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第44話 Be The One

「ッ……!」


 強く、強く。

 奥歯が悲鳴を上げ、純白に亀裂が走るのではと錯覚する程に強く、噛み締める。

 その気になれば殺害すらも叶うが、敢えてトドメを刺しはしない。配慮という名の傲慢を、よりにもよって偶発的にダンジョンへ潜ったに過ぎない少女にかけられた事実が、加古川の怒髪天を容易く突破する。

 曲がりなりにも一級の冠を掲げた自身が、階級すらも持たない存在に。

 強く、強く。

 自壊しかねない程に力強く、義腕を握り締める。

 未だ過負荷向上限界超越を起動させていないにも関わらず、単に頭へ上り激しく渦を巻く血液が、血管が焼け爛れる速度域で暴れ狂い、体温を上昇させた。

 活火山で半身浴を行うにも等しい熱の中、漆黒の双眸で魔物の奥に控えた闇の聖女を凝視する。


「助ける価値ならあんだよ……テメェを助けるために使った回復薬の分がよぉ……!」


 そして自らの価値を勝手に定め、貸しをなかった事にする態度こそ、加古川にとって唾棄すべき激情の始点。


「まだそれいうの……?」

「あったり前だろ、ゴラァッ。

 上等だ……そのふざけたローブ引っぺがして、引き摺ってでも帰ってやるよボケがッ!!!」


 震脚。

 大地を震撼させる衝撃を打ち鳴らし、腰を低く構える。

 体内に蓄積した熱を吐き出して義腕を高く掲げると、自身の肉体で抑え切れなくなった高揚が武者震いを誘発。

 堪える努力をとうの昔に放棄した少年は、白髪を乱して声を荒げた。


「元一級冒険者の力、お見せしてやんよッ!!!」


 激した感情のまま、少年は蘇った魔物達へ駆け出した。


「……この、分からず屋」


 寂しげに、振り絞るように呟かれた少女の言葉になど耳を貸すことはない。

 固く握り締めた義腕が唸りを上げて咆哮し、直線状のウェアウルフを微塵に砕く。

 空いた左手に握られたナイフが剣閃を描き、軌道上で今まさに得物を振るおうとしたゴブリンの喉元を一足先に掻っ切る。

 眼前の二体を撃破し、素早くサイドステップを刻むと半瞬遅れた上段斬りが空を薙ぐ。死角を突いたはずの一撃を回避され、動揺するゴブリンの頭部へ反撃の刺突を繰り出し、更に回避。

 霧散するゴブリンの奥より姿を現したのは、鋭利な爪牙をぎらつかせるウェアウルフ。

 屈強なる体躯を支える脚部が折り曲げられ、断末魔の叫びを上げる地面には目もくれずに跳躍すると、四方を魔物に囲まれた少年の頭上を取った。

 しかし、僅かに遅れた一撃は獲物の首級を掲げる好機を永遠に手放すことになり、代替として振るわれたナイフが自らの体毛を朱に染め上げる。追撃と言わんばかりの拳を受け止め切れるはずもなく、天井付近まで浮上した肉体は霧散し、辺りに血の雨ならぬ紫の霧を撒き散らす羽目となった。

 一分にも満たぬ時間で大規模な損害を受けた魔物の軍勢。


「魔軍掌握・業……無駄なんだって、幾ら魔物を倒した所で」


 だが、彼らの補給線は魔素。故に伊織の手一つで容易に戦線は維持、強化が果たされる。

 舞い散る魔素が収束し、誕生の産声を鳴らすゴブリンやウェアウルフの数は計り知れない。

 ダンジョンという魔素の充満した空間、それも沈殿する最下層ともなれば復活の猶予も皆無。消費を上回る速度で生成して磨り潰す、軍人であらば無能極まりない策すらも可能とする。


