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男は氷の向こうに夢を見る
リュード
SFポストアポカリプス
2024年08月07日
公開日
78,475文字
連載中
極度の寒冷化に見舞われた未来の地球。
地上の大半は氷に覆われ、ほとんどの生物が地上から姿を消した。
わずかに生き残った人類は地下深くに無数のシェルターを造り、そこを新たな生活拠点としていた。
地下シェルターで生まれた主人公『ハル』は、地上のことを知らないまま、地下シェルターの人工農場で働いていた。
そんなある日、ハルは偶然地下シェルターの立入禁止区域に入り込んでしまう。
そこに用意された潜望鏡から見えたもの。それは一面氷に覆われた地上の姿だった。
ハルは、生まれて初めて見る地上の光景が、幼い頃から聞かされていた通りのものだったことを知り、ある疑問を抱く。

『何故、地上は氷に覆われてしまったのか』
『もう、人類は地上には戻れないのか』
『誰も、地上に戻ろうと言わないのは何故なのか』

尽きない疑問を解き明かすため、ハルは地下シェルターを出る決意をする。

協力者の存在、襲い来る巨獣。そして、行く手を阻む謎の組織。
氷に覆われた世界の向こうに、彼は果たしてなにを見るのか?

第1話

「ハァ、ハァ、ハァ……。クソッ、しつこいな。一体どこまで、俺を追いかけてくる気だ……?」

 一面を雪に彩られた大地。銀世界、などといえば聞こえは良いのかも知れないが、実際にはそれとは全く程遠い過酷な世界だった。常に大量の雪が降り注ぎ、収まることなく吹き荒れる突風がその雪を休むことなく巻き上げ、巨大な猛吹雪を作り出している。時折竜巻のように渦を描きながら巻き上がっていく大量の雪。その強烈な吹雪は、人間はおろか、あらゆる生物がそこに存在することを拒絶するかのように吹きすさび、この大地を純白の砂漠に作り替えていた。

 そんな険しい、などと言う言葉すら陳腐に聞こえてしまうような純白の砂漠の中を、なにかから逃げようとするかのように走り続けている一人の男の姿があった。男は分厚い防寒着を身に纏い、靴も雪中の移動に便利なスパイク付きの安全靴を着用していた。しかし、そうした防寒具や安全靴ですら、この純白に塗り固められた世界では全くの無意味だった。男は防寒具や安全靴を貫通して伝播してくる、全身を突き刺すような冷気をこらえながら、吹雪が猛威を振るうこの大地を走り抜けようとしていた。

「あの地下シェルターを出てから、ずっとこんなことばかりだ。一体、俺がなにをしたっていうんだ……?」

 男は、全身を防寒具や安全靴で覆っているだけではなく、顔にも防寒用の特製マスクと寒冷地仕様のゴーグルを着用していた。ゴーグルの上から容赦なく吹き付ける大量の雪を腕で振り払い、遮られそうになる視界をなんとか確保していく。防寒マスクも、かつて軍隊で使用されていたという強力なガスマスクを改良して作られたというだけあって、かなりの割合で冷気を遮断することができていた。とはいえ、やはり外気温があまりに低いこの状況では、防寒着や安全靴と同様、冷気を完全に遮断することはできなかった。顔が寒い。瞼がこごえて、思うように瞬きをすることができない。それでも、男は走り続けなければならなかった。何故なら、男にはどうしても果たさなければならない重大な使命があったからだ。

「フゥ、とりあえず、ここで様子を見るか。相手も俺の姿がよく見えないのは同じのはずだからな。こうして隠れていれば、そう簡単には見つからないはずだ……」

 さらに走り続けていくうちに、男は視界の向こうに黒く光る物体を発見した。それが巨大な岩の類であることに気が付いた男は、ひとまずその岩の陰に隠れ、周囲の気配を窺うことにした。男を追いかけているらしい追跡者たちの姿は、今のところ岩陰から認めることはできなかった。しかし、彼らもこの岩の存在に気付けば、これを怪しいと思わないわけがない。猛吹雪が視界が極端に悪くなっている中、男は少しずつ近づいてくる追跡者たちの様子に注意を払い続けていた。

