マリアさんが食器を下げに来る。
「大奥様は、大旦那様がどこで見つけてきたのか分からない女性だったんですよ」
「あー、えっと、ルイのお母様のことですか?」
「そう。あの頃は私も若かったからねぇ。大旦那様が異国で見つけてきた女の子を娶ったって、噂になって」
「異国……」
「同時にそれは魔女の再来。その後すぐに大奥様のお姉様が魔女として覚醒してしまわれて」
「え、魔女って覚醒するんですか?そういう感じなんですか?」
マリアさんの話では、魔女は転生してすぐに魔女としての能力を発揮できるわけではないらしい。
魂が傷ついていたり、転生した肉体の成長を待って、覚醒するという流れ。
じゃあ、その覚醒を止めればなんとかなるかもしれない?
「奥様、坊ちゃまを責めないであげてくださいね。そういう役目を持って生まれてしまっただけですから」
「それは……」
「騎士団はそういう使命を全うするために、みんな集まってくるんです。いつまで経ってもその気持ちは変わりません」
「そうなんですか……」
私にとって、魔女とか魔法とか、無縁の世界に生きていたのでよく分からない。
でも、可愛い妹が魔女として覚醒し、悪女になってしまったなら、どうなるのか。
世界の破滅?
この『本』はどうしてそんなストーリーに変わってしまったの?
「でも、あれでも坊ちゃまは奥様を気に入っていますよ。今まで女っ気の一切なかった人なんです」
「そう言えば、ルイはお幾つなんですか?若い見た目とは思いますが、男性に年齢を尋ねるのは不躾かと」
「坊ちゃまはそうですね、今度の夏で28ですよ。結婚適齢期なんて、とっくの昔に過ぎてます」
ふふと笑うマリアさんは、まるでお母さんというイメージだった。
幸せな家族を知らない私。
大事な家族を失ったルイ。
目的のための結婚。
でもその目的は、私の妹が大きく関わっている。
マリアさんは寝る前にハーブティーを持ってきてくれると、約束してくれた。
私は部屋に戻り、髪を下ろす。
異世界の赤毛のアン。
どうしてこんなことになってしまったの?
長くなった赤い髪にブラシをあてて、日本でのことを少し思い出した。
あの頃の私は、黒い髪のストレート。
まるで日本人形のような、そんな女の子だった。
旅館の跡取り娘だからと、色々なところで陰口も言われ、悔しくても我慢した。
悔しくても、それは変えられない事実だったから。
あの時とはまるで見た目が違うけど、18年も経ってしまえば、記憶も薄れてくるものだ。
「私、どんな顔、してたかな……」
鏡に映るのは赤い髪の女の子。
異世界の赤毛のアンは、これからどうなっていくのだろうか。
無事に結婚できるのかなぁ。
帰る家はないんだぞ?
寝巻に着替えたところへ、マリアさんがハーブティーを持ってきてくれた。
庭で取れたハーブを使っているというから、今度庭を見せてもらおうと思う。
ハーブティーを飲んだら、もう寝よう。
明日は早い。
朝が来れば、また子どもたちがやってくる。
食事の準備と、読み書きの準備をしなければ。
そこまで思うと、自然に瞼が落ちていった。
夢の中で可愛い妹と一緒に過ごしている場面が見えた。
美しい金色の髪を梳いて、お花畑で過ごすのだ。
私を呼ぶあの子の声が、透き通って聞こえる。
私を呼ぶ声?
いや、この声は。
「奥様!大丈夫ですか?」
そこにいたのはマリアさんだった。
寝坊したのかと思って飛び起きれば、まだ朝日が上がったばかりの頃。
いつもよりも早い起床に驚く。
「声がしましたよ」
「こ、え?」
「はい。笑っておられるお声だったので、夢でも見ておられると思ったのですが、気になってしまって」
「そうだったの、ごめんなさい。仕事の邪魔をしてしまいましたね」
「いいえ。私の仕事はこれからですから」
微笑むマリアさんに浮かんだシワは、彼女の苦労の証だろう。
でもそんなことを感じさせないくらいに、彼女はしっかりとしていた。
ふと思うが、この屋敷には執事とメイドの数が少なくないか。
主に動いているのはハンスとマリアさんくらいで、他に数人いるかいないかというところだ。
確かに、そもそもルイしかいなかった屋敷だから、多くを雇わなくてもいいと判断しているのかもしれないけれど。
「奥様、もう少し休まれますか?それともお茶を持ってまいりましょうか?」
「起きます。私もマリアさんをお手伝いします」
「いえ、そんな」
「子どもたちの分まで準備がいるでしょう?人手は多い方がいいですよ」
私は颯爽と起き上がり、さっさと着替えを済ませてマリアさんの後を追った。
厨房はもう火が起こしてあって、温かい。
春の始まりが見えているとはいえ、今の季節はまだ冷える。
「奥様、本日の朝食はジャガイモのスープにしますね」
「肉や魚がもう少し安価で手に入るといいんだけれど」
「そうですねぇ。川魚は手に入りますが、泥を吐かせるのに時間がかかりますし」
「泥が抜けてないと臭くて食べれないものね」
2人でそんな会話を繰り返しながら、私は外の様子をうかがった。
ルイはすでに起きていて、ラフな白いシャツにパンツ姿だ。
足が長いなぁと、呑気に思いながらパンをカゴに詰めていく。
黒いパンは安価で栄養価が高い。
でもあんまり美味しいものでもない。
要は雑穀が中心の黒いパンなのである。
マリアさんはこのパンを焼くのが上手かった。
「マリアさん、黒いパンって小麦はどうしているんですか?」
「実は、農家から買い付けていますけど、雑穀は安いんですよ。人気がなくて」
「調理法が限られていますもんね。でもどうしてマリアさんはこれをパンに?」
「大奥様が教えてくださったんです。黒いパンは栄養価が高いけれど、美味しくないと」
美味しくないパン。
でも栄養は豊富。
美味しく作れれば、うちの実家でも売れないかしら。
うちの実家は輸入貿易を中心に手を出していたから、兄が失敗したのだ。
そんな難しいことをするよりも、国内で手に入るものを作って売るというのは、この世界では流行りそうなのに。
「奥様?」
「あ。はい」
「どうしました?ご気分でもすぐれませんか」
「いえ、大丈夫。この黒いパンを美味しくできないかなと、考えていたんです。でも私は固いから好きなんですけど」
「なかなか合う酵母がないんですよね。そこが問題じゃないでしょうか」
そうか、パンってそういう仕組みか。
日本みたいにドライイーストがあるわけじゃなくて、天然酵母なんだ。
天然酵母ならなおさら栄養価は高い。
むむ、どうにかして売れないかなぁ。
私は作業を続けながら様々なことを考えた。
天然酵母を作るのは時間がかかる。
それも含めると効率的に動かせる場所や人間が必要だ。
今から工場を作るのは大変だし。
「でも女性が働ける方が効率がいい……」
旅館でも確かに男性より女性が圧倒的によく働いた。
綺麗な料理を作るのは板前の仕事でも、接客や下準備、買い付けなどは女性でもできる。
だが、この世界の女性はとにかく忙しいのだ。
朝早くから畑に出たり、飼っている牛や馬の世話がある。
そして子だくさんだから、子どもの面倒を見るのが大変。
特に若い母親は初めての育児と次の子の妊娠が重なるくらいに、出産のスピードが速い。
それでも働こうとする。
「働き者すぎよね」
そんなことを考えながら、私は朝食の準備を済ませ、子どもたちの元へ行った。