「加古川ッ」
夥しい数の魔物の骸を超えて飛田貫伊織の前に広がっていたのは、闘技場を彷彿とさせる大広間。そして相対する血に飢えた化生と血の海で立ち上がる加古川誠の姿であった。
赤錆めいた朱の毛並を有する人狼──ギルドからレッドフードと呼称された特異個体はやや怯んだ様子こそ見せるものの、目立った被弾は見当たらない。唸り声を上げて新たな乱入者たる伊織をも牽制する様に、戦意の衰えなど絶無。
一方で加古川の背中からも殺気が剥き出しとなっているが、足の隙間から爛れる血の量は控え目に言っても致命傷。未だに意識を保っていることこそが奇跡の産物である。
「加古川ッ、引こう! その傷じゃ無理だよ!」
「知った、ことか……よ。黙って、見てろ……!」
あらん限りの声で撤退を進言する伊織であったが、肝心の加古川に応じる姿勢はない。証拠に魔鉱ドライブは一際激しく唸りを上げ、大広間全体にまで破滅が反響する。
一歩、大地が割れる膂力で蹴り込み、少年の肉体は魔物との距離を詰めた。
フレーム全体が熱を帯び、左よりも一回りは大柄な義腕が出鱈目な威力を開放。大気が破裂する衝撃を伴って拳を振るうも、寸前の所で化生は回避。素早く内へと潜り込むと、すれ違う形で切創が脇腹へとつけ加えられる。
「がッ……!」
「グゥアッ」
血痕が宙に軌跡を描く中、暴食の化身は右手を軸にして余力で反転。
更に地面を蹴り抜き、弾丸の如き速度域で剥き出しの背中へ迫る。
無防備の隙を狙った接近はしかし、破れかぶれに振るわれた義腕の裏拳を避けるべく、飛び退くことで決定打とはなり得ない。
それでも炎熱の追撃からは逃れられない。
体毛が発火するのではないかという高熱は、限界を超えて駆動した虚之腕に搭載された魔鉱ドライブの過負荷状態が故。元より販売を考慮していないデータ取り用の試作機がため、リミッターによる強制終了などの安全弁は存在しない。
だからこそ、主自社である加古川の肉体が持つ限り、異界の技術が根幹を成す動力源は際限なく力を発揮する。
「グゥゥア?!」
「逃がすか……よ!」
「加古川ッ、もう無理だよッ。一旦引こう!」
素肌を晒す左腕や顔の大部分に醜い火傷痕を刻みつけ、秒を追うごとに面積を肥大化させる。
最早戦闘なのか自傷行為なのかの区別もつかない突貫に、魔物側も正面から付き合う義理はない。もしくは撒き散らされる高熱にレッドフード自身も接近を嫌ったのか。
地を抉り、地割れさえも誘発する慮外の破壊力は空を切り、肉を砕く感触は終ぞ訪れない。
「このッ、ちょこまかと!」
見開かれた漆黒の瞳には狂的なまでの炎が燃え上がり、熱意を吸い上がるが如く動力を駆動させる。放熱フィンが歪む程の高熱に対して、脳内で放出され続けるアドレナリンが正常な肉体状況の把握を妨げた。
常ならば、とっくの昔に気づいているはずなのだ。
身体は限界を遥か後方へと置き去りにし、今は気力だけで駆動している状況だと。一切の補給もない現状では、既に本来の意味で設定されている上限スレスレでの駆動を続行している魔鉱ドライブもいつ不具合を起こすか分かったものではないと。
しかし常ならぬ状況が、怨敵を眼前に捉えた状況が彼から冷静な判断力を奪い去る。
「オ゛ォ゛ォ゛ォ゛ッッッ!!!」
喉が張り裂け、血反吐を撒き散らしてなおも咆哮を繰り返し、人か魔物か判別のつかない声音で自らを鼓舞する。
心血を注ぎ、寿命を秒単位で捧げる無謀な突撃は直撃こそ叶わないものの、闘技場全域を蝕まん程の高熱を以ってレッドフードの体力を削る。
部屋に割り込んだ少女を巻き込んで。
「加、古川……!」
偶発的にダンジョンへ落下し、巻き込まれた形である伊織にとって火山地帯にも匹敵する高熱は耐え切れるものではない。
咄嗟に羽織っていたモックコートを脱ぎ去ろうとしたものの、寸前の所で踏み止まる。
素肌を晒す加古川に焼きつけられた火傷痕を見れば、衣服が紙一重で致命傷を妨げているのは明白。斯様に蒸れた感覚で内側に熱を蓄積させたといっても、脱ぎ去る訳にはいかない。
だが、膝をつければ熱した鉄板の上に肉を置いたような焼ける音が鼓膜を揺さぶる。
