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第40話 憎しみを映し出す鏡

「う、ん……」


 沈殿した意識が泥中から浮上し、伊織はゆっくりと目を開く。鉛の如く質量を主張する目蓋は、彼女が見るべきではない現実から目を逸らす口実に相応しいとばかりに。

 寝起き特有の曖昧な視界に飛び込んできたのは、ダンジョンの一角と思しき岩壁とダンジョン内に似つかわしくない装飾で彩られた不思議な空間。

 等間隔で設置された蝋燭の灯火が空間を照らし、陰影が岩肌の存在感を殊更に強調する。広さに対して光源の感覚が短いのか、無明の空間が端に向かうほど遠大となり、むしろ一定の幅で置かれた火種が道を形成しているようにも思えた。


「どこ、ここ……?」


 無論、伊織に見覚えがある空間ではなく、意識を失う直前の記憶とも噛み合わない。

 左右に首を振ってみても、目覚めた直後では夜目に慣れることなど皆無。

 視界が限定されるためにか、自然と研ぎ澄まされた聴覚が正面から響く地面を叩く軽快な音を掴み取った。

 防衛本能がそうさせるのか。身体を丸めて視線を向けると、そこには信者達の服装と同様のものを纏った男性が立っていた。


「ようやく目覚めたか、闇の聖女よ」


 フードの奥から色素の薄い金髪を垂らした碧眼の男は、生気の失せた顔色で伊織を見下ろす。サイズが合っていないのか、手元を覆う裾の奥からは指を鳴らす音が絶えず木霊した。

 表情にこそ現れていないものの、男は明確な苛立ちを込めて言葉を紡ぐ。


「散々待たせたんだ、ここからは迅速に手伝ってもらうぞ」

「いったい何の話です。僕は君達に手を貸した覚えなんてないんですけど」

「覚えがないだと……あぁ、そういうことか。合流が遅れたのもやはりそういうことなのか。いったい誰が穴を開けてやったと思っていたが、そういうことなのか」


 静かに、しかし確かな怒気を内包して。

 伊織の言葉に一つの結論を見たのか、男はフード越しに頭を掻き毟り奥歯を噛み締める。一点に定まらず揺れ動く頭が金髪を揺らし、半端に照らされた口端が剥き出しの怒りを見る者に植えつける。

 得体の知れない人物の行動に第六感が最大限の警鐘を鳴り響かせ、少女は立ち上がることもせずに距離を離した。闇の聖女、という聞き慣れない言葉とローブが到溺教会の関係者、それも誘拐の主犯格であると想像させたが故に。

 しかし彼女の思惑が通じる訳もなく、男は不意にしゃがみ込むと視線を交差させる。


「どこに行こうというんだ?」

「ヒッ……!」


 見開かれた碧眼には正気を手放した者特有のぎらついた光が灯り、相対する桜の瞳が恐れに滲んでも一向に意識する気配はない。

 やおら伸ばされた手を止めることも叶わず、されるがままに伊織は自らの黒髪へ触れさせることを許してしまう。


「どうやら色々と忘れているらしいな。だったら、思い出させてやろう。

 闇の聖女……いや、飛田貫一人」

「飛田貫、ひとり……?」

「聞き覚えがないか。それともしらばっくれてるだけか。

 どっちでもいいな、大事なのはこれから思い出すことだ。お前が何者で俺達とどんな接点を持っていたのかを」

「なに、を……!」


 意味深な言葉に反応する余地もなく、掌から注がれる何かの感触が伊織の意識を掻き乱す。

 脳味噌に直接干渉されるが如き感覚。徒に不快感を煽られ、酩酊にえずき涎を垂らす様さえもひたすらに凝視される。反論の言葉は音を成すことなく、代替として意味もなく口が開閉を繰り返す。

 視界が明滅して男の姿すら輪郭がぼやけていく中、突如として光が注ぎ込まれた。


「ここ、は……?」


 万物を見通す神の眼を覆う曇天、そしてどこか見覚えのあるくすんだクリーム模様の壁面。湿気を敏感に察知したのか、ややぬかるんだ土の感覚にも彼女は既視感を覚えていた。

 そう、そこは偶発的に神宿ダンジョンへ足を踏み入れるまで、彼女の日常を彩っていた学び舎。

 僅か数週間、足を運んでいないだけで途方もなく遠い過去の出来事に思えたのは、加古川達と出会ってからの時間が如何に密度の高かったかが成せる業か。


「確かに懐かしいけど、どうしてこんな所にです……?」


 記憶が合致すれば、今伊織が立っているのは校舎裏。

 先程のフード男がどのような手品を行ったのかは不明なものの、数秒前とは大きく乖離した光景に眼を丸くして左右に首を振るばかり。

 困惑のまま立ち続けていると、遠方から足音が鼓膜を揺さぶる。

 直感的に近くの茂みへ飛び込むと、直後に二人の女学生が伊織の前に姿を現した。

 共に学校指定のスクールカーディガンやチェック模様のスカートを着用しており、華の青春を謳歌する女学生には何よりも似つかわしく思える。また艶やかな黒髪に体型と、一目しただけでは二人を識別することは困難であろう。


