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第4話

「ハル! 大変だよ、ハル!」

 それから、どれぐらいの時間が過ぎただろうか。静かに眠りに就いていたハルの隣で、彼の名を呼ぶけたたましい叫び声が聞こえてきた。ハルは、一体なにがあったのかと思いながら、身体を起こして目を開け、その声の主を確かめた。

「……あっ、あぁ。アイラさん。急に、どうしたんですか……?」

「どうしたもこうしたもないよ! 政府の監視員たちが、このアジトに攻め込んできたんだ!」

 ハルが予想した通り、声の主はあのアイラだった。明らかに慌てているアイラの口から発せられた言葉は、文字通りハルにとっても緊急事態そのものであった。

「えぇっ? せ、政府の監視員たちが、ここに? でも、どうして、ここがバレてしまったんでしょうか?」

「それは分からない。多分、以前からこのあたりにアタシたちのアジトがあるだろうって、ある程度の目星は付けておいたんだろうね。それで、怪しいところを見つけて、こうして乗り込もうとしているってところなんだろうさ」

 政府の監視員たちがここに攻め込んできている。ハルは、もしかしたら自分をここにかくまったせいかも知れないと思ったが、アイラはその部分については一切言及しようとしなかった。

 事情など関係ない。ハルは急いでベッドから飛び起きると、アイラと共に部屋を後にしながら、全速力で入口へと向かっていった。

「おぉっ、二人とも、来てくれたか」

「リーダー、入口の様子はどうなっているのでしょうか?」

「どうやら、政府の連中も、なんとかしてこの入口を破ろうとしているらしい。しばらくは耐えられるだろうが、正直言って、それもいつまでもつか分からん」

 入口の前では、すでにリーダーのガルディンが、その様子を窺っていた。入口の向こう側からは、なにかを叩き付けるような音が何度も響き渡り、そのたびに通路が激しく振動する。

 ふと、ハルがガルディンの足元に視線を移すと、そこには巨大な木箱のようなものが一つ置かれていた。その木箱の中身を見ると、それは全て銃火器類だった。護身用に使うことを想定した小銃から一般的な拳銃、さらにはマシンガンやアサルトライフル、はてはロケットランチャーやバズーカ砲のようなものまで用意されていた。

「そうですか。では、仕方がありませんね。アタシたちも、戦う覚悟を決めましょうか、リーダー」

「そうだな。いずれこうなることは分かっていた。ならば、我々も最後まで抵抗するだけだ」

 ガルディンとアイラは、その木箱の中からそれぞれマシンガンとアサルトライフルを取り出し、銃弾が装填されていることを確認していた。

「あ、あの。で、でしたら、お、俺も……」

「ダメだ。キミはすぐに奥の部屋に避難していなさい」

 ハルが木箱の中に入っている銃火器類の中から、自分でも使えそうな拳銃を取り出そうとした時、ガルディンがとっさにそれを制した。

「で、でも、俺のせいで、このアジトのことが政府にバレてしまったかも知れないじゃないですか。だったら、俺にも戦う義務が……」

「そんなこと、アンタが気にしなくてもいいよ。リーダーも言っていただろう? いずれこうなることは分かっていたって。仮にこれがアンタのせいだったとしても、アタシたちはアンタを恨んだりなんかしないよ。だから、ホラ、早く行きな」

 ハルが自分にも責任を取らせてほしいと言おうとした時、アイラがそれを遮るようにハルに逃げろと促した。しかし、そう言われても、ハルは思うように足を動かすことができなかった。

 入口の向こうからはそこを破ろうとするかのような衝撃音が繰り返し聞こえてきていた。このままでは政府も爆弾を使って入口を破壊しようとするかも知れない。

「……やっぱり、俺だけ逃げ出すわけにはいきません。ここは、俺も戦います」

 そして、ハルは一つの決断を下した。逃げるのではなく、彼らと共に政府と戦う。ハルは木箱の中に入っていた銃火器類の中から、ロケットランチャーを取り出し、肩に担ぐようにして構えた。

