かつて、世界を恐怖に陥れた魔女がいた。
その魔女は、時空や時間を操る能力を持っており、人々が目にした時、すでにどれだけの年月を生きてきたのか、誰も知らなかった。
魔女は世界を破滅させるために、何度も生まれ変わり、何度も世界中に恐怖をもたらした。
時には美しい美女として生まれ、時には愛らしい娘として生まれる。
その時々で若干の違いはあっても、見目麗しい姿であることに変わりはなく、魔女に魅入られる男も多かった。
魅入られてしまえば、もう魔女の配下同然である。
手足として扱われ、その命さえ、簡単に散らされた。
それでも最後まで、魔女の魅了は終わらないという。
魔女は知恵もあった。
ただ美しく生まれるのではなく、人々の心の隙間に入り込み、愛情をむさぼり、必要不可欠な存在に成り上がる。
時にそれは農家の娘として生まれ、時にそれは貴族の娘として生まれ、時にそれは商人の娘として生まれ、時にそれはーーー異国の娘として生まれる。
「坊ちゃま」
ルイフィリアはハンスに声をかけられて、頭を上げた。
過去の資料を読んでいたところ、没頭してしまっていたようだ。
金色の髪が、額からハラリと落ちる。
「お食事です」
「構うな、ハンス」
「そう言わないでくださいませ。ハンスは大旦那様から坊ちゃまのことを頼まれております」
「父上はもうおられない。今の主人は俺だ」
「存じております」
「ならば、俺の言うことを聞け」
「それも承知の上で、申し上げております。そんなに奥様と離れるのが嫌だったのですか」
聞かれたくないことを言われると、ルイフィリアはいつも相手を睨む。
だから愛想が悪くて、顔はいいのに人が寄り付かない。
本当は人情もあるし、知っているし、理解している男なのに。
「まだ、半日です」
「うるさい」
「奥様がこの屋敷に来られて数週間、ご実家へ戻られて半日。大して一緒におられたわけでもありませんのに、そんなにお好きですか」
「お前は、どうして昔から物事を丁寧に直通で聞いてくる?」
「戦場では指示が的確でなければ、命を落とします」
「ここは戦場ではないぞ」
「存じております。ですが、このハンス、大旦那様と戦場で散れなかったことを、いまだに悔いております」
丁寧で、穏やか。
執事として、人として、間違えのない男。
けれども彼は、死にきれなかったと言って、ここにいる。
ルイフィリアはそれを見て、大きなため息をついた。
「……本当はお前が騎士団長をすべきだと、俺は今でも思っているよ」
「騎士団長は、代々グラース家の血筋と決まっております。それに、私は年を取りすぎました」
「……そうだな。父の年を越えてしまったか」
「はい。一昨年」
「では、お前は俺の父の代わりとして、ここにいろ。戦場で死ねなかったのならば、これからは俺とセシリアの為に死ねばいい」
「酷いお言葉です。大旦那様が聞かれたら、お怒りになる」
「死人に口なし。まあ、父が本気で怒ったなら、母が止めに入ってくれるさ」
うっすらと、ルイフィリアは笑む。
奇想天外、奇抜な母。
赤毛に緑の瞳。
自分はその一切を受け継がなかった。
でも、心はあの人の息子である、と彼は常に思う。
そして、妻となる女性にもそれだけの自由さを与えたい。
父が母を自由にさせたように。
「坊ちゃま」
「どうした」
「よい奥様をお見つけになられました」
「馴れ初めは聞くなよ。アイツにもまだ話していない」
恥ずかしそうに、ルイフィリアは外を見た。
天気が悪いのか、と思ってしまう。
あの薄暗い雲は、少しだけ戦場に似ていたからだ。
「あの雲は……」
嫌な雲だ、と彼はよく知っていた。
◇◇◇
妹が眠っているのを確認した。
うん、大丈夫そうだ。
私はそれがはっきりとしてから、ティーセットを持って部屋を出る。
魔女はやはり妹の中にいるのだろうか。
あんなに恐ろしいものを見たのは、いえ、感じたのは正直初めてじゃない。
あれは私が死んだ時の、あの瞬間の苦しみとよく似ていた。
とてもよく似ているのだ。
ティーセットがカタカタと音を鳴らし、私は震える。
あの時と同じ感覚がするなんて、変な感じ。
もしかしたら、魔女は妹を使って私さえも殺そうとしている?
