妹のことばかりを考えてしまうけれど、妹はもともと私の推しだから仕方ないわよね。
そんなことを思いながら、まだ温かいクランベリーパイを持って歩き続ける。
廊下の先にあるルイの部屋に来て、ドアをノックしようとした時、ルイの声が聞こえてきた。
ノックをしようとした手が、ピタリと自動的に止まってしまう。
彼はハンスと何か話をしているようだった。
このパターンは嫌な話だなぁ、と思う。
いつもそうだ。
私がお嫁に行く前も、父と兄がこうやって話をしていた。
そこに出くわしてしまったから、もう結婚の話から逃げられなくなってしまったのである。
「ハンス、お前はこれを見てどう思う」
「どうと言われましても、私からは意見など言える立場ではございません」
「シシィの家の話だ。結婚に関し、まとまった額を渡すとは言ったが、それでもこの負債は酷いものだ。騎士団の俺でも分かる」
「これは噂でございますが、家督を継ぐ予定の長男様が、あまり事業には向かないお人柄とのことで」
「人としては悪い奴じゃないんだがな、商才に関してからっきしというのも、どうかと思うぞ」
「ご支援されるおつもりですか?」
「シシィの家だ。……家族のいない俺にとっては、家族も同じだからな」
「坊ちゃま……」
ルイの声は、決して明るいものとは言えなかった。
でも彼が負債を抱える私の家を助けようとしてくれていることを知ってしまい、私は困り果てる。
どうしよう。
兄は悪く言えば馬鹿で、よく言えばお人よしだ。
事業なんて向いていないし、経営のイロハも分かっていない。
父が教えていないわけではないのだけれど、駄目なのだ。
アレはマジで才能がないってヤツ。
立っているだけならモデルか彫刻か、と思ってしまうくらいのきれいな人なのに、商売になると駄目すぎて泣けてくる。
父が頭を抱えるくらいに商売の才能がない男が、私の兄であり、いずれは家督を継がねばならない人だった。
パイを持つ手が震えてくる。
事業は、ウォーレンス家が長年取り計らって来たものもあれば、父が一代で起こしたものもある。
私はちょっとした興味本位で、少しばかり知っているけれど、それでも兄よりマシというのだから、兄の才能のなさには心底、驚きだ。
あの人、毎日何をしているんだろう?と子どもの頃に思ったことが何度もある。
兄は、アリシアと同じ金色の髪に青い瞳。
2人が並べば、兄妹だとすぐにわかるくらい。
アリシアは私が教育したことと、もとから聡明な子だったから、いい子に育った。
しかし兄は、まるで金色の毛をした小型犬が悠々と散歩しているかのような印象しか受けない人なのである。
何度かどこぞのご令嬢をお茶にお誘いしたと聞いたが、つまらなかったのか長続きせず、家が傾き始めてからはついにお誘いさえお断りされるほどになっていた。
普通、令嬢はお誘いがあればお断りなんてするはずがない。
年頃だったり、そろそろ結婚を考える女の子は皆、見目が麗しい男性が自分をお茶やダンスに誘ってくれるのを待っている。
私はそんな茶番が嫌いだったから、冷めた態度を取っていたら、兄とは違う意味で、お声がかからなくなった。
と、まあ、兄妹そろって、変わり者だったのだけれど、私は結婚が決まった。
でもその理由は、グラース家からの資金援助が大半というか、それしか目的がなかったようである。
それだけ、私の家は苦しい状況であり、詳しく調べたルイさえ悩ませてしまうほどなのだ。
もっと上手くやれるだろう、と誰もが言いたくなるだろう。
でも、できなかった。
それが現実。
ルイの言うとおり、騎士団の人間にでもうちの負債の大きさが分かってしまう。
(騎士団を馬鹿にしているのではなく、騎士団は商売人ではないって意味よ)
そして兄の馬鹿な噂が回っているなんて。
ショックすぎ。
「セシリア、いつまでもそこで話を聞いているんじゃない。入るなら入れ」
「え、あ、はい……」
ルイは私がドアの前にいることに、気づいていたようだ。
さすがは、騎士団長。
私の気配くらい、すぐに分かってしまうのかな。
すごいな、と思いつつ、私は静かに部屋に入った。
「お前に、こんな話を聞かせたかったわけじゃないんだがな」
ルイはそう言いながら、ため息をついて机にいた。
横に立つハンスも少し困った様子である。
「あ、あの、実家のことで、ご迷惑を……」
「元々結婚をする時にいくらかは準備するつもりでいたが、調べを進めるとかなりの事業が傾いているようだぞ」
「あ、兄は、その、兄は、ちょっと馬鹿で」
「それは知っている。アイツは悪い奴じゃないが、馬鹿な男だからな」
本人のいないところで、馬鹿馬鹿と言われている兄。
あの兄がもう少ししっかりしているのなら、こんな心配もいらないのに。
私は恥ずかしくなってしまい、パイを持ったまま俯いた。
「おい、何を持っているんだ?」
「クランベリーパイです」
「そうか。ハンス、茶を準備しろ」
「かしこまりました」
ルイはクランベリーパイが、本当に好きなのだろう。
それはちゃんと受け取って、お茶が来るのを待っていた。
私はソファーで小さくなっている。
恥ずかしい。
嫁に行く先で、実家の不貞を知らされた気分だ。
今回は不貞ではなく、負債かな。
家は傾いているのに、父や兄は軌道修正ができない。
そして、貴族の家は没落するその寸前まで、その生活様式を変えることができないのだろう。
メイドがいなければ料理も掃除もできない。
庭師を雇って手入れをさせて、馬車には専属人を雇い、同等の家に声をかけてお茶会を開き、夜はパーティーに参加する。
お茶会やパーティーの度に違うドレスを着ていなければ、笑われるどころか、頭がおかしい人間だと思われてしまう世界。
本で読んでいた頃は、輝くようなドレスに宝石、美しいお庭でのお茶会や招待状まで配られるパーティーにあこがれていた。
でも今は、それが大嫌いで、面倒臭くて、馬に乗って遠出する方が好き。
本で読むのと、実際に体験するのでは、こんなに体感が違うのだと知った赤毛のアンは、落胆して、大人になっている。
「そう小さくなるな、セシリア。お前のせいではない」
「そ、そうですが……」
「今日のパイはいつもと味が違うな」
「砂糖と粉の配分を変えたので……」
「これは美味い」
「できるだけ軽い食感になるようにしていて……」
「まだあるのか?」
「多めに作れるように、分量も計算していて……」
俯く私。
頭の中は傾く実家と、それをどうにかしようと奮闘する私と、クランベリーパイのことだけだった。
だから、ルイが望むことにちゃんと返答ができておらず、ハンスが声をかけてくれる。
「奥様、旦那様よりクランベリーパイの残りはあるのかと、聞かれております。残りはございますか?」
ハンスに聞かれて、私はやっと顔を上げた。
パイ?
あ、パイの話をしていんだっけ?
え、おかわりが欲しいの?
「あ、ありますけど」
「では、私が持って参ります」
「は、はあ……」
ハンスは颯爽と部屋を出て行った。
残された私は満足そうにパイを食べて、お茶を飲んでいるルイを見る。
彼は子どものような顔で、紅茶を飲んでいるではないか。
「あの、パイが好きなんですか」
「いや、クランベリーパイが好きなんだ」
「クランベリーパイ限定……」
「以前から思っていたが、お前には調理の才能があるな」
「その、そういったことが好きなので、昔から色々と」
ふむ、とルイが言った顔は、明るかった。
「俺は、女だろうが何だろうが、働ける者は働くべきだと思っている」
「は、はい……それは同感です」
「つまり、それは妻だろうが夫だろうが、関係がない」
つまり扶養の控除は受けられない、ということだろうか?
つい税金のことをが頭をよぎる。
昔、といっても前の世界でのこと。
日本での税金対策のことが、浮かんでしまう。
「シシィ、お前、仕事をしてみるか?」
まさか。
転生してもなお、私は働かねばならない運命なのか!?