有力な情報を引き出すことはできなかったが、この少女との出会いが、自分の運命になにかしらの潤いをもたらすきっかけになればと、ハルは考えていた。

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