「しかし、地上が本当にこんな極寒の世界だったなんてな。初めて知った時は驚いたが、こうして地上に出た以上、もはや俺に後戻りはできない……」

 息を呑みながら、男は岩陰の奥でジッと動かずにいた。防寒マスク着用時特有の乾いた呼吸音が聞こえてくるが、それもすぐに猛吹雪の中にかき消されていった。思えば、「あの事実」を知った時から、男の運命は変わり始めていた。今まで地上のことをなに一つとして知らなかった男にとっては、あるいはそのままなにも知らないでいた方が、楽な人生を送ることができたのかも知れない。しかし、このままでは人類はいずれ生存することができなくなる。それを食い止めるためには、この地上の真実を探らなければならない。男の脳裏に、こうなる以前の記憶が蘇ってきていた。

「……んっ、うぅ……。あっ、もう、こんな時間か……」

 薄暗い明りに照らされた部屋の中で、男は目を覚ました。ベッドの上から見上げる天井は、一切の飾り気のない無機質なもので、それはこの部屋が住居としての最低限の機能しか求められていないことを意味していた。天井の中央付近には部屋の中を薄暗く照らす灯りが、その存在を誇示しようとするかのように小さな光を放っていた。ベッドから上半身を起こし、壁に掛けてある時計に視線を移す男。その時計は、確かに男が起床するべき時間を指し示していた。

 男は眠い目をこすりながら周囲を見渡した。男が今いる部屋には窓に相当するものが一切設置されていない。まるで牢屋のように部屋全体を囲っているコンクリートの壁が、その部屋の空気すら冷たくしているような印象を与えていた。そんな氷のような寒気すら感じさせる光景を見ても、男の心には一切の感情が湧き上がってくることはなかった。男にとっては、この部屋の光景はすでに当たり前のものとなっており、そのことに疑念を挟む余地は一切認められなかった。

「さて、そろそろ起きないと。今日もまた、仕事が始まるんだからな」

 男はそうつぶやきながら、ベッドから身を起こした。そして、部屋の隅にあるタンスを開け、中から作業着と思われるものを取り出した。作業着に特別異常がないことを確認した男は、おもむろに寝間着からその作業着に着替え始めた。慣れた動作で作業着に着替えていくその様子は、男がそれを着て従事しているであろう仕事に長く従事していることを示唆するものだった。作業着に着替えた後、男はそれまで着ていた寝間着を丁寧に畳み、ベッドの整理をした後、その上に置いた。

 作業着に着替えた男は、その後で朝食の準備で取り掛かった。朝食とはいっても、冷蔵庫に保管している携帯食をそのまま食べるという実にシンプルなもので、これもできる限り無駄な時間を過ごしたくないという、男なりの考えだった。決して食事が苦手というわけではなかったが、それでも贅沢な食事をするという機会は滅多になく、普段はこうした携帯食と水で済ましてしまうことが多かった。冷蔵庫の中から携帯食と水を取り出し、それを朝食代わりにする。これもまた、男にとっての一日のルーティンワークの一つだった。

「……さて、今日のニュースは、と……、んっ? 北の第三シェルターで暴動か。あそこは、どうにも治安が悪いってもっぱらの噂だったからな。いつかは暴動が起きると思っていたけど、やっぱり起きたか」

 携帯食を食べながら、男は部屋の天井近くに設置してあるディスプレイの電源を入れた。すると、今日のニュース速報と称して、とある場所で暴動騒ぎが起こったことを知らせるテロップが流れた。それを見た男は、特に驚く様子を見せることなく、そのニュースを眺めていた。どこでどんな事件が発生しようと、それが自分の生活に大した影響を及ぼさないのであれば、自分が無闇に関わる必要などない。あの人たちにもあの人たちの生活があるのと同様に、男にも男の生活がある。互いの生活に不用意に入り込むことは、男にとっては厳に慎まなければならないことだった。

「よし、そろそろ仕事に行くか。今日もまた、あんなつまらない労働が始まるのか」

 朝食を終え、ディスプレイの電源を消した後、男は自分の服装などに乱れがないかどうか、全身鏡を見て確かめた。服装や髪型などに大きな乱れがないことを確認した男は、一つ小さく息を吐きながら、部屋のドアを開けた。最新の生体認証システムが完備されたこのドアは、本人の顔を極めて高い精度で検出し、入退室を管理することができるようになっている。いつ誰が、どの部屋に入室し、あるいは退室したかは、この部屋を含めた居住区を管理するセキュリティーセンターによって一元管理されている。もし不審者の存在が検知された場合は、自動的にセキュリティーセンターに通報されることになっている。