「は、ハル? アンタ、なにを言っているんだい? ここはアタシたちに任せて、アンタは早く逃げな」

「そうはいきませんよ。だって、俺、アイラさんに助けてもらった恩返し、まだしていませんから。これがその恩返しになるかどうか分かりませんが、俺だって、少しは二人の役に立たせてください」

 ハルの行動に一番驚いたのはアイラだった。アイラはすぐに逃げろと言い放ったが、ハルはロケットランチャーを構えたまま、アイラの言葉に対して一定の反論を示した。

 ハルの言葉を聞いたアイラは、この男、見た目に反してなかなか骨のあるヤツだ、と思っていた。そんな彼の気概を、ここで無駄にするわけにはいかない。

「……そうか、キミの思いはよく分かった。だが、我々と共に戦うということは、政府に宣戦布告をするということと同じだ。キミもまた、我々と同じ反政府主義者ということになるが、それでもいいのかね?」

「えぇ、構いません。こうなってしまった以上、乗り掛かった船ですから。俺だけ、その船から降りるわけにもいきませんしね」

 ガルディンが、本当にそれに良いのかと、ハルに確認を求めてきた。それでも、ハルの意思は一切揺らぐことはなかった。今まで地下シェルターの中で安穏とした生活を送っていたハルであったが、思考も徐々に研ぎ澄まされ始めていた。

「……なるほど、よく分かった。ならば、もう我々はなにも言わん。キミの思う通りにするがよい。ただ、一つだけ言わせてもらおう」

「はい、なんでしょうか?」

「そのロケットランチャー、前後逆だ。そのままでは、後ろにロケットが発射されてしまう」

 ガルディンはハルの思いを汲み取りながら、これだけは言っておかないと思った。さすがにこれは指摘しておかないと、後で大変なことになってしまうかも知れない。

「えっ? ……あぁっ! す、すみません。こういう兵器の扱いには、ちょっと慣れていないもので……。こ、これで、いいでしょうか?」

「あぁ、それでいい。政府の連中を追い払ったら、あとで兵器の扱い方も覚えてもらわなければならないだろうな」

 ガルディンに指摘されたハルは、慌ててロケットランチャーの前後を正しい向きに直し、再度構え直した。ハルの右肩に、ロケットランチャーの重量が直接のしかかる。

「それにしても、政府のヤツら、本当に諦めが悪いね。よっぽど、アタシたちのことが気に入らないんだろうね」

 その間にもひっきりなしに聞こえてくる入口を叩く衝撃音。その音を聞きながら、アイラは若干呆れた様子でため息を付いていた。ここで政府に抵抗したところで、自分たちが勝てる確率は恐らくほぼゼロに等しい。しかし、抵抗する意思を見せれば、その確率は極めて低いとはいえゼロではなくなる。

「ふむ。しかし、このままではどの道この入口も破られてしまうだろう。その時にどうするか、だが……。んっ……?」

 ガルディンが打開策を思案していた、その時。ハルが一歩前に出てロケットランチャーを構え直した。

「ここは俺に任せてください。このロケットランチャー、詳しいことは分かりませんが、結構威力があるものなんでしょう? だから、このアジトでも、兵器として保管していたんじゃないですか?」

 ハルが自分たちの前に出たことに対し、ガルディンもアイラも一瞬信じられない、というような表情を浮かべていた。自分たちと政府との揉め事に巻き込まれただけであるハルが、身体を張ってこの状況を切り抜けようとしている。

「待ちたまえ。なにもキミが前に出る必要はない。ここは我々のアジトなのだ。このアジトを護る責任は我々にあるのであって、今のキミにそこまでの責任を負わせるつもりはない」

「ですが、このロケットランチャーなら、多分一発で政府の監視員たちを吹き飛ばすこともできますよ。もっとも、その時には俺たちもどうなっているか分かりませんけど」

「やれやれ、そこまで分かっていて、なおも前に出ようとするなんて、アンタも、相当ぶっ飛んだ男だねぇ。まぁ、いいさ。それなら、こっちも別の策を用意するとしようかねぇ」