「熱ッ」
予想だにしない熱に飛び退くも、スカートやコート越しでも膨大な熱量が伊織を襲う。それでも直に灼熱へ身を晒すよりは多少マシであった。
幾分か落ち着いた熱の中、伊織は桜の瞳で痛々しく戦う加古川を見つめる。
「なんとか、しないと……!」
左右に目を配り、何か手段はないかと模索する。
されども、闘技場に広がっているのは腸を食い破られた魔物の集団ばかり。滴る血液越しに体内を焼かれ、徐々に霧散していく様はいっそ芸術的ですらある。
ダンジョンへと還元される魔素を見つめ、伊織は一つの策を浮かべた。
「魔素になってる……いや、それが魔物が死んだ証……ってことは!」
次に見つめたのは、自身の右手。
ブラッドルーズ戦では機能し、
信者に襲われて以来、考えていた。二つのケースに於いて、何が違っていたのか。
何が足りて、何が欠けていたのか。
土壇場の発想に過ぎず、確信の下に行われる行為ではない。見当違いの論外である可能性も否定できず、仮にそうであったとすれば今の自分に加古川へ助力する術はない。
だったら。
「成功してみせろよ……僕の力なんでしょ!」
啖呵を一つ。伊織は大口を開けて歯を立てると、勢いのままに右手へ喰らいついた。
肉を貫通し、骨にまで到達したのか。華の女子高生には拭い難い激痛に目元から涙が流れるも、気力を以って捻じ伏せる。
左手で右腕を引っ張り、無理矢理歯から引き剥がすと血の痕が糸を引く。
そして、口内にも朱は蓄積していた。
「スゥー……」
大きく深呼吸を一つし、肺へ空気を溜める。
ブレッドルーズから受けた和傘の痛苦は、彼女自身の肉体を傷つけていた。
一方で到溺教会との件では直前に回復薬を舐めていたことで、少なくとも口内の血は修復されていてもおかしくない。
なれば、今まさに噛みついて出血した直後であれば。
「僕を、加古川を助けろッ。魔物ッ!」
声に魔素が籠り、大気を伝ってダンジョンに広がる。
当然、最初に伊織の言葉を聞き届けるのは、数刻前にレッドフードから食い散らかされた闘技場の骸達。
最早死にゆく時を待つばかりであったはずの生命達は欠けた四肢を動員して身体を起こし、欠如した穴から臓器を垂れ流しながら命を実行する。眼光に灯る光は、魔物の常なるものとは大きく異なる。
そして魔物への絶対命令は、屍を積み重ねた元凶にも作用する。
「グ、ゥゥ……アァ!」
真紅の頭部を振り乱し、レッドフードは奥歯を噛み締めた。
不審な動きに隙を見出した加古川は好機と拳を握り締めるも、直撃には至らない。だが体毛の幾つかが宙を舞い、一人と一魔物の間を通過する。
動きに精彩を欠いた暴食の化身は眼前の脅威に集中できないのか、眼光が定まることなく疎らに揺れた。そして揺れ動くが故に、高熱を放つ義腕の所持者の奥より迫る脅威を発見することが叶った。
直後、少年の脇を擦り抜けて錆ついた刃の切先が迫る。
「グゥ、ア……!」
切先を後方への跳躍で躱したレッドフードは、直後に熱に耐え切れず膝から頽れる獲物を凝視。それが自身への報復ではなく、第三者による使役の結果であると本能的に理解する。
そして、自らを襲う頭痛の元凶でもあると。
痩せさばらえた肉体に、四肢に力が籠る。
充血した瞳が捉えたのは、魔物と骸の中間とも呼ぶべき存在に守られた少女。頬から大粒の汗を滴らせ、桜の瞳に疲労の色を濃く写しながらも、指差す右腕だけは確かな力を感じさせた。
「余所見してんじゃねぇ!」
大振りの一撃を後方への跳躍で回避を図るも、間に合わず。
飛び退く衝撃に合わせて後ろへ逃がすも、元々の絶大な威力に加えて膨大な熱量とあっては肉体への蓄積も大きい。
地面に轍を刻めば、首元から一筋の血を垂らしていた。
食い散らかした魔物が仇となったかと、レッドフードが判断するまでに然して時間はかからなかった。
「どこに、行こうってんだ……!」
一歩後退ったのを確認し、加古川は休憩を求めてストライキを敢行する肉体に鞭打ち、怨敵との距離を詰める。
「グゥゥア……!」
唸り声を上げて牽制するも、レッドフードから交戦の意思は半ば潰えている。