 部屋を出た男は、ドアのカギが掛けられたことを確認した後、その足で自分が働いている区画に向かっていった。その通路も、男の部屋と同様、コンクリートに覆われた壁の天井に等間隔で照明が設置されているだけのものだった。よく言えば実用的、悪く言えば遊びがない。男が通路を歩くたびに、コンクリートの床から足音が小さく反響していく。そんな通路を、いつもの通りのルートを辿りながら勤務場所に向かう男。その時、ふと男に声を掛けてくる一人の人物があった。

「よぅ、おはよう、ハル。今日もあの人工農場で働くのか? 毎日毎日、ご苦労なことだな」

「おはよう。まぁ、それが俺の仕事だからな。俺たちがちゃんと仕事をしないと、みんなに食料を届けることができないからな」

 その人物が気さくな様子で声を掛けると、男はそれほど感情を表に出す素振りを見せないまま軽く返事をした。その『ハル』と呼ばれた男は、相手の人物との会話から、人工農場と呼ばれる施設で働いているらしい、ということを窺い知ることができた。今ハルが着ている作業着は、まさにその人工農場で働く者にとってもいわばユニフォームであり、これを身に纏うことによって、ハルは一人の男性から人工農場の作業員へと、その身分を変貌させることになるのだった。

 その後、軽く挨拶をしながら相手の人物と別れたハルは、再び人工農場を目指して歩いていった。やがて居住区を抜け、農場区と呼ばれる区画に入ったハルは、いくつもある区画の中から、自分が働いている人工農場がある区画へと入っていった。自分の担当区画は初めてこの人工農場で働くことになった段階から決められており、複雑に入り組んだ迷路のような区画であっても、ハルが目的の人工農場に辿り着くのに迷うことはなかった。そして、顔認証で人工農場の入口を開け、ハルはその中に入っていった。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

「おぉ、おはよう、ハル。今日も早いな。そろそろA地区の作物が収穫できる頃だ。病気になったりしないよう、しっかりチェックしてくれよ」 ハルが挨拶をしながら人工農場に入っていくと、入口付近に控えていた男性がハルに返事をした。どうやらこの男性が、この人工農場の管理責任者であるらしい。人工農場はその広大な敷地をいくつかの地区に区切って管理をしているらしく、今はA地区と呼ばれているところが収穫を迎えようとしている頃だった。その話を管理責任者から聞いたハルは、分かりましたと一言返事をすると、その重要な時期を迎えているA地区へと向かっていった。

 この人工農場では、水耕栽培という方法が取られている。水耕栽培とは、土を使わずに水と液体肥料で植物を育てる方法で、屋内でも植物を育てることができる方法として今でも用いられている。屋外と遮断した空間で植物を育てるため、虫や病気の心配をする必要がなく、農薬も一切使用しない。季節を問わず年間を通して計画的な栽培が可能であり、この人工農場でも大規模な水耕栽培が取り入れられ、数多くの植物がここで大量に栽培されている。

「しかし、チェックをするといっても、水耕栽培なんだから、なにもチェックする必要なんてないだろうに」

 人工農場の内部は非常に明るかった。作物の生長を促進する特殊な照明が天井にいくつも設置され、等間隔に並べられた照明が文字通り作物をひっきりなしに照らすことによって、作物の生育に必要な光合成を活性化させている。故に、この人工農場の照明の強度は、ハルが住んでいる部屋や通路と比較するまでもなく高いものだった。それは言うまでもなく、この人工農場の管理運営に多額の費用が掛けられていることを示唆するものであり、文字通り人々の生活を支える重要なインフラの一つとして定着していることの証明でもあった。

 A地区にやってきたハルは、小さくため息をつきながら水の中に根を張らしている作物の状態をチェックしていた。チェックするとはいっても、最新の浄水技術や空気清浄技術が惜しげもなく注ぎ込まれているこの人工農場において、作物の生育に悪影響を与えてしまうような事態が発生するとは到底考えられない。実際、ハルが働き始める以前も、そしてハルが働き始めてから以降も、そうした事態は一件も発生していない。もちろん、その裏には浄水設備や空気清浄設備を適切にメンテナンスする作業員がいるからである、ということはハルも知っていた。ハルが行うチェック作業は、作物の生育状態をチェックするというより、その設備のメンテナンスが適切に行われていることを裏付けるという意味合いの方が強かった。