 ハルの反論を聞いたアイラは、その衝撃的な言動を前に、さらなる驚きを隠すことができなかった。ならば、こちらも相応の覚悟をもって、その思いに応える必要がある。アイラは入口横の壁に設置されているナンバーキーを操作した。

「な、なんですか。こ、これは……?」

 すると、入口のすぐ手前の天井から、なにやら鉄格子のような物体が鈍い音を立てながら下りてきた。

「あぁ、コイツか。コイツは、ただの鉄格子じゃない。少しでも衝撃を与えると、前方に大量の催眠ガスを噴射する、特製の鉄格子なのさ」

 どうやら、これはただの鉄格子ではないらしい。催眠ガスがセットされている、特別なもののようだった。

「さ、催眠ガス、ですか……。で、でも、そんなものが、本当に通用するんでしょうか……?」

「もちろん、効かないということも十分に考えられる。それに、この鉄格子はどちらかといえば強盗の類を追い払うために用意したものであって、今回のような事態はあまり想定していない。しかし、我々としても、相手が政府の手の者だとしても、無闇に傷付けたりするのは決して本意ではない。まして、キミのような未来ある若者に、そのような役目を押し付けるのは、正直あまりに忍びない」

 政府の監視員たちに、催眠ガスのようなものが通用するのか。一瞬不安をよぎらせるハルだったが、そこはガルディンも想定していないわけではなかった。

 むしろ、この世界を元に戻した後に、自分が他人の命を手に掛けた、という事実をハルに背負わせるわけにはいかなかった。

「そこまで俺のことを気遣ってくれるのは、非常にありがたい話ですけど、俺はもう覚悟を決めているんです。今さら自分だけが安全圏でのうのうとしようなんて、そんなつもりはありませんよ」

「まぁ、話は最後まで聞きな。たとえ催眠ガスそのものが効かなかったとしても、そのガスで相手の目をくらませることはできる。その隙に、今度はコイツをヤツらにお見舞いしてやるのさ」

 ハルが覚悟を決めていると言って反論しようとした、その時。アイラがそれを制しようとするかのように話を切り出しながら、懐から手榴弾のようなものを取り出した。

「これは? あの時の照明弾ですか?」

「いいや、違うよ。コイツは、アタシが密かに開発した幻惑ガス弾さ」

 ハルがその正体を尋ねた時、アイラはどこか自信に満ちた口調で返事をした。幻惑ガス弾。それは名前が示す通り、相手を幻覚状態にするガスを撒き散らすものだろう。しかし、催眠ガスが効かない装備を持っている相手に対して、その幻惑ガス弾が通用するのか。

「幻惑ガス弾? それって、一体どういうものなんですか?」

「まぁ、読んで字のごとくさ。ただ、この幻惑ガス弾には、アタシにしかできないちょっとした細工がしてあってね。それがあまりに危険なものだから、今まで使うのをちょっと控えてきた、ってところもあるんだよ」

 どうやら、その幻惑ガス弾は、アイラも使用を控えるほど危険を伴うものだった。それは、その後に続けてアイラが言った「彼女にしかできない仕掛け」というところからも明白だった。

「使うのを控えてきた、ですか。アイラさんがそこまで言うんでしたら、きっと相当に強力なものなんでしょうね。ですが、それも効かなかったとしたら、その時はどうするんですか?」

「その時は、アタシも覚悟を決めて戦うさ。いずれこうなることは分かっていたんだ。政府にとっても、アタシという裏切り者を始末する、絶好のチャンスだろうしさ」

 ハルが念のためアイラに尋ねてみると、アイラの口からは政府と戦う覚悟を持った言葉が返ってきた。いざという時は政府と戦う覚悟を捨てていない。この幻惑ガス弾も、その意思表示の一つだった。