義腕による一撃が余程堪えたのか。時折たたらを踏む足に首元から漏れ出る血など、常からかけ離れた有様なのは明白。加えて、闘技場の異常気温が体力を着実に蝕んでいた。
ただでさえ肉の薄い痩せさばらえた肉体、一撃の重さもまた通常の魔物とは異なる。
一方で、相手の引き気味の姿勢に気づいたのか。加古川はここぞとばかりに駆け出し、瞬く間に距離を詰める。
「オォラッ!」
自傷しながら戦うなどという領域ではなく、最早自殺の次いでに仇を取るといっても差しつけない前のめりの姿勢。振るわれる理外の膂力は、大振り故に回避が容易であろうとも化生に恐怖を抱かせるには充分な威力を有していた。
もしくは、確実に相手を屠る算段もなく命を投げ捨てる態度に恐怖を抱いたのか。いずれにせよ、レッドフードの攻め手が大人しい内こそが好機。
「オォォォッッッ!!!」
「加古川ッ、加古川?!」
そこに無力な、魔物を使役するしか能のない女が割り込む余地などなく。彼女の叫びも大気に無味な振動を伝播させるのみ。
正気を手放し、攻勢に傾向した少年の義腕が化生へと迫る。
握り締められた剥き出しの鈍色は一撃を以って魔物を貫き、主すらも焼きつける炎熱が肉体を微塵も残さず蒸発させる。
当たりさえ、すれば。
「グゥアッ!」
「ッ?!」
剛腕が毛並を撫でる。
直撃する寸前で身を屈め、首元へ喰らいつかんと急速に接近するレッドフード。
急に転身した理由は分からない。が、どうせ拳が直撃しないことは加古川も考慮の上。
己が爪牙しか得物のない魔物は、どこまでいっても距離を詰めねば攻撃できない。ならば虚之腕で抱き締めてしまえば、常軌を逸した高温が両者の肉体を焼き尽くす。
故に少年は首へ迫る人狼を前に口角を吊り上げた。
後少し、数刻もしない内に敵討ちも終わる。
凄絶な笑みで怨敵を睨み──
「ダメェッ!!!」
横合いから飛び込んできたゴブリンが、レッドフードを義腕の間合いから引き剥がした。 空を切る腕の反動で姿勢を崩し、加古川は地面を舐める。その表情には呆然とした様子がありありと見て取れ、見開かれた両目は現実を直視しているとは言い難い。
一方、所詮は死にかけに取りつかれただけの状況。
飢えた人狼は腕を振るって容易くゴブリンを引き剥がすと、三度程の跳躍を挟んで反転。反対側の通路へと飛び込んだ。
負傷著しい冒険者に追跡することなど、叶わない。
「大、丈夫……じゃない、ですよね。加古川……」
痛む身体に鞭を打ち、伊織は足を引き摺って加古川に近づく。
間近で拝めば、一層に現実味が薄れる光景。そのような感想が、不謹慎にも彼女の脳裏を過る。
剥き出しの皮膚は残さず火傷と外傷に蝕まれ、地面には血の海が際限なく広がりを見せる。過剰な負荷をかけ過ぎた義腕は動力部たる魔鉱ドライブから黒煙を上げ、先程までの喧しいまでの駆動音は鳴りを潜めていた。時折響く間の抜けた音と共に関節部が痙攣するのは、痛々しいまでの抵抗の意思が成せる業か。
頭を抑える少女が注ぐのは同情の念、しかして少年が受け取った意味合いは大きく異なる。
「な、な……何を、やってやがる……アイツは、アイツだけは……俺が……!」
見開かれた漆黒の双眼は歪なまでの殺意に染まり、目的を妨げた伊織をすら敵と断じて言葉を紡がせた。
「アイツを、逃がし……やがって!」
「いい加減に、してよ……!」
それを遮ったのは、少女の言葉。
奥歯を噛み締め、火傷の激痛すらも忘れて吠え立てた激情の発露。
「あぁ?」
「あんな、ガッタカタの状態で勝てる訳……ないじゃん。少しはマトモに頭を使ってよ……
どうせ、道連れにしてでも……なんて、考えてたんでしょ。バッカじゃないの……それで喜ぶのは、いったい誰なのさ……少しは振り回される側の気持ちも、考えてよ!」
「……」
少女の言葉に放心し、緊張の糸が音を立てて切れる。
微かに首が動くと、加古川は目蓋を閉じて意識を手放した。
と同時に、無数の屍も活動限界を迎えたのか。一斉に崩れ落ちると魔素を霧散させ、肉体を消滅させる。
「ハァ……ハァ……ハァ……ん?」
それは伊織が単独で加古川を運ぶ必要が生まれた合図でもあった。