「……こっちもよし、こっちも問題なし、と……。フゥ、毎日毎日、同じ作業の繰り返し。俺の仕事って、本当に意味があるのだろうか……?」

 チェックシートの内容を一つ一つ埋めていきながら、ハルは自分の仕事に対して、なにも意義を見出すことができない状態だった。自分がチェックを適切に行わなければ、作物を出荷することができず、人々の生活に悪影響を与えてしまう。そのことはハルも理解しているつもりだった。しかし、それをいうのであれば、このチェック作業すらもロボットなどを使って自動化することも可能なのではないか。そうすれば、わざわざ人手を割いてこのようなチェック作業を行う必要もなくなるというのに。

 以前、ハルはそのことを管理責任者に提案したことがあった。しかし、それに対する管理責任者の返答は「自動化してしまうと、細かい変化を見逃してしまう可能性がある。それを避けるためには、人間の目による細かいチェックが必要だ」というものだった。それを聞いたハルは、なんと前時代的な考えなのだろうと、呆れずにはいられなかった。人間の目によるチェックが必要だというのは分かる。だが、人間の仕事も完璧ではない以上、チェック漏れが発生してしまうリスクを避けることはできない。

 それに、今は視覚センサーも昔とは比較にならないほどに精度や解像度が向上し、人間の目と同様、あるいはそれ以上に細かいチェックが可能となっているだろう。にも関わらず、それを頑なに採用しようとしないこの管理責任者の考え方には、どうしても付いていけない。設備のメンテナンスに人間の手が必要だというのは、今も昔も変わらない。それであれば、自分もそうした設備メンテナンスの仕事に配属してほしい。ハルは密かにそんな思いを抱いていた。

「だけど、俺には特別技術があるわけでもないし、こうしてただ作物の状態をチェックするしかできないんだよな。まぁ、こんな仕事でもちゃんと給料はもらえるし、タダ働きされていないだけでもマシか……」

 だが、そうした設備のメンテナンスを行うには、その設備を適切に扱うことができるだけの知識と技術が要求される。そして、そうした知識と技術は一朝一夕に身に付けられるようなものではない。さらに言えば、知識と技術を身に付けた上で、そうした仕事に就くためには、その知識と技術を証明する資格が必要になる。今からその要件を満たそうとしたところで、果たしてどれだけの時間が必要になるだろうか。そのような面倒なことをするのであれば、今の仕事でそれなりの生活を続けていった方がまだ楽だろう。

 たった一地区とはいえ、広大な人工農場の作物の状態を一つ一つチェックするのは、決して楽な作業ではなかった。あらかじめ用意されたチェックマニュアルに沿って作業をすれば基本的にはなにも問題はない。ただ、それは裏を返せば、チェックマニュアルの内容さえ把握してしまえば誰でもできる作業である、ということを意味していた。どうせ自分がなんらかの理由で働くことができなくなったとしても、代わりの人材などすぐに用意することができる。とはいえ、なにも文句を言わずに働けば、自分の生活は一定水準保証されるということでもある。ハルは、無言で作物の状態をチェックしながら、その結果をチェックシートに一つ一つ書き込み、次の作物をチェックするということを繰り返していった。

「……よし、これでチェックは完了、と。生育状態、害虫、農薬、いずれも問題なし、か。結局、これも昨日と同じ結果をコピーするだけなんだよな。こんな生活に、一体なんの意味があるんだろうか……?」

 程なくして、A地区の作物の状態を全てチェックしたハルは、その結果をつぶさにチェックシートに記録していった。記録するとはいっても、衛生管理などを徹底的に行っているこの人工農場において、作物の生育に悪影響を与えるような問題が発生する可能性は極めて低かった。その証拠に、今日のチェック結果も、昨日と全く同じ、全て問題なし、というものだった。これなら、昨日の結果をそのまま書き写して提出した方がはるかに楽ではないか。ハルは、こんな作業に一体どれほどの意味があるのかと思いながら、そのチェックシートを持って管理責任者の元に向かった。

「おっ、戻ってきたか、ハル。それで、チェック結果はどうだった?」

「はい。全て異常ありません。こちらが、本日のチェックシートになります」

 ハルは、いつもの通りにチェックシートを管理責任者に渡すと、フゥと小さくため息をついた。管理責任者がチェックシートを眺めている間、ハルは他の地区の様子に視線を映していた。他の地区はA地区の収穫が完了したタイミングで、続けて作物の収穫ができるように与える水分量や液体肥料などの量を毎日細かく調整していた。そのため、そうした調整が適切に機能しているかどうかをチェックする作業員が、毎日水質などの状態をチェックしていた。