「ハッ、無駄だと」


 彼女の主張を鼻で笑い、加古川は義腕で快音を轟かせた。

 何が可笑しいのか。皆目見当がつかないと首を傾げる少女へ向け、少年は白髪を揺らしながら口を開く。


「だったら、なんで泣いてんだ? 無駄なんだろ、これ。もっと無表情でいろよ」

「えッ?」


 加古川の言葉に動揺し、伊織は思わず目元に振れた。

 彼の主張は正しく、事実として指先には濡れた感触が帰ってくる。


「なん、で……違う、僕は泣いてなんかッ……!」

「そもそもお前は誰なんだッ。飛田貫伊織か一人か、それとも全く知らねぇ第三者か?!」

「だから何度もそれは……!」


 伊織は辟易したものを覚えつつ、何度も繰り返された回答を述べかけた。

 僕は伊織。飛田貫伊織であり、高校で魔狼に喰われた愚鈍な女こそが飛田貫一人であると、揺るがぬ主張を繰り返す。

 はずであった所へ、加古川は割り込む。


「よく考えて答えろよ。カルト宗教に手を貸した大馬鹿野郎のことを聞いてんだからなぁッ?!」

「カル……あぁッ」


 一瞬、何を言っているのかに理解が及ばず、そして脳が彼の言葉を咀嚼し終えたことで激しく視界が明滅する。

 古都を、神宿を滅ぼそうと手綱を握っているのは。

 到溺教会の邪悪に加担しているのは。

 世界を滅ぼそうと画策しているのは。

 それは誰なのか。犯人は、何者が愚行に手を染めているのか。

 決まっている。


「そんな馬鹿はもちろん、ひ、ひと……ひとッ……!」


 死すべき愚物は飛田貫一人であり、正道を歩むべき存在が飛田貫伊織。

 だが、だが。だがしかし。

 致命的な、飛田貫伊織の名を騙る一人だからこそ引き起こした。決定的な許し難い矛盾。

 伊織が進む道とは乖離した、邪道の果てに立っているからこそ、少女は自身をどちらにも定義することが叶わない。

 見開かれた瞳孔が虚空を捉え、矛盾が頭痛を訴える。

 ローブ越しに頭を抑えた所で、内から湧き立つ痛苦には効果を持たず。むしろ内側から針で突き刺すような激痛は鋭さを増すばかり。


「どうした闇の聖女ッ。そんな奴、さっさと磨り潰せ」

「ッ! そ、そうだ、僕は闇の聖女……!」


 横合いから飛び込んできたドライコーンの言葉に縋り、一瞬は少女も平静を取り戻そうとする。

 が。


「で、その闇の聖女ってのが誰って話だろうがッ。記憶喪失かァ?!」

「それは、それはッ……!」


 この瞬間にも魔物を鏖殺している少年は逃げの択を許さない。

 止め処なく溢れる涙が視界を歪め、更に痛みと直視したくない現実を前に明滅する有様では、魔物の使役もままならない。

 指示の停止に混乱し、魔物達の動きも疎らな緩慢さを見せている。通常の個体ではなく、生成から少女の魔法が関わっている故の不備であろうか。

 突然与えられた自由に混乱しているようにも見える様は、堪え難い二択に苦しむ少女の心象を現しているように思えた。


「俺はさぁ。お前に託したもんがあんだぞ、伊織」


 加古川が少女との距離を詰める。

 現実との乖離に苦しむ少女との距離を。


「俺はまだ変わり切れてねぇ……適当な理由をつけては逃げてばかりだ」


 己の心情を吐露しても、肝心の相手は聞く耳を持たない。


「今からでも少しは変わるかもって思ってたんだ……そこでお前がこうなっちゃ世話ねぇだろうが」


 安易な道へ逃げる心中には理解が及ぶ。

 及ぶからこそ、それを受け入れてばかりではいられない。


「俺が託したもんを無駄にするなッ。何なら一足先に変わってやるぐらいの心意気ってのを見せやがれよ……飛田貫伊織」

「うぐ、あ……!」


 抱擁。

 いつの間に詰まり切っていたのか。気づけば、少女の身体は暖かい人肌の感覚に包まれていた。

 視界が黒のインナーに埋め尽くされ、矛盾に軋む頭痛が徐々に糸を引く。

 安心感。単に自身が認められたことだけではない、別の要因を伴って少女は己を定義しようとする。

 が、やはり素直に信じる訳にはいかず、僅かに残り滓を吐露した。


「でも、僕は伊織じゃ……」

「つうか一人としてのお前なんて全く知らねぇしな。そこで初対面から伊織と名乗られちゃ、俺の中での伊織はお前なんだわ」

「……」


 反論するのも馬鹿馬鹿しくなる理屈に閉口し、少女は暫し少年に胸元へ額を擦りつける。

 先程まで致命的な矛盾を突きつけてきた張本人とは思えない口調に、最早対処する術などない。

 もしくは、あの日。偶発的に潜ったダンジョンで出会った瞬間。

 あそこで伊織の名を僭称した時点で、真の意味で一人の死は決定したのかもしれない。


「……あっそ」


 愛想なく呟く言葉の裏で、頬は紅葉の如く赤らんでいた。


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