「気を付けろ、二人とも。そろそろ、この入口が破られそうだ」

 その時、ガルディンが二人に声を掛けてきた。すでに入口を護る壁は酷く変形しており、いつ破られてもおかしくない状況だった。

 入口が分厚い壁で護られている分、その向こうにどのような光景が広がっているか、それを知ることは全く不可能だった。多くの謎と共に、様々な思惑が交錯していく中、一際鈍い重低音が周囲に響き渡った。

「い、入口が破られた!」

「慌てるんじゃないよ! まだこの鉄格子がある!」

 入口を護る壁が大きく破られ、巨大な穴が開けられた。その先に見えたのは、昨日ハルを追いかけてきていた追跡者たちと同じ服装を身に纏った男たちだった。

 政府の監視員たちが開けられた穴を使って一斉にアジトに侵入しようとした。しかし、そこに現れた鉄格子によって進路を塞がれ、それ以上進むことができなかった。

「喰らえっ! このっ!」

「な、なんだ? う、うわぁっ!」

 アイラが鉄格子を蹴り飛ばしたその直後、鉄格子全体から前方に向けて大量のガスが噴射されていった。ハルはとっさにその場から離れ、そのガスの影響を受けないようにした。

 アイラとガルディンも後退し、そのガスを誤って吸ってしまうことのないようにしていた。

「クソッ! なんだ、このガスは?」

「慌てるな! この程度の目くらましが、我々に通用すると思うな!」

 催眠ガスはアイラの思惑通りに効果を発揮してくれなかった。監視員たちが対ガス装備を身に付けているとなると、事態はさらに厄介なことになる。

「アイラさん! あいつら、あのガスが効いていないみたいですよ!」

「なるほどね。やはり、あれぐらいじゃダメだったか。それじゃ、コイツはどうだい?」

 アイラはすでに幻惑ガス弾を投げ付ける体勢に入っていた。アイラは安全ピンを外し、すぐに幻惑ガス弾を催眠ガスに包まれた空間の中に放り投げた。

「ウオッ! な、なんだ? こ、今度は別のガスか?」

「おのれ、小癪な! だが、どんなガスも、今の我々には通用しない……、んっ? な、なんだ……?」

 数秒後、催眠ガスとは異なった色の煙がその空間に広がっていった。最初はその中から政府の監視員らしき者たちの声が聞こえてきた。しかし、その直後。政府の監視員たちの声が、徐々に聞こえなくなり始めていた。そして、ものの三十秒もしないうちに、彼らの声がガスの中から一切聞こえなくなった。

「ヤツらの声が聞こえなくなったな……。アイラ、これは一体どういうことだ……?」

「恐らく、アタシが用意した幻惑ガス弾が効いたのだと思います。ですが、このような狭い通路の中では、本当に効いたのかを確かめることは難しいでしょう」

 ガルディンがアイラに問いかけると、アイラは恐らく自分が用意した幻惑ガス弾が効いたのだろう、と返事をした。

「……あっ、見てください。ガスが通路の外に出ていきますよ」

「どうやら、自動換気システムが作動したみたいだね。随分古い地下シェルターだから、そういうのもとっくに壊れていたって思っていたんだけど」

 突然、入口付近に充満していた大量のガスが、入口の外に向かって急速に流れ出し始めていった。地下シェルター内の空気を浄化する自動換気システムが作動したのだ。自動換気システムによってガスが除去され、入口付近が元の光景に戻っていった。

「……あぁっ! こ、これは……?」

 そこには、政府の監視員たちが、全員その場から動かなくなっている光景が広がっていた。全員表情がうつろになっており、目もまるで視点が定まっていないかのように呆けた様子となっている。

「フゥ。どうやら、上手いこと効いてくれたみたいだね」

 一方で、アイラは安堵するように小さく息を吐いていた。幻惑ガス弾が効いたことで、当面の危機を脱することができたと確信したのだろう。

「う、上手いこと効いてくれたって……。あ、あの幻惑ガス弾が効いた、ってことなんですか……?」

「あぁ。あれは、普通の対ガス装備でも防ぐことができないように、ガス自体を非常に微細な粒子で作っているのさ。催眠ガスが効かないって分かった時点で、ヤツらが対ガス装備を用意していることは分かったから、これはある意味貴重なデータを取ることができた形だね」