 そんな彼らの仕事ぶりを見ながら、ハルはせめてあのような仕事を自分にも回してほしいと心密かに思っていた。もっとも、衛生管理が隅々まで行き届いているこの人工農場では、彼らの仕事もハルの仕事と同様、あまり大きな意味を持つようなものではないのかも知れなかった。結局、ここで自分たちが働いているのは、自分たちに退屈な思いをさせてはいけないという、何者かの意思によるものであるに過ぎない。そんな何者かの気まぐれに付き合わされている自分たちの身にもなってみろ、とハルは大声で叫びたい心境だった。

「……よし、ご苦労だった。ハル、今日はもう帰っていいぞ。今週中にはA地区の作物は全て収穫する予定だから、来週からはB地区のチェックをやってもらう。いいな?」

「分かりました。では、今日のところはこれで失礼します」

 管理責任者による最終確認が終わり、これで今日のハルの仕事も終わりを告げることになった。ハルは小さくお辞儀をすると、そのまま身体を反転させて人工農場を後にした。自分の居住区に戻りながら、ハルはこれからの生活について思いを巡らせていた。この先も、このような味気ない毎日が続くのだろうか。一体、人類はいつからこのような生活を送るようになったのだろう。そして、誰一人としてこの生活を変えようと思わないのは何故なのか。様々な疑問が脳裏を駆け巡っていくが、それに対する明確な回答をハルが握っているはずもなかった。かくして、ハルの一日は、この日もこうして静かに終わろうとしていた。

「あの時は、あんな平凡な生活がずっと続くんだと、信じて疑っていなかった。こんな退屈な毎日を繰り返しながら、俺もいつかひっそりと人生を終えていくんだろう、ってな……」

 ハルは猛吹雪を岩陰に隠れてやり過ごしながら、なおも消えない追跡者たちの気配に目を光らせ続けていた。何故、彼らはこれほど執拗に自分を追跡しようとするのか。彼らが自分を捕まえたところで、自分は彼らが求めているであろうものや情報の類をなに一つとして持っていない。そんな、単なる路傍の石に過ぎないはずのこの自分を、ここまで追い回す理由はなんなのだろう。とにかく、今ハルにできることといえば、追跡者たちが自分の追跡を諦めて、この場から遠ざかってくれることを祈るだけだった。

「……あいつらと戦おうにも、武器になりそうなものなんて持っていないし……。それに、もしあいつらが軍隊だったとしたら、俺が武器を持っていたとしても、多分戦うのは無理だ……」

 防寒マスクを着用して呼吸をしているおかげで、ハルの肺は冷気の影響を受けていなかった。もし、この極寒の冷気の中で防寒マスクを使わずに呼吸しようものなら、肺がその冷気にさらされてしまい、立ちどころに細胞が壊死するなどの悪影響が出てしまうだろう。しかし、ハルが今持っているのは数日分の食料だけで、とても武器として使えるものは持っていなかった。いや、仮にハルが武器を持っていたとしても、相手が戦闘のプロだとしたら、その武器も全く意味を持たないことになる。

 追跡者たちは、どうやらハルを見つけることができずに四苦八苦している様子だった。しかし、一向にこの場から引き返そうとしないところを見ると、ハルを探すことを諦めたわけではないようだった。一体、彼らは何者なのだろうか。どうしてこれほどにハルを追跡し、その身柄を確保することに躍起になっているのか。自分がなにか知ってはいけない秘密を知ってしまったのであれば話は別だが、何度思い返してみても思い当たる節を認めることができない。迂闊に動くこともできず、かといってこのままジッとしているわけにもいかない。実にもどかしい時間が流れ続けていた、その時だった。

「……んっ? なんだ、この音は。……これは、爆発……?」

 ふと、ハルは自分の耳に猛吹雪とは異なる音が聞こえてきたような気がした。ハルの耳には、防寒着の下に聴力を邪魔しない特製の防寒具が着用されており、耳が冷気でやられてしまうのを防ぎながら、同時に十分な聴力も確保していた。猛吹雪の中から聞こえた音は、最初はただの幻聴ではないかとハルは思っていた。しかし、その音の正体を探ろうと両耳に意識を集中したその時、最初と同じ音が再度ハルの耳に届いてきた。間違いない。これは幻聴などではない。そして、これはどうやらどこかでなにかが爆発した時の音であるらしい、ということをハルはすぐに見抜いた。