『ねぇ、どうしたんです。急に校舎裏に来てなんて、お姉ちゃん?』

「あれは、僕……?」


 上機嫌に足を進めて隣に立つ少女を追い越した少女の顔は、朗らかな笑みを浮かべた伊織その人。手に持つ鞄にも見覚えがあり、思わず奥歯を噛み締める。


「もしかして、これってあの日の……!」


 既視感に満ちた光景に、伊織は記憶の奥に埋葬されていた出来事を想起させた。

 何故か校舎裏に出現した魔狼が女学生を喰い殺し、伊織自身も左腕を噛まれつつ鉄パイプで応戦した日。彼女が日常から踏み外し、外側冒険者としての歩みを余儀なくされた日が、眼前で再現されていた。


「ってことは、あのお姉ちゃんってのが」


 魔狼に喰い殺されたと思しき少女は伊織からの質問にも応えず、やおら右手を振り上げた。

 凶兆を告げる少女の仕草に呼応して、伊織が隠れたのとは別の茂みが揺れ動く。

 地を蹴り上げ、少女の側に着地したソレは飢餓の念を剥き出しにした獰猛な唸り声を鳴らし、場違いなまでの存在感を主張した。

 そして、獲物を見定めた鋭利な眼光は記憶の中の伊織を壁際へと追いやるべくゆっくりと旋回する。


『え、な、なに……何なの、お姉ちゃん……?』


 伊織の零す声は何かの間違いかと、目の前に広がる光景への疑義を訴える。が、まさか魔物に触れて現実の有無を確かめる訳にもいかない。

 故に壁際へと追い詰められてなお、眼前で魔物を使役してみせた少女へ問いかけるのみ。

 桜の瞳に潤いを乗せ、嘆願するように見つめる。すると眼前の少女は堪え切れなくなり、彼女の疑問に応えた。


『ずっとムカついてたのよ、貴女には』

『え……』

『僕の方が勉強もできるし、本もいっぱい読んでるのに……馬鹿で馬鹿な連中とつるむのが得意なだけの貴女ばっかり評価されるなんておかしいもん。ちょっとくらい、痛い目を見るべきだもん』

「何これ、知らない。おかしい……」


 少女が内に秘めた屈折した心情を吐露する中、茂みに隠れた伊織は眼前で繰り広げられている光景に焦燥で冷や汗を垂らす。

 伊織が壁際に追い詰められている状況下は、彼女自身が生きている現実と致命的に矛盾する。実は記憶の再現と思い込んだだけで実際は違うものを見せられている可能性もあるものの、だとすれば不明なのはフード男の目的になるだけの話。

 もしくはここから少女が制御を失って、記憶通りの出来事が起きるのか。

 呼吸を静かに乱し、今すぐ目を背けろと忠告を飛ばす心を無視して眼前の光景へと注目する。注目せざるを得ない。


『ねぇ、馬鹿な貴女は知らないでしょ。復讐という料理は冷めてから食べた方が美味しいって。

 ……どれだけじっくり冷まして、じっくり煮込んだと思う?』

『ま、待ってよ。お姉ちゃん……!』

『待たな……!』

『ヴァアァオオッ!』


 少女の言葉を遮り、魔狼が伊織へ向かって跳びかかる。

 ただの女子高生が二級ダンジョンを徘徊する魔物に抵抗する術はなく、思うがままに蹂躙され、柔肌と制服が赤に染まる。

 赤が周囲に広がる。

 赤が辺りに撒き散らされる。

 赤が世界を染め上げる。


『た、たしゅげで……お姉じゃんッ?!』

『……ハッ、待って。止まれって、止まれ!』


 四肢を捥がれる激痛に叫ぶ伊織の言葉で呆けた意識を取り戻し、少女は魔狼へ必死に指令を下す。

 が、命令された魔物は彼女の言葉を意に介することもなく食事を再開。ひたすらに眼前の伊織を噛み砕き、胃の中へと収めていく。


『だから止まれって……!』

『ヴァアオ!!!』

『あッ……止めて、もう止めてってッ。伊織が、伊織がぁッ!!!』

「こ、れ……え」


 血と臓物に彩られた惨劇を前に、伊織はただ呆然と立ち尽くす。

 何せ自分であるはずの存在が喰い殺されているのだ。別に深い専門知識を要求されている訳でもないにも関わらず、あまりにも理解が及ばない。

 いっそ夢か幻と横から言って欲しい精神状態になってもなお、魔物の制御に失敗した少女は動きを続ける。

 魔狼から身動ぎ一つで振り払われた少女は、草むらの中に転がっていた鉄パイプを拾うと固く握り締めた。放置されて久しいのか、根元が錆びていたことで掌を切るものの意識を傾ける様子すら見せない。

