その手はアリシアの手だった。
小さなアリシアの手は、私を優しく包み込む。
「お姉様」
「アリシア!お食事はいただいた?美味しかったかしら?」
「はい、とっても!」
私とアリシアは些細なことであるけれど、とても楽しく話ができる。
料理は来賓向けに、大人の味付けになっていたから、アリシアに合うかとても心配だったのだ。
「アリシアは大人の口だからね」
不意に兄がそんなことを言うと、少しだけアリシアの視線が兄に移る。
妹は、この兄のことをあまり知らずに育った。
それこそ馬鹿みたいなことをしている兄しか、知らないのだ。
私が学園にいた頃、兄はすでにおらず、家にも帰らない日々。
それが騎士団にいた頃なのだろうが、アリシアは当時更に幼かった。
だから、兄がいると聞いても大して実感がなかったのである。
「お兄様は、いつお帰りになりますか」
「なんだい、急に?僕に帰ってきてほしいの?」
「……それは」
今の沈黙には、私の方が吹き出しそうだった。
嫌なのか。
本当は戻ってくる兄が、嫌なのか。
そんなことを思ってしまう。
「え、ちょ、今の間ってなに?」
「いえ」
「帰ってきて欲しくないんだ~~僕が帰ってくるのがいやなんだ~~」
「いえ、私はもうすぐ学園に行きますので」
「それでも嫌なんだろう~~」
顔を手で覆い、兄は大げさに叫んでいた。
しかしそんな馬鹿な行動が許されるわけもなく、颯爽とやってきたハンスに兄は怒られていた。
丁寧に怒られると恐いんだなぁ、と思う。
兄はハンスに連れていかれ、私はアリシアと一緒にケーキを食べた。
どうしても嫌だと言ったジンジャーケーキは変更され、爽やかな香りのレモンケーキになっている。
来賓客もジンジャーケーキではないことに驚いていたけれど、美味しいと言って食べてくれていた。
「レモンケーキ、どうかしら」
「……お姉様の味がします」
「よかった!アリシアが大好きなケーキだものね」
「お姉様、あの」
「どうしたの、アリシア」
アリシアが何かを話そうとした時、割って入ってきたのは母だった。
笑顔の母が娘たちに寄ってくる。
「もうケーキの時間なのね」
「お母様」
「このケーキ、さっぱりしていて美味しいわぁ」
「わ、私が提案したケーキで……」
「うふふ、伝統を壊しちゃうなんて、素敵ね」
伝統を壊す、と言われると嫌な言い方だ。
でも、確かにそれも一理あるのは分かっている。
私とルイは、ジンジャーケーキが嫌いだから、レモンケーキに変更したのだ。
わがままだと分かっているけれど。
でも、それくらいに嫌いだったのだもの!
お祝い事にはジンジャーケーキがつきものだと、誰もが言うけれど、なんで?と思ってしまう。
母は、今まで関わる時間がなかったことを詫びているつもりなのだろうか。
なんだか、急に話しかけてきて、変な感じがするわ。
「お母様、お父様は」
「あら、あの人なら平気よ」
「そ、そうですか、よかった」
「そんなに心配しなくても、大丈夫よ」
とても落ち着いた言葉で母はそう言った。
変な話だけれど、なんだか怪しいとしか思えない。
今まで旅行にばかり出て、お兄様のことも、娘たちのことも気にしていなかったというのに。
「結婚式、素敵だったわぁ。国王陛下のお話も素敵だったし」
「は、はい……」
「お料理も美味しくて。さすがグラース家よねぇ」
酔っているのか、と思うくらいに母はのんびりとそんなことを言う。
結婚のことなんて、すべて父にまかせっきりだったのに。
何を考えているの?