「確かに、これは爆発音だ。でも、こんな寒いところで、どうすれば爆発なんて起こせるんだ……? 特に燃やすものがあるわけでもないし、あの音は、一体……?」

 ハルの指摘は全く正当なものだった。確かに単純になにかを爆発させるためには、十分な量の火薬と、それに着火するための導火線があればよい。しかし、この恐ろしいほどの冷気の中では、どんな火薬も凍り付いて使い物にならないだろうし、仮に火薬を冷気の影響を受けないように密閉していたとしても、今度はどうやって導火線に火を付けるかが問題になる。そもそも、ものが燃えるためには「可燃物」「酸素」「熱」の三つが必要になる。このうち可燃物と酸素は問題ないとしても、肝心の熱が明らかに足りない。他のもので火を起こそうとしても、この猛吹雪の中ではすぐにその火も消えてしまうだろう。

「誰かが別の方法で爆発を起こしたのか……? でも、仮にそうだとしても、一体、誰がそんなものを……?」

 ハルは追跡者たちの気配がその場で静止していることに気が付いた。どうやら彼らもあの爆発音に不審を抱いている様子であることが窺い知れた。ハルは、今なら逃げるチャンスかも知れないと思ったが、恐らく彼らも自分の動きに気が付いて追跡を再開しようとするだろう。そのことを容易に見抜くことができないほど、今のハルは鈍感な人間ではない。それに、追跡者たちまでもが注意を向けざるを得ないような謎の爆発音の正体も大いに気になるところだった。ハルは息を殺しながら、再度爆発音が聞こえてくるタイミングを窺っていた。

「……んっ? なんだ、あれは……? なにかの、乗り物なのか……?」

 その時。ハルは猛吹雪の向こうからなにかの物体が接近してくるのを発見した。最初はその正体が分からなかったが、その物体が自分たちの方に近づいてくるにつれ、その輪郭が次第に明らかになっていた。それと共に、なにかのエンジン音のようなものも唸りを上げてくるのが聞こえてきた。これは間違いない、乗り物だ。まだ正体は分からないが、その乗り物に乗って、誰かがここにやってこようとしている。ただ、仮にそれが事実だとしても、ハルにとってはまだ安心することはできなかった。その誰かが、追跡者の仲間である可能性も捨て切れないからだ。

「な、なんだ、あれは? ウワァッ!」

 その時、追跡者の声がハルの耳に聞こえてきた。どうやら、追跡者たちもあの乗り物の存在に気が付いたらしい。その直後に悲鳴と思われるものが聞こえたところから、その乗り物が追跡者たちを跳ね飛ばした可能性が浮かび上がってきた。追跡者の仲間ではないのか。だとしたら、その正体は一体何者で、どのような目的でここまであの乗り物を乗り回してきたのだろうか。ハルが岩陰に隠れながらなおも様子を窺っていると、エンジン音らしきものがさらに唸りを上げて近付いてくるのが分かった。そして、全く突如として一つの影がハルの目の前に姿を現した。

「大丈夫かい、アンタ?」

「……えっ? あ、あなたは……?」

「詳しい説明は後だよ! さぁ、早く乗りな! ヤツら、すぐにアタシたちを追ってくるよ!」

 ハルの目の前に現れたもの。それは二人乗りのバイクのようなものに乗った一人の人間だった。ハルと同様、全身を防寒着で覆っているため素顔などは分からなかったが、防寒マスクの奥から聞こえた声色から、この人間が女性であるらしい、ということは分かった。その女性が乗っているバイクのような乗り物には、車輪ではなくスキー板のようなものが取り付けられている。確かにこれなら、この雪原を走り抜けるのには都合が良いだろう。ハルがそんなことを考えていたその時。遠くから銃声のようなものが聞こえてきた。

「ヤツだ! ヤツが現れたぞ! 逃すな! 撃て! 撃てぇっ!」

「クソッ! ヤツら、お構いなしか! アンタ、なにボーっとしているんだい! さっさと乗りな! 死にたいのか!」

 猛吹雪の中から、無数の銃声が幾重にも折り重なって反響してくる。ハルは、あの追跡者たちが自分たちを狙って撃ってきているものだということをすぐに理解した。大量の雪が舞い散ることによって視界が極端に悪くなっていることが幸いし、銃弾はいずれも自分たちには命中しなかった。とはいえ、高い殺傷能力を持つ銃撃にさらされたままでは、到底安心することなどできない。ここはひとまず、この女性の言う通りにした方が良いだろう。このまま一人で逃走を続けるよりは、この女性に従った方が、この後の展望も見えてくるかも知れない。ハルはそのバイクの後部座席に乗り、ハンドル部分をしっかりと握り締めた。

「よし、乗ったね。それじゃ、いくよ! 思いっきり飛ばすから、振り飛ばされないように、しっかりと掴まっていな!」

 ハルがバイクの後部座席に乗ったことを確認した女性は、一気にアクセルを全開にし、バイクを発進させた。あまりにも急激に加速度を上げられたことにより、ハルは一瞬全身が後方に吹き飛ばされるほどの衝撃を覚えた。しかし、ここで振り飛ばされてしまっては、自分を助けてくれたこの女性に申し訳が立たない。この女性が何者なのか、というところは大いに気になるところではあったが、今はそれよりも安全な場所まで逃れることを優先しなければならない。ハルはハンドルをしっかりと握り、バイクから振り落とされないように必死の思いでこらえていた。

「ウワァッ! あいつら、まだ撃ってくる!」

「ヤツらもしつこいねぇ。だけど、コイツのスピードには追い付けないだろう。このまま振り切れば、ヤツらも諦めてくれるはずさ」

 ハルの背後から、なおも追跡者たちものと思われる銃声が響き渡ってきた。そのたびに自分たちのすぐ真横や真上を銃弾がかすめていく。ハルは思わずバイクの上で身を縮こませ、できる限り銃弾が当たらないようにやり過ごしていた。その間も、女性はアクセルを全開にし続け、追跡者の手から逃れようとしていた。猛吹雪の中を一台のバイクが走り抜けていく。そのバイクに乗る女性とハル。やがて、追跡者たちが諦めたのか、それまでひっきりなしに聞こえてきていた銃声がピタリと止んだ。

「……じ、銃声が止まった……。あ、あいつら、諦めたのか……?」

「多分ね。でも、まだ安心はできないよ」

 エンジン音を轟かせながら極寒の大地を走り抜けていく一台のバイク。ハルと同様、女性も追跡者たちが諦めたことを感じ取ったらしく、それまで女性から感じられていた緊張感が、ほんのわずかではあるが緩んでいくのをハルは感じ取っていた。しかし、その直後に女性が言った「まだ安心はできない」という言葉を聞いて、ハルは他に自分たちを追ってくる者たちがいるのか、という疑問を抱いた。少なくとも、ハルが知る限り、自分を追ってきていた者たちはあの追跡者たち以外にはいなかったはず。それとも、この女性は自分の知らない危険な存在のことを知っているのだろうか。

「えっ? ど、どういうこと……?」

「このあたりには、もっと危険なヤツがウロウロしているんだ。それこそ、あんな連中なんか物の数にも入らないような、危険なヤツがね」

 そう話す女性の声は、相変わらず高い緊張感に満ちていた。やはり、危険はまだ去ったわけではなかったのだ。しかも、それはあの追跡者たちよりもはるかに危険度が高い存在だという。ハルは、そんな危険な存在よりも、この猛吹雪そのものが危険なものではないかと思ったが、それよりもはるかに危険度の高い存在が、この周辺にいると女性は言っている。それが事実だとすれば、いつそれに襲い掛かられてくるか分からない。ハルがそんなことを考えていた、その時だった。

「……な、なんだ、こいつは?」

「チッ、言っていたそばからもう現れたか」

 突然、ハルたちの前に巨大な影が出現した。その影は、まるで大岩か巨木のようにハルたちの前に立ちふさがっていたが、猛吹雪の中からわずかにうごめく様子を見たハルは、その巨大な影が大岩でも巨木でもない、なにかの生物に属するものであるらしい、ということに気が付いた。その巨大な影を目の当たりにした途端、女性の声色が再びこわばっていくのをハルははっきりと聞き取っていた。もしかしたら、先程女性が言っていた危険なヤツとは、この巨大な影のことを言っているのだろうか。

「コイツとは戦えない! 一気に振り切るよ!」

「えっ? う、ウワッ!」

 女性はバイクを操作し、巨大な影に対して背を向けるようにしながら、アクセルを最大出力にして走り出した。急激な方向転換と急加速の二つが同時に発生したことで、ハルはまたバイクから振り落とされてしまいそうになったが、巨大な影に捕まってしまうわけにはいかないと思い、必死の思いでハンドルを握り締めていた。猛吹雪の中で、その存在感を誇示しようとするかのように轟音を鳴り響かせるバイクのエンジン音。スピードが一気に上昇し、これならすぐに振り切れると思ったハルだったが、そうは問屋が卸してくれなかった。

「あ、あれ! 見てください! 俺たちを追ってきますよ!」

「やっぱり追ってきたか。だけど、アタシたちもここで捕まるわけにはいかないんだよ」

 ハルが背後を振り返ると、あの巨大な影が自分たちを追ってきている姿が視界に移り込んできた。重低音の地鳴りを上げながらハルたちを追ってくる巨大な影。そのスピードはハルたちが乗っているバイクとほぼ同じだった。逃げるハルたちとそれを追いかけてくる巨大な影。いつまで逃げても巨大な影が追いかけてくる。ほぼ同じスピードということもあり、その距離はほとんど変わることはなかったが、このままいずれ追い付かれてしまうかも知れない。ハルが恐怖に身をすくませていた、その時だった。

「仕方がない、コイツを使うよ。アンタ、目を閉じな!」

「えっ? で、でも……」

「いいから早く! 今だっ! このっ!」

 女性がハルに対して、今すぐ目を閉じるように指示を出した。ハルは一体なんのことかと思ったが、鬼気迫る女性の口調を聞き取ったことで、これは只事ではないということをすぐに理解した。もとより、正体不明の巨大な影に追われているこの状況そのものが緊急事態であるといえば全くその通りであるし、その危機を脱するために女性がなにかをしようとしているのであれば、それに従うのか自分にとっても良い結果をもたらすかも知れない。ハルは目を閉じ、ハンドル部分に額を付けるようにしながら伏せる態勢を取った。すると、女性が背後にいる巨大な影に向かってある物体を投げ付けた。

 女性が投げ付けたその物体は、巨大な影の目の前まで到達すると、甲高い音を立てながら凄まじい光を炸裂させた。その光の直撃を受けた巨大な影は、途端にその場で身悶えるように全身を震わせ始めた。恐らく、強烈な発光によって目くらましのような状態に陥り、思うように目を開けることができなくなったのだろう。当然のことながら、ハルたちを追いかけることもままならなくなり、その動きも停止した。女性はこれをチャンスとばかりにアクセルを一気に回し、バイクを全速力で走らせた。

「もういいよ。顔を上げな」

「……は、はい。い、今のは、一体……?」

「心配するな。あれはただの発光弾だ。並の兵器じゃ、ヤツには歯が立たない。だから、ああして一時的に動きを止めるのが精一杯なのさ」

 女性に促されて顔を上げたハルは、周囲に巨大な影が見当たらないことを知り、小さくため息をついた。ひとまず、当面の危機を脱することはできた。この女性が助けに来てくれなかったら、今頃自分はどうなっていたのだろうか。あの追跡者たちに捕まるか、それともあの巨大な影に襲われてしまっていたか。どちらにせよ、決して良い結果をもたらすようなものにはならないだろう。ただの偶然であるとしても、この女性が助けに来てくれたことは、ハルにとってまさに渡りに船だった。

「これから、どうするんですか……?」

「まずは、アタシたちのアジトに行こう。そこで、アンタに詳しい説明をする。アンタがどうしてあんなところでヤツらに追われていたのか、その理由も聞きたいしね」

 ハルと女性を乗せたバイクは、エンジン音を響かせながら、どこまでも広がる雪原の中を疾走していく。地上に出た直後に、このような事態に見舞われるとは思ってもみなかった。元々、決して平穏に終わるようなものではないだろうということは覚悟していたが、初手からいきなり波乱万丈の展開を予感させる出来事が連続して発生したことで、ハルはこの旅が過酷なものになるだろう、という思いを改めて胸に宿していた。果たして、女性のアジトでは、なにが待ち受けているのだろう。そこで、自分は一体どんな話を聞かされることになるのだろうか。世界の真実を知りたいと願うハルの旅は、まだ始まったばかりだった。

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