抱き着かれた私は、返事に戸惑った。
もう私の中には、ルイがいたからだ。
そのことに気づいてしまって、正直驚いたくらいである。
妹の金髪が、彼と重なる。
彼の金髪はもっと荒れていて、本当はもっと手入れをすればいいのに、と何度も思った。
でも戦場に出て、雨風にさらされる彼の場合、どんなに手入れをしてもこの程度なのだという。
手入れが行き届いている妹の髪を撫で、私は迎えに行く、と言ってくれたルイの顔を思い出した。
そしてペンダントを渡してくれたことも。
彼は、私をちゃんと妻にするつもりがあるのだ。
だから、私はそれに答えねばならない。
でも結婚の日取りは、国王の日取りだから変更はできない。
愛しい妹からのお願いでも、私はもう。
もう、1人じゃないんだ。
グラース家を離れたからこそ、グラース家に迎え入れられた意味を理解した。
私はもうあの家族の一員で、ルイの妻なのである。
あの赤い瞳が、私を見つめる。
私に自由をくれた人。
ジワリと目元に涙が浮かぶ。
「お姉様……?」
「あ、やだ、私」
「お姉様、疲れていらっしゃるのね、涙が出てます」
「本当、嫌だわ、ごめんね、アリシア。私、お菓子を持たせてもらったのよ。お茶を持ってくるから、一緒にいただきましょう」
目を強くこすり、私はアリシアに何とか笑顔を見せた。
お茶を持ってくると言って、部屋を出る。
部屋のドアが閉まるとき、妹がどんな顔をしていたのかは見ることがなかった。
マリアさんの持たせてくれたお菓子を広げ、どれも妹が喜ぶものばかりだなぁ、と嬉しくなる。
これにとっておきの紅茶を淹れれば、完璧だ。
アリシアの怪我はとても心配だったけれど、今のところは命に関わることはなさそうだったから、よかった。
心配で心配で、慌てて出てきてしまったけれど、明日にでもルイに手紙を書いて、無事を伝えようと思った。
彼が妹のことを聞いても、なんというかわからないけれど、私はそれでも今のことをルイにきちんと伝えなければいけない。
温かい紅茶と美味しそうなお菓子を持って、妹の部屋に戻る。
妹は、メイドを呼びつけていて、何か話をしているようだった。
何かあったのか、と思って部屋に入ると、青い顔をしたメイドが立っている。
「アリシア、どうしたの?」
「お姉様!」
「ほら、紅茶を持って……」
「お姉様が帰ってこられたのだから、部屋の掃除を今まで以上にするよう言いつけました!」
「え、あ……」
満面の笑みでアリシアは言い、私は少し戸惑った。
今までそういった指示をこの子が出したことはない。
少し震えるような様子で、メイドは慌てて部屋を出ていく。
「躾のなっていないメイドで、お恥ずかしいですわ」
「アリシア?」
「お姉様はお嫁に行ったからとか、どうのこうのと理由をつけて、掃除に手抜きをした言い訳ばかりするんです」
「そ、そんなこと、させなくていいわ!どうしたの、アリシア?」
私はティーセットをテーブルに置いて、妹に駆け寄った。
妹を抱きしめて、その頭を撫でる。
「寂しかったのね。私は大丈夫よ、あなたに会えただけで十分なんだから」
「お姉様……」
「あなたが無事でよかった。あなたの無事を明日にはルイに伝えるから、きっと安心すると思う」
「それは、安心したらすぐにお姉様が帰ってくると思っているからでしょう?」
小さな子どもだと思っていた目が、クッと睨むように力が入る。
え、こんな目をする子だった?
こ、こ、こんな目は、初めて見るんですけど?
