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第36話 知らないという罪と知り過ぎる罠

『なんでお姉ちゃんが生きているの』


 其は誰もが抱く疑問。


『なんでお姉ちゃんなの』


 其は怒気すら滲ませた諦観。


『なんであたしじゃないの』


 其は彼女自身が最も胸に抱いている謎。

 男がおらず。女がおらず。老いがおらず。若きがいない。

 漆黒の空間。上下の感覚すらも曖昧な、深淵に浮かぶ宇宙を彷彿とさせる闇の中に飛田貫伊織ひたぬきいおりは漂っていた。

 彼女の周りを囲う数多もの人々は姿を消し、眼前に立つのはたった一人。

 顔に影を差し、表情が読み取れないことを除けば伊織とまるで瓜二つの少女。彼女の関心は伊織に、厳密には伊織の失策に注がれている。


「なんなの、この夢は……?」


 伊織は奥歯を噛み締め、怒気すらも滲ませる声音で呟く。

 眼前に立つ鏡写しの少女こそが何よりも雄弁に夢、それも悪夢の類にカテゴライズされるものであると物語っている。根拠など論ずるまでもない、飛田貫伊織の目の前に飛田貫伊織が立つことなどあり得ないのだから、今見えている光景は夢であると切って捨てる証拠となり得る。

 周囲を一瞥しても、就寝の度に目撃する夢と全く同一のものであると断言できた。なれば、普段と同じ要領で対処することも叶うはず。

 伊織は正面に立つ少女を薙ぎ払うように力強く腕を振るう。

 消えろ、消えろ、視界の前から消え失せろ。

 強烈な感情を込めた腕の一振りを、しかして眼前の少女は左手で受け止める。


「え……?」

『ほら、すぐそうやって都合の悪いことから目を逸らす』

「……何、何なの、この夢」


 夢ですら思い通りにならないと左手で髪を鷲掴みにすると、伊織は無造作に掻き毟った。


「消えてよ、さっさと消えてよ。僕は、僕だけが飛田貫伊織なんだから、目の前の偽物はさっさと消えろ!」

『何を言ってるんです、お姉ちゃん?』


 穏やかに、あるいは興味の片鱗も伺わせない様子で。

 眼前の少女は首を傾げ、伊織の弁が理解できないと一歩踏み出す。

 その様がどうしようもなく恐ろしいと、身体の芯から恐怖が湧き立ち反発するように伊織は後退る。

 呼吸が乱れる。肩を大袈裟に上下させ、桜の瞳は見開かれた眼と反比例して縮こまる。


「何を言ってるってッ……!」


 続く言葉を紡ぐことは叶わず。途中で遮られた意味を、眼前の少女は誰よりも正確に把握している。

 だからこそ、伊織は今なお掴まれている腕を振り払い、乱暴に距離を取る。


「そもそもこれは僕の夢でしょッ。なんでこんなに意識がハッキリしてるのに、まだ続いてるのさ!

 終わってよ、早く。終われぇ!」

『終わる訳ないです。だってこれは飛田貫伊織が望んだ夢なんですから』

「だからそれは僕の──」

『いいえ、それはあたしの夢ですよ?』


 顔を覆っていた影が剥がれる。陽光によるものではなく、本来の色身を塗り潰していた黒が抜け落ちるように。

 露わとなった顔には、あまりにも見覚えがあった。

 印象的な桜の瞳に黒髪、素材の良質さを感じさせる顔立ち。日本人らしい肌模様に張りつけたのは、能面を彷彿とさせる無貌。

 そう、少女の顔は朝に目を覚まし、洗面台に立つ度に見る。


「そ、それは……僕の顔だ……!」

『えぇ、そうです。お姉ちゃん。そしてあたしの顔でもあります』


 飛田貫伊織の顔が、少女に張りついていた。



「うわぁぁぁッッッ!!!」


 勢いよく上体を起こし、掛け布団を吹き飛ばす。

 見開かれた双眸は夜闇に沈んだ部屋を映し出し、伊織は乱れた呼吸を殊更ゆっくりと整えた。

 右を向いて、そして左を向く。

 同じ闇の中にあっても、夢の中を連想させる宇宙の神秘さは皆無。耳目が捉えたのは地に足のついた感覚、加古川誠かこがわまことが利用しているマンションの一角である。

 事実を確認して意識を逸らしてみるものの、なおも少女の心中は先程の光景に囚われている。いくら深呼吸をしようとも、肺に蓄積した空気を新鮮なものへと取り換えようとも、一向に調子が切り替わる気配はない。むしろ時間が経過するごとに不快な汗が体温を奪い去り、より就寝には不適な条件を整えていく。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」


 夢でしてみせたように頭を掴み、不快さを剥き出しにし奥歯を噛み締める。

 本来夢には記憶の整理という役割が存在する。なれば先に見えた少女は、毎日視界に収めることになる鏡の擬人化といったところか。

 自身を納得させるべく、伊織は無理矢理結論づけると鉛の如く重い身体を持ち上げた。


「シャワー浴びよ、かな」


 幸いにも、加古川が利用しているマンションは安定して電力が供給されている。水の供給も滞りはなく、簡単な操作で浴室の準備は整う。

 脱衣室で汗ばんだ寝間着を脱衣籠へ放り、一糸纏わぬ姿を晒すと嫌に覚めた意識のまま伊織はシャワーの蛇口を捻った。

 多少の時間を置き、冷水から適温よりやや高い熱湯が少女に浴びせかかる。

 肌を叩く感触は汗に濡れた肌から不快感を拭い去るものの、心中に蓄積した淀むナニカを払拭することまでは叶わない。むしろ肉体的には穢れが取れた分、内側の穢れが一層に存在を主張してくる。


「気持ち悪い、何なのあの夢……」


 反芻する度、能面の如き自身の顔を思い出す度に不快感が込み上げ、喉の奥から吐き気が湧き立つ。えずく感覚に左手を添え、口元を覆い隠す。


「気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……」


 幾度となく同じ言葉を繰り返す。

 排水溝へ絶え間なく水が流れるものの、伊織の感情が晴れることは終ぞなく。

 そして無意識の内に自らが姉と呼ばれた事実を思考の端へと追いやっていた。


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