 完食を果たしても周囲の血を貪欲に貪る魔狼との距離を詰めると、少女は己が得物を天高く振り上げる。


『死ね』


 骨が砕ける生々しい音を響かせ、魔狼が衝撃に狼狽えた。

 手応えを感じるまでもなく再度鉄パイプを振り上げる少女であったものの、流石に外傷を受けても無視し続けるほどに余裕がある訳でもなし。

 素早く身体を反転させ、未だ血の滴る顎を開くと骨肉が挟まった鋭牙を見せつける。

 加噛の先は、少女の左腕。


『ッ……死ねッ』

『ヴァオッ』


 激痛と衝撃に一歩後退るが、少女は乱雑に鉄パイプを薙ぐと強引に魔狼を引き剥がす。

 噴き出す血飛沫の弧を視線で追えば、魔狼は当たり処が悪かったのか。動きに鈍りが伺えた。

 血が付着した鉄パイプを引き摺り、少女は伊織を喰い殺した魔物へと近づく。

 ある程度の距離を詰め、鉄パイプを振り上げると──


『死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ねッ』


 何度も何度も、執拗なまでに右手に握る鉄パイプを振り下ろす。

 家屋を支えるため、強靭に造られた得物を振るう度に崩れた肉体から噴き出した返り血が少女の顔を赤く濡らす。が、それでも構うことなく、まるで憑りつかれたかの如く鉄パイプを振り下ろす。

 生々しい音が正面に立つ壁面に反射し、周囲に生い茂る雑草へ芳醇な鮮血の栄養を届ける。

 神の眼は曇天の空に覆い隠され、少女の所業を知るのは少女自身と伊織の二人のみ。


『死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ねッ』


 口から漏れ出る呪詛の念は、華の青春こそが相応しい肌色のスクールカーディガンやチェック模様のスカートからは著しく乖離し、鬼気迫る表情からは普段の人格も伺えない。

 我武者羅に振り下ろす得物の反動で右手の感覚が覚束なくなり、微かな痺れに握りも甘くなる。

 なおも打撲を繰り返す少女が正気に戻ったのは、一身に攻撃を浴びせられ続けた獣が頭を垂れた時。


「知ってる、でも……違う、そんな訳……!」


 眼前で行われている光景は、確かな実感と共に伊織の記憶へ刻み込まれている。

 握り締めた鉄パイプの感触も、掌に響いた肉を砕く感覚も、流血によって行動の割には体温が低かったことも、間違いなく飛田貫伊織の経験として身体が覚えている。

 にも関わらず、伊織は子供が駄々を捏ねるように否定の言葉を繰り返し、両手で抑えた頭を振り続けた。

 これを現実と認めてしまえば、自分が過去に体験したものと認識してしまえば。


『飛田貫、伊織……? うん、そうだ。㒒は伊織だ……』


 飛田貫一人は、飛田貫伊織から全てを奪い去ったと認めることと同義なのだから。



「■■■■■■!!!」


 意識を手放し、横になっている少女を尻目に、フードを被った男──ドライコーン・ビューラーは蝋燭に灯された壁画を見つめる。

 大気を震撼させる咆哮は、少女がいた地点よりも一層激しく響き渡り、ともすれば鼓膜の正常性を疑いさえする。しかしてドライコーンは賛美歌を聞くかのように穏やかな表情を浮かべ、恍惚の吐息すらも自然と零す。

 閉じられていた目蓋が開かれ、人々を魅了する碧眼が露わとなる。


「あぁ、神よ。人の世を唾棄せし我等が父よ。

 主が賜りし竜種の目覚めも近い。闇の聖女も主の掌中にある。今こそ我等到溺教会が主の本懐、ダンジョンブレイクを実現せしめてみせましょう……!」


 頬を上気させ、陶酔の顔で謳い上げる内容は魔王の宣言が如く。

 両腕を広げ、壁画に投影された影のシルエットもまた人類に仇名す存在を暗喩する。

 感極まった男の裏で寝そべっている少女は頬に一筋の涙を流した。


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