「カリブス!」
「はぁ、その名前で呼ばないでくれるかい?君と一緒で、自分の名前が気に入らないんだよ。もっとおしゃれで、格好いい名前がいいよね」
「お前の名前の話をしているわけではないぞ!」
ルイフィリアは兄、カリブス・ウォーレンスに怒鳴りつけていた。
ヘラヘラとした態度の彼は、いつもこうなのである。
ルイフィリアより4つほど年下、金色の髪と青い瞳の、美しい男性だ。
しかし、とにかくご令嬢にモテない。
そして。
「お前はどうしてそんなに馬鹿なんだ!」
「うーん、父上と同じことを言う」
「馬鹿に馬鹿と言って、何が悪い!」
「酷いこというよねぇ、ルイも」
「家の状況を見てみろ!セシリアがうちに来る前から、どれだけ傾いているか、分かっているのか!?」
「分かっているよ。色々と上手くいかないことは、人生につきものさ」
周囲から『馬鹿』と称される男。
きっと彼の耳にも馬鹿と入っているだろう。
しかしそれでも彼は、変わらないのだ。
父の跡を継いで、家業をすると言ってみたものの、結果は傾くばかり。
放蕩息子でないだけマシ、と思われることくらいしか彼には取り柄がない。
馬鹿で、家を傾かせて、女にはモテなくて、見た目だけは綺麗な、まさにお人形だと笑われることの方が多い。
だが、なぜかルイフィリアとの関係だけは続いていた。
弟を失ったルイフィリアの優しさだろう、と周囲は見ているが、それにしては執着の仕方が違うようにも見える。
しかし、ヘラヘラと笑うカリブスを見ると、誰も何も言えなかった。
むしろ、関わり合いになりたくないのだ。
ヘラッとして、カリブスは笑うばかり。
ルイフィリアは、大きなため息をついてしまう。
「……得意なことをしたらどうなんだ」
「得意なことねぇ。それをしたつもりなんだけどなぁ」
「おい!」
「あ、そうそう!アリシアが、お前のことをお姉様にはふさわしくない中年オヤジって言ってたぞ!」
なんだと?
その台詞をルイフィリアは、地の底から出たような声で言った。
中年オヤジという言葉に、怒っているのではない。
姉にふさわしくない、というところに彼はとても立腹していた。
「まあ、10も年が離れていればなぁ」
「うるさい」
「貴族じゃよくある話だけど、さすがに10歳はなぁ」
「うるさい!」
「セシリアのどこがいいのさ?ガサツだし、言葉は悪いし、そんなに可愛いって顔でもないと思うんだよなぁ」
人間の血管が切れる音を、カリブスは初めて聞いたように思う。
ルイフィリアが拳を向けてきた。
彼はこうやって人を怒らせるのが得意だ。
その拳を片手で受け止めて、カリブスはまだ笑っている。
「危ないことするなよぉ。僕が男だからこれくらいで済んでいるけどさ」
「お前は!兄としての自覚はないのか!」
「うーん、そうだねぇ、でも君みたいに暴力を振るう気はもうないよ?」
青い瞳の奥が、少しだけ揺らいだような気がした。
ルイフィリアの腕から力が抜けて、カリブスから離れる。
「年を取っても強いねぇ、ルイは」
「……うるさい」
「あはは。甘いもの好きの大食らいも変わってないしなぁ」
「……うるさい、と、言っている!」
「セシリア、街にあるパン屋の長いパンが好きだよ?表面が固いヤツさ。僕は嫌いなんだけど、あれにバターだけを塗って黙々と食べるのが好きなんだ」
「……ッ!!」
「この時間ならまだ売ってるかなぁ?」
「……クソッ!!」
ルイフィリアは怒っていたが、カリブスに背中を向けた。
それを見て、カリブスが笑っている。
「健気だよねぇ、ルイは。ま、僕には関係ないけどね」
馬小屋の方へ歩いていくルイフィリアの背中に向かって、カリブスはそうつぶやくだけだった。
◇◇◇
興奮したアリシアを抱きしめて、私は少し休むように言う。
頷いた妹をベッドに寝かせて、眠るのを待った。
この子はまだ12歳だ。
12歳の女の子にとって、姉の結婚は衝撃的だったのだろう。
今まで一緒にいた存在が、急にいなくなる。
しかも相手は、自分の家よりも地位が高い。
そちらの家に行ってしまえば、今のように気軽に会えなくなると思ったのかもしれない。
子どもの考えることは、そういうことだろう。