アリシアは私に縋って、放そうとしない。
とても強い力で握りしめられて、私のスカートが破れそうだ。
「アリシア、ど、どうしたの?」
「先ほども申し上げました!お姉様には帰ってきていただきたいんです!」
「でも、それは……もう、私がグラース家に嫁ぐことは決まったことよ」
「決まったことでも許せません!グラース様は騎士団長、これからも戦場に行くのでしょう!そんな殿方の相手にお姉様は勿体ないと思います!」
褒められているような気もするけれど、今更決まった結婚を破棄することなど、こちらの立場から言えるはずがない。
グラース家はうちよりも明らかに、身分が上なのだ。
その上、傾いたこの家を支援してくれる。
私が嫁ぐだけで、たくさんのメリットがあるのだから、受け入れる他ないだろう。
「どうせ、お姉様を飾りのようにしか思っていないんですわ、グラス様は……!」
「なんてことを言うの!アリシア!」
「あの冷たい赤い目を見ましたか!?アレは血の色です!戦場で染みついた色に違いありません!」
「おやめなさい、アリシア!人のことをそんな風に言うものではありません!騎士団はこの国を必死に守っているんです!」
私は、初めて妹の頬を打とうとした。
かつて、私がそう育てられたから。
口ごたえするな、と打たれて育ったことが脳裏に浮かび、私は寸ででその手を止めた。
暴力はいけない。
駄目よ、こんなことは教育でもなければ、愛情でもない。
打たれる、とアリシアも思ったのだろう。
そうされなかったことに驚いて、目を丸くしている。
「どうして、打たないんですか、お姉様……」
「打っても、いいことなんて、ないからよ」
「どうして、お姉様はそんなに強いんですか……?」
「私は強くなどないの。ただ必死なだけよ」
「お姉様は、昔から……変わらない……!!」
アリシアは声を上げて泣き出した。
今までとは違う、大きな声だ。
こんなに泣く姿を見たことはない。
そのうち、妹は目元を腫らして泣き疲れて眠ってしまった。
妹を寝かしつけ、私はぬるくなった紅茶を飲む。
温かければ、もっと香りが立って美味しいはずなのに、ぬるくて、ぬるくて、美味しくない。
アリシアだって、ずっと我慢していたのかもしれない。
この子も貴族の娘だ。
若いとはいえ、いいことも悪いことも、耳に入るはず。
世間のグラース家に対する評価は、賛否両論。
歴代騎士団長を務めることにひがむ者もいれば、国を守る大事な存在だと尊敬する者もいる。
戦場がなければ生きていけない家だと蔑まされることも多く、どこの令嬢もあの家だけには行きたくない、というほど。
きっと、そんな悪い噂を耳にしてしまったのだろう。
姉の嫁ぎ先がそんなところならば、この子だってどこかで後ろ指をさされているかもしれない。
そんなことがあって、辛かったのかもしれない。
私は自分が嫁ぐことで、妹がどうなるかを想像できていなかった。
ごめんね、アリシア。
私、やっぱり。
そう思った時、胸のペンダントが熱くなった気がした。
その熱さを感じた時に、ルイの顔が浮かぶ。
私を待っていてくれる人。
私の夫になる人。
一度決めたことだ、今更結婚を白紙に戻してくれなど、泣き言は言わない。
アリシアにもちゃんと言い聞かせて、納得させよう。
「アリシア、私は大丈夫よ。だからあなたもきっと……」
王子と出会って、幸せになれる。
その日が来れば、お姉ちゃんがいなくたって大丈夫だったって思えるようになるはず。
少し寂しいけれど、そんなものよ。
眠る妹の頭を優しく撫でて、私は思った。
この子だって、いつかは嫁いでいくのだから、いつまでも姉のことばかり考えているわけじゃない。
そのうち、兄だって(運よく)どこかから素敵な人を連れてくるはず。
それが貴族の家の普通。
それがこの世界の普通。
普通に生きていこう、そうすれば、きっとみんなハッピーエンドよ。
赤毛のアンみたいに、ちょっとお転婆で、元気がよくて、前向きに生きていれば大丈夫。
「お茶、一度片付けてくるわね」
そう言って、私は立ち上がる。
妹に背を向けた時、妹ではない声を聞いた。
その目は、私を睨みつけ、低い声で私に言う。
「ゼッタイニ、ハナサナイ……!!」
その目は妹ではなかった。
これが妹の中にいる、魔女。
私は、恐怖を感じながらもその存在に叫ぶ。
「妹から出て行って!」
私が叫ぶと、アリシアはまたベッドに倒れて眠りについた。
魔女の存在を目の前に感じて、足がすくむ。
ルイ。
これがあなたが命を懸けて、殺そうとしている存在なのね。
初めて、彼の苦悩の一片を知った気がした。