 アイラが話をしている間も、政府の監視員たちは、その場から一歩も動こうとしなかった。動くことはおろか、呻き声の一つさえ上げることなく、ただ金縛りに遭ってしまったかのように微動だにしない。

「そ、そうですか……。それにしても、あいつら、全然動きませんね……。アイラさん、一体どんな薬を使ったんですか……?」

「あぁ、そうか。薬の正体も分からないんじゃ、さすがに訳が分からないよね。今回、アタシが幻惑ガス弾の成分として使ったのは、この薬だよ」

 ハルの疑問に対し、アイラは懐から小さなビンを取り出した。手のひらに収まるほどの大きさを持ったそのビンの中には、ある無色透明の液体が入っていた。

「おっ、アイラ。その薬、出来上がっていたんだな。もしかして、あの幻惑ガス弾は、その薬を使って作ったものなのか?」

「はい、リーダー。今はまだ試作品なので、正直このままでは使えませんが、ここからさらに改良していけば、巨獣対策にも使えるようになると思います」

 どうやらこの薬のことはガルディンも知っているらしく、さらにかねてから巨獣対策のために研究を続けていたものである、ということも明らかになった。

「おっと、ゴメン。説明が途中だったね。この薬は、簡単に言うと、相手の時間感覚を強制的に引き延ばす薬だよ」

 そこで、アイラがハルへの説明が途中だったことに気付き、説明を再開した。とりあえず、毒薬の類ではないということは分かったが、相手の時間感覚を強制的に引き延ばす、その意味は分からなかった。

「時間感覚を強制的に引き延ばす薬、ですか……?」

「あぁ。大昔に流行ったらしいなんとかっていう漫画の中に、そういう薬を開発した科学者の話があってね。それを聞いた時、アタシはちょっと面白そうだなって思ったのさ。その薬を現実に作ることができれば、もしかしたら巨獣対策にも使えるんじゃないかって」

 アイラは続けて、自分がこの薬を作ることになった経緯をハルに話した。ハルにとって驚愕だったのは、アイラがその漫画の中で描かれていた薬を再現しようと考え、それを実現してみせた、という事実だった。

「そ、そうだったんですか……。ですが、よくそんなこと思い付きましたね。俺だったら、そんな突拍子もないこと、とても思い付きませんよ」

「まぁ、普通はそうだろうね。さて、説明を続けるよ。アンタは、武芸の達人同士の戦いで、相手の動きが止まって見える、というのは聞いたことないかい?」

「相手の動きが止まって見える、ですか……? 確かに、そういうことは、何度か聞いたことありますけど……」

「そう、それが時間感覚の延長だよ。感覚が極限まで研ぎ澄まされていると、稀にそうした現象が起こるんだ」

 相手の動きが止まって見える、というのは話としては聞いたことがある。しかし、そこまで感覚を極限まで研ぎ澄ましたことがないハルにとっては、今一つ実感を抱くことができなかった。

「なるほど。でも、俺にはそういう感覚、ちょっとよく分からないんですけど……」

「確かにそうだろうね。でも、本当はアタシたちも、そうした時間感覚が伸びるようなことを、経験していたりするのさ」

「えっ? それって、どういうことですか……?」

「例えば、時刻を確かめようと思って時計を見た時、時計の針やデジタルの動きが、一瞬だけいつもより長いな、と思ったことがあるだろう?」

 アイラに指摘されて、ハルは確かにそのようなことがあったな、ということを思い出した。あれがその時間感覚の延長なのだろうか。

「あっ。言われてみれば確かに、そんなことがあったような気がします。ひょっとして、あれも、アイラさんが言っていた時間感覚の延長なんですか?」

「その通り。まぁ、アタシたちのような人間じゃ、そのほんの一瞬だけしか味わえないし、武芸の達人であっても、それがほんの少し長くなるだけの話だけどね」

「そういうことですか。それで、時間感覚が強制的に引き延ばされると、どういうことが起こるんですか?」

「そうだね。一言でいえば、周りの動きがゆっくりに見える、ということさ。時間感覚が引き延ばされるということは、当人にとっての体感時間がゆっくりになる、ということだからね。現実の時間の流れと当人の体感時間に、大きな乖離が発生する、ということになるのさ」