怒りの根源は寂しさだと聞く。
姉を奪われたような気持になって、寂しくてたまらなかったのかも。
この家は、人間こそいたけれど、あまり形のいい家族ではなかった。
父が仕事でいないことは仕方がないとしても、母は貴族の令嬢だから、自分で子育てなんて上手にできるはずがない。
きれいな人ではあるのだけれど、いつまで経っても、貴族のご令嬢としてしか、生きていないのだ。
よく子供を生めたものだな……と結婚を控える身になって、しみじみと思う。
アリシアの寝息が聞こえて、私はその場を離れた。
自分の部屋に紅茶を持っていき、引き裂かれたドレスをもう少し片付けようと思ったのだ。
お茶を取りに行った時、兄が悠々自適な顔でお茶をしていた。
庭に一番近い、アリシアがお気に入りのテーブルで。
「お兄様、ルイはどうしたんですか?ご一緒では?」
「ん~、買い物に出たみたいだよ?」
「買い物?お兄様、何か変なことをおっしゃったんじゃないですか?」
「酷いことを言う妹だなぁ。そんなこと言ってないって」
手をヒラヒラ動かして、自分は無実だと兄は言う。
変な人だ。
もとから変な人だけれど、最近特に変な気がする。
でも、それで誰かを傷つけるようなことはしていないので、実質無害とも言えるので、それも厄介かもしれない。
彼が傷つけているのは、家を傾けるということだけ。
この家のことが嫌いなのかとも思ったけれど、この家がなくなったら、自分が一番困るはずなのに。
「アリシアは?」
「寝ました」
「そう。まだ子どもだねぇ」
「当たり前じゃないですか。アリシアの年を覚えていらっしゃいますか?」
「12だろ。分かってるよ」
「あら、お忘れかと思いました」
「本当に、お前は酷い妹だよ。……ルイにお似合いだね」
その台詞を言った時の兄は、今まで見たこともないような、優しさに満ちている。
なんだろうか、この感じは。
私は、以前から気になっていたことを兄に尋ねた。
「お兄様は、ルイとどのようなご関係なんですか?」
「え~?パーティーで何度か会ったことがあるだけだよ」
「本当ですか?それよりは親しいように感じましたけど……」
「僕とルイは、ただの知り合いさ。それだけ」
「はあ……」
この人から、はっきりとしたことを聞こうと思った自分が馬鹿だった。
この人は、そんなことを気にしているような人間ではない。
そもそも、お父様は仕事でいないのに、どうしてこの人は家に残っているのだろうか。
せめて、一緒に行って来いよ、と思ってしまう。
「ルイとセシリアの結婚式ももうすぐだねぇ」
「そうですね……」
「何か欲しいものはあるかい?たまには何か贈ってやるよ」
「いえ、グラース家には何でも揃っておりましたので」
「そういう意味じゃないよ~、お前にはこう、人をもてなすとか、贈り物をするとかっていう気持ちはないのかい?」
「お兄様から、何をいただけばいいんでしょうか?」
今まで、兄として私に何をしてくれたというのだろうか。
正直な話、私はアリシアの面倒を見ることで精一杯だった。
自分自身も貴族の家の娘として、恥ずかしくないように学ぶことばかり。
兄は、いつも家にいなくて、どこで何をしているのかなんて、はっきりとは分からなかった。
どうせ、どこかで遊んでいるのか、父に任せられた事業をしているのか、そんな感覚だった。
「そうだなぁ。花束をやろうか。ほら、きれいなやつ」
「きれいじゃない花束なんて、欲しくないんですけど……」
「もぉ、お前は本当にひどい妹だなぁ。でも、本当にそんなところがルイにピッタリだよ」
そんなに深い知り合いでもないと言う癖に、この人は何を言うのだろうか、と私は思う。
兄のそんなところが、私はなかなか受け入れられない。
「お兄様、ちょっとお茶でも飲んで落ち着かれたらいかがですか?」
「僕はいつでも落ち着いているよ。変なことを言うなよ、セシリア」
「落ち着いているようには見えませんが……」
「まだまだだねぇ、セシリアは」
「何を言っているんですか、お兄様?」
微笑む兄の顔はとてもきれいだ。
青い瞳が細くなって、金色の髪が光りに透ける。
見た目だけは、本当にきれいなのだ。