でもそうよね、私だってグラース家に正式に嫁げば、グラース家の人間になるんだから。
厨房にティーセットを戻そうとして、ドアを開こうとしたら、隙間からメイドたちの話し声が聞こえた。
アリシアの話だった。
「アリシア様って、最近ますますおかしくなったわよねぇ」
「ええ。セシリア様がいた時は、ちょっと可愛い子ぶっているかな、猫かぶってるかなってくらいだったのに」
「ほんっと、最近の口ぶりは悪女よ、悪女!」
「メイド友達から聞いたんだけれど、□□家のお嬢様も、結婚が破談になって、大荒れしてるんですって」
「私も聞いたわ。破談になってから、ドレスは破るし、物は投げつけるし、暴言もすごいって」
アリシアがおかしい?
何があったというの?
私の頭の中は混乱だらけ。
そんなはずない。
あの子はいい子だ。
あの子はーーー
「はあ、お嫁に行くならアリシア様が行けばよかったのに」
「そうよね。セシリア様は優しくて気づいかいもできる、いいお嬢様だったもの」
「うんうん。まあちょっと赤毛ってのは令嬢にしては安っぽく見えるけどねぇ」
やや、や、安っぽい赤毛で悪かったわね!?
この赤毛は転生した時にもれなく?ついてきた、副産物みたいな、そんなものよ!
少しメイドたちを叱ろうと思った時、メイドたちは急に大人しくなった。
「給金の高かった先輩たちは、みんなクビにされちゃったしさ。ウォーレンス家もどうなるんだろ……」
「旦那様も言っていたけど、坊ちゃまがセシリア様くらい頭がよくって、しっかりしてたらって言っていたわ」
「そりゃそうよ。坊ちゃまはダメ男じゃない。それに比べてセシリア様は私たちにも優しいし、自分で何でもされるし、旦那様にいいご意見を言っては、それが成功して、お金が入ったのも聞いたわよ」
「事業の幾つかは、セシリア様のご意見がもとになってるらしいんでしょ?凄いわよねぇ」
な、何の話だ……。
私は養女だから、父にそんな意見をしたことはないはず。
いや、ちょっとくらいアドバイスをしたことはあったかも。
貴族って立場上、あまりお客さんのことを考えないことが多かったから、老舗旅館の掟を改良して伝えたこととかはあったっけ……。
でも、長く雇っていたメイドたちをクビにしたのは知らなかった。
あの人たちがいなかったら、家のことが回らなくなることくらい、父は理解できなかったのだろうか?
確かに、私が帰り着いてからメイド長の顔を見ていないと思った。
辞めさせられていたのね……。
あんなに優秀な人たちを辞めさせるなんて、父はなんて馬鹿なのかしら。
きっと給金が高い順番に、辞めさせる魂胆なんだろう。
そんなに、家が傾いているというのに、どうして何も手立てができないの?
ティーセットが今までとは違う意味で、カタカタ音を立て始めた。
私は、父と兄がもっと経営の勉強をすべきだと思う。
出せば売れる、仕入れれば倍で売れる、なんて、夢物語だ。
もっと買い手の心境を考え、上手に立ち回って、商売をしなきゃいけない。
確かに、最近の買い付けは兄がしていたから、失敗続きだったのだろう。
あの人は、相手の欲しいものが理解できない馬鹿だからだ。
そんなことを考えれば、考えるほど、ルイが言っていたことでの上手い事業が思いついてしまう。
菓子やパンは大量生産もできず、日持ちもしない。
でも同時に、それはこの国の基本的な家庭ならばどこでもそうなのだ。
毎日新しいものを入れておかねば、飢えてしまう。
だから、少しでも日持ちするように黒くて固いパンや焼き菓子が中心になる。
でも、それなら材料の販売ルートを確立したり、品物を良質で安価に提供することができるようになれば、一般家庭でも買い手がつく。
同じ黒くて固いパンでも、美味いものの方が売れる。
それを確実に作り上げ、最終的にはレシピを売ることもできるだろう。
「フランチャイズ展開も夢じゃないかも……」
私は久しぶりに、転生前の言葉を口にしたような気がした。