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第18話 暴走を始めている世界

 時間は多少遡る。


「う、ん……」


 寝起きの心地よい微睡みを、鈍い痛みと生暖かい感触が遮る。

 鉛の如く重い目蓋を何度か瞬かせ、飛田貫伊織は沈殿した意識を浮上させた。


「こ、こは……確か、僕はッ……!」


 不快かつ硬質なベッドから身体を起こそうと右手に力を込め、途端に鈍痛によって縫いつけられる。


「あ、ハッ……クッ! そ、そうだ……確か、ムーン、イーターが落ちそうだったから……助け、ようと……!」


 意識を失う前、第二〇階層でストーカーが引き連れたウェアウルフに押されて落下するアイドルを助けるべく飛び込み、目まぐるしく変わる景色の中で見えた光明へ彼女を押し出したことまでは覚えている。

 だが、押し出してから先の記憶が曖昧だった。思い出そうとしても、全身に響く鈍痛が思考を妨げる。

 視界に広がる光景も、無機質な岩肌とおそらく自身から流れ出た血の二択。無策のままに穴へ飛び込んだ手前、現在地の把握もできず。そもそも鈍痛が呼吸すらも邪魔をする。

 荒く息を吸い、伊織はなんとか身体を仰向けの姿勢にすると右手で左腰に取りつけたポーチへと手を伸ばす。


「そ、そうだ……確かここら辺に、回復薬が……!」


 如何に不味いといえども、背に腹は変えられない。

 左腕の感覚がない以上は右でまさぐるも、結果は伊織をより一層の絶望を突きつけた。


「う、そ……割れてる……?」


 右手に広がった感覚は、粘度の高い液体特有のもの。まるでスライムを鷲掴みにした感触が掌を支配し、指の間にまで侵食する不快感が伊織の表情を強張らせる。

 硝子製であることを不安視した際に、魔物の攻撃が直撃すれば関係ないと加古川が語っていた記憶がある。魔物の攻撃で危険ならば高度からの落下に耐え切れるはずもないということか。

 容器が割れたことで結果的に三階層分の重力加速を乗せて叩きつけられ、なおも命を繋いでいるということを彼女はまだ知らない。


「やっぱり、硝子じゃダメじゃん……」


 掌に広がる粘度の高い液体を前に力なく呟き、伊織は口元を手で覆う。

 はしたないという自覚はある。羞恥の念が顔を覗かせ、視線を周囲に這わせもする。

 そして予想通りに無人の空間であることを改めて確認すると、恐る恐る舌を掌へと伸ばし付着した粘液を舐め取っていく。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 軽犯罪に手を出すかのような緊張感が背筋を駆け、自然と息も怪我とは別件で荒く熱を帯びる。湧き出る汗に目もくれず視線は忙しなく周囲を移動して一定に定まらず、思考は非常時だから仕方ないと誰にでもなく言い訳を重ねる。


「そう、これは非常事態だから……こうしないと、危ないから……」


 だから仕方ない。

 女子高生が掌に付着した粘液を舐め取っていても仕方ない。

 何度も何度も、誰へ向けたものでもない言い訳を繰り返しながら伊織は回復薬を口に含む。

 無味無臭で存在感だけは主張する口当たりも、余りに微量では実感すら湧かない。飲み込むのも苦労する量に対して、自然と漏れ出る唾液を絡めて強引に押し込む。

 身体の新陳代謝が活性化する感触は芽生えず、鈍痛の低下も思い込みかと疑う程に薄い。

 やがて掌を舐めても地肌の感触しか返ってこないことを確認すると、伊織は右手を血の池へと落とす。

 まかり間違っても唾液で濡れた手を洗浄するためではない。

 改めて右手に力を加えると、まずは上体を起こして視野を確保。次いで、血に濡れた制服の裾で額の汗を拭う。


「確か、魔物は血に吸い寄せられる……だったよね……です、加古川」


 予期せずダンジョンへ潜った日に言われたことを思い出し、伊織は痛む身体を押して身体を起こす。

 ブラッドルーズと交戦した時のように魔物を使役できれば話も変わってくる。が、そもそも魔物使役能力の詳細を認識している訳でもなし。何らかの条件が揃っていなければ、彼女の身体は数秒とかからずに肉塊と成り果てるリスクを思えば、下手に頼り切る気にはならなかった。

 ふらつく足取りで壁際に寄りかかると、そのまま壁に沿って移動を開始する。

 アテはない。

 安全地帯があるのかも知らず、外側冒険者が違法に増設した出入口が存在するかも知らず、ただ血の池から離れるために足を進める。

 大穴から直接降下する形で加古川が救出に訪れる可能性など微塵も考慮せず、少女は短慮かつ迷う素振りを見せずに岩肌に塗れたダンジョンを歩む。残響する足音は周囲に人がいないと雄弁に物語り、同時に魔物が徘徊する様子もない安全圏であるとも主張する。


「出血も、収まってないし……これ、離れた意味、あんまりない気もですが……」


 寄りかかっている壁には、伊織の身体から漏れ出た血が塗りたくられる。これでは然して知能がない魔物にも逃走する存在を仄めかしてしまう。

 回復薬を全うに使用できなかったためか、本来の回復効果が見込めなかったのだろう。

 危機感と焦燥に駆られ、ひたすらに伊織は歩む速度を増す。


「いや、これ……意味がないなんてもんじゃ……」


 気づけば、意識が自らの出血にばかり注がれる。

 だからこそ、伊織は自らに迫る音に反応するのが遅れた。


「……!」

「ん、貴様は……?」


 曲がり角を曲がった先。

 漆黒のローブに裾に刻まれた薄紫のライン、そして顔を隠すフードには円とWを組み合わせた紋章。

 それは誰もが一時期ニュースや報道で嫌という程、頭に叩き込まれた存在の象徴。特に八年前には朝昼晩、世界と繋がる限り如何なる些細な情報たりとも共有させてやるという狂気すら感じる程に。


「到、溺……教会?」


 伊織の呟きに呼応するかの如く、漆黒のローブは蠢く。


「お前は確か……闇の聖女」

「闇の……なんて?」


 さも当然とばかりに述べられた他称に、最も疑問の念を抱いたのは伊織自身。

 当然のことながら聞き覚えが微塵もない。高校で闇の聖女などと宣った日には生涯を後ろ指で刺されながら過ごすことは想像するに容易い。そして先日の月背自身が名乗った剣聖や加古川を指したと思しき疾風とも毛色が異なり過ぎる。

 更につけ加えるならば、根本的に冒険者として二つ名を拝領するには彼女の経歴は浅瀬極まる。

 詰まる所は彼女にとっては与り知らぬ、やたらめったら恥ずかしい名称に他ならない。


「ここ最近は本部に訪れないなと思ったが、久々だな」

「剣聖とやり合ったと聞いたぞ、よく無事に帰ってこれたな」

「へ、は……?」


 黒