「うふふ、幸せになるのよ、セシリア」
「はい……」
「アリシアももうすぐ学園でしょう?寂しくなるわぁ」
「お母様、アリシアは通学ですよ」
「それでも寂しいじゃなぁい。娘が成長するのって、やっぱり寂しいのよねぇ」
母のそんな様子を見かねたのか、お兄様が席へ連れて行った。
きっとルイの両親がいないこともあって、話し相手がいないのだ。
そういう人だとわかっていて、席を準備しなかったのも悪かったかも。
私はそんな反省をしながら、アリシアを見た。
「アリシア、大丈夫?」
「あ、は、はい」
「どうしたの、顔色が悪いわ」
「あの、ちょっと緊張してしまって」
そう言った瞬間、アリシアは気を失ってしまった。
私が叫んでしまったから、ルイが飛んでくる。
ハンスが小さなアリシアを抱きかかえ、屋敷に急いでくれた。
結婚式で身内が2人も倒れるってどういうこと!?
私はがっくりと肩を落とした。
「何があった、セシリア」
「ルイ……その、家族で話をしていて」
「……疲れたのだろう、妹は」
「そ、そうかもしれません……」
私はそう言って、ルイに頭を下げた。
せっかくの結婚式なのに、こんなに人が倒れるなんて。
こんなことになるなんて、思わなかった。
「セシリア」
「はい」
「お前のせいではない」
「でも……」
「妹のところへ行ってこい。ハンスなら、安心だろうが」
ハンスなら、と強調したように聞こえた。
そうか、ハンスなら。
ハンスの奥様は、魔女だった。
つまり、アリシアの転生前の姿だ。
それもあって、ハンスはあんなに急いでくれたのだろうか。
屋敷の中へ行き、部屋をのぞく。
そこにはハンスが妹を大事にそうに見つめ、そして優しく頭を撫でてくれているところに遭遇した。
やっぱり、愛しているのね。
たとえ魔女になったとしても、たとえ敵対したとしても。
ハンスにとって、奥様は奥様だった。
そして、その魂を持つアリシアも同じ。
「ハンス」
「お、奥様!失礼致しました、無礼な真似を」
「いいえ。あなたのことは分かっています。だから理由もわかってますよ」
「失礼致しました、奥様……本当に申し訳ない」
「そんなことないわ。あなたの気持ち、よく分かる」
これからの私。
ハンスはただ妻を失ったのではない。
魔女になってしまた妻は、その人格や気持ちもすべて魔女に奪われたはず。
それでも騎士団としてやってきた彼のことだ。
自分の深い思いをすべて押し殺してきたに違いない。
「ハンス、私はどうにかしてあの子を止めたいわ。でもそれが叶わなかった時、どうしたらいいのかしら」
「奥様……」
「私、ハンスやルイのように強くなれるのかしら。この子を守りたいけど、守れなかった時。どうしよう、と思うの」
止めたいけれど、止められなかった時のことも考えねばならない。
多くのことを心配して、多くのことを考えている。
アリシア。
私を救ってくれた本の中の女の子。
キラキラに輝く、愛しい子だったはず。
それなのに。
「奥様、無理はなさらないでください」
「……無理でもしなきゃ、本当は嫌でしょう?ハンス」
「それは……」
「世界は変わらないわ。変わるのはこの子とその周りの人だけよ」
自分の結婚式だというのに、妹のことばかり考えてしまう。
学園に行ったら、ちゃんと王子に会うのよ、アリシア。
でも、そうしたらこの世界は壊れてしまうのかしら。
魔女が焼き尽くす世界に、私が絶望して立つことになるのかしら。
「奥様」
「ハンス……」
「アリシア様は休んでおられます。坊ちゃまのところへ戻りましょう」
「そうね」
ハンスははっきりとした答えをくれなかった。
それは同時に、そういうことなのだろう、と思う。
要は、まだ答えが出ない。
その時が来なければ、答えははっきり出ないのだ。
こんな苦渋を騎士団の人たちはしてきたのね。
そして、その中に私も入るのだ。
「妻は」
廊下を歩きながら、ハンスが口を開いた。
穏やかな声だ。
「妻は、娘が欲しいと言っていました。赤毛の可愛らしい子を。妹のように飛び跳ねて元気に遊び回るような子です」
その言葉に、私はハンスと奥様がどれだけ愛し合っていたのかを感じた。
魔女は、何も感じなかったのだろうか。
何も、思わなかったのだろうか。
2人の幸せを壊してしまっても、本当に何も思わなかったの?
「でも、その願いは叶いました」
ハンスはそう言って、微笑んだ。