 アイラの説明を聞きながら、ハルは周りの動きがゆっくりに見えるとはどういうことか、ということを想像しようとしていた。そこで、そこには退屈しかない、という結論に至った。

「時間の流れの乖離、ですか」

「そう。そして、ここからがこの薬の大きなポイントでね。アタシたちは、普段の生活の中で無意識のうちにこの時間感覚というものに支配されている。常に止まることなく流れ続けている時間を感覚として受けているからこそ、アタシたちはこうして喋ったり、動いたりすることができるのさ」

 アイラの説明を聞きながら、ハルも次第に時間感覚の意味を理解し始めていた。

「それで、時間の流れの乖離が大きくなると、どういうことが起きるんですか?」

「一言でいえば、身体が思うように動かせなくなる、ということさ。強制的に引き延ばされた時間感覚は、当然その人の身体の動きにも影響を与える。仮に、一秒が百年ほどに感じられるとしたら、普通の人が一秒で動ける距離も、その人にとっては百年かけないと動くことができない、ということになるのさ」

 淡々とした口調でアイラは説明を続けているが、ハルは次第にその内容に対して言い知れない恐ろしさを感じるようになっていった。

「な、なんとなくですけど、それは、ちょっと怖い話ですね……。それで、この人たちは、どうなってしまうんですか……?」

「そうだね。さっきも言った通り、この薬は元々巨獣対策のために作ったものだから、人間に使うことはあまり想定していないのさ。ガス状にして多少濃度が薄まっているとはいえ、数日間はこのままだろうね。もっとも、コイツらにとっては、きっと恐ろしいほどの時間が流れている感覚を体験させられているんだろうけど」

 この薬は、下手な毒薬よりも恐ろしいものだと、ハルは内心震え上がる思いを禁じ得なかった。

「……ふむ。ひとまず、その薬の効果が本物だということは実証できたわけだな。さて、問題はこれからどうするか、だが……」

 ガルディンが動かなくなった政府の監視員たちを眺めながら、今後の対策について思案を始めていた。時間的な猶予はあまり残されていない。早急に対策を練り、すぐに動かなければならない。

「このアジトのことが政府に知られてしまった以上、いつまでもここにいるわけにはいきません。かなり厳しい状況になりますが、このアジトは放棄するしかないでしょう」

 アイラの返答は、ガルディンとハル、双方にとって十分予想できるものだった。やはり、ここはアイラの言う通り、このアジトを放棄するしかないだろう。

「なるほど、やはりそうするしかないか。すまないが、ハル。来てもらって早々悪いが、これから我々はこのアジトを放棄し、地上に出ることにする」

「分かりました。あっ、でも、他のメンバーたちのことはどうするんですか?」

「そのことなら心配無用だ。すでにこのアジトが政府に知られてしまったことは全員に連絡してある。最悪の場合、アジトを放棄することになるとも伝えてあるから、彼らもすでに覚悟は決めているだろう」

 アジトを放棄する。それはつまり、ハルにとって地上の旅が再開することを意味するものに他ならなかった。これはこの先待ち受けている数多の困難の、ほんの一部でしかない。

「それじゃ、早速始めようかね。研究データの保存に消去、それにこの地下シェルターの機能停止と、やることはいっぱいあるよ」

 そして、ハルたちはアジトの放棄に向けた準備を進めるべく、奥の部屋へと向かっていった。一つの困難を乗り越え、ハルの旅は、今ようやく本当の意味で始まりの時を迎えようとしていた。

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