「お姉様」
そう呼ばれた時、私はハッとして顔を上げた。
ついつい荷造りするのに熱中してしまっていたようね。
荷造りするほどのものが、いっぱいあるわけでもないのに。
「お姉様」
もう一度呼ばれて顔をあげると、そこには金色の髪に青い瞳を持った妹がいた。
なんてかわいい子。
『初めて』見た時から、この子のことをずっとずっと可愛いと思っていた。
ううん、私の憧れ。
なりたい私の姿は、この子だった。
そんなこの子が私を姉と呼ぶ。
何があったのか。
何が起こったのか。
それを説明するには、クッキーをたくさん焼いて、紅茶もいっぱいミルクを入れないと間に合わない。
「どうしたの、アリシア」
「お姉様、本当に明日、騎士団長様のところに行ってしまうのですか?」
「ええ。挙式は来月だけれど、もう一緒に暮らすことになったの。説明したでしょう」
「そうですけれど……」
今にもこぼれそうな瞳。
美しくて、目の中に空があるみたいだと、何度思ったことか。
私は自分の荷物をグッと鞄に押し込んで、ベッドに置く。
妹へ振り返り、笑顔で言った。
「今日は特別にレモンケーキを焼いているのよ」
「お姉様のレモンケーキ?」
「そうよ。あなたの大好物」
「私はお姉様が作ったものならなんでも大好きです!」
かわいいことを言って、妹は私に抱きついてきた。
温かくて小さくて。
柔らかくていい匂い。
『本』の中からは伝わることのなかったこの感覚を、忘れたくない。
抱きしめた妹と一緒に、ティータイムにしよう。
そして、ゆっくりと『私』に何が起きたのかを思い出そう。
今日のティータイムには新鮮な卵を使ったレモンケーキを焼いた。
レモンの果汁とレモンの皮を使ったこのケーキは、甘くて美味しいのに爽やかなのだ。
レモンの皮は薄切りにして細かく砕き、上に散らす。
見た目もきれいで、香りもいい。
初めて作った時は薄く輪切りにしたレモンを載せてしまったから、アリシアがかぶりついて泣いていた。
酸味が強かったのだろう。
それ以来、私は必ずレモンの皮だけを薄く切り取って、さらに砕いて載せることにした。
すべては妹のため。
愛する妹のため。
美味しそうに私の作ったケーキを食べる妹は可愛らしかった。
紅茶もいい温度で抽出できているし、自分で自分を褒めたいくらい。
目の前にいる妹は、アリシア・ウォーレンス。
金髪に青い瞳、白い肌を持った、この『本』の主人公である。
ここは『本の世界』つまり、私は今、『本の中』で生きているのだ。
私の名前はセシリア・ウォーレンス。
このウォーレンス家の長女であり、養女でもある。
なかなか女の子の生まれなかった母が、どうしてもと願って孤児院から引き取ってくれたのが2歳の頃。
それから数年して奇跡的にアリシアが生まれた。
私の上には5歳離れた兄がいるが、この兄は見た目は悪くないものの(この人はアリシアと血が繋がっているから、見た目が悪いはずがない)間が抜けているというか、あまり才覚のはっきりしない兄だった。
遊んでいるわけでもないのに、遊んでいるように見えるような、なんとも言えない人なのである。
そんな兄と妹に挟まれて、私は養女でありながらずっとこの家に置いてもらえた。
ただ、それが『この本にとってイレギュラーなこと』であるという認識はある。
それに気づいたのがアリシアが生まれた時だ。
それまでは特に変わったことなどなく生きていたのだが、あの子が生まれた瞬間に私はすべてを思い出したのである。
『私は、この世界の人間じゃない』
『この世界は、私が読んでいた本の世界だ』
それを思い出したというか、なんというか。
幼心にまさかこんなことが起きるなんてと、思っていたのである。
かつて私は、老舗旅館の跡取り娘だった。
旅館は本当に老舗で、簡単に予約が取れないと有名だったし、一度の宿泊が何万円という世界の旅館だ。
でもそこで生まれた私は、旅館の湯船に入ることも許されず、豪華な料理を口に入れることも許されずに育った。
跡取り娘だからと言って甘やかされることは一切なく、むしろなんで娘なんだと祖母からは大きなため息と、失敗すれば酷く打たれることばかり。
娘ですと、自分から言わなければまるで仲居さんと同じ格好。
でもそれは母も同じだったろうに、祖母は次も女かと言って、私のことをとても厳しく躾けてばかりだった。
母は老舗旅館の娘として生まれたけれど、器量はいいし、美人だし、仕事もできて、とにかく人当たりがいい。
お客さんの中には母を目当てで来る人もいるくらいの、そんな美人だった。
カエルの子はカエルなんじゃないのか。
いい意味でも、悪い意味でも。
でも、私はまるで白鳥がヒキガエルを生んだかのような扱いだった。
実の娘だよね、と何度も疑ったくらいである。
母は、祖母が私に厳しくするのを当たり前のように見ていたし、婿養子に来た父はかつてホテルの経営をしていたというので、旅館の経営にしか興味がない。
娘である私が打たれようとも、朝の四時に叩き起こされようとも気にしない人だった。
血が繋がっている家族なのに、いびつ。
血が繋がっているはずなのに、疑う。
学生の頃から学校が終われば、友達と遊ぶことも許されなかった。
仲居さんと同じように仕事をこなし、タダ働き。
今思えば、バイト代くらいお小遣いでくれてもよかったんじゃないか、と思ってしまう。
あの頃の私の名前は『東堂ひばり』
名前負けしてしまっている、昭和の歌姫と同じ名前。
なんでそんな名前をつけたんだかと、死んだ祖父の墓前で呟いたこともある。
祖父は孫娘が生まれてからすぐに、事故で他界した。
それ以来、あの場所は家でもなければ居場所でもない。
私はそんな場所で育って―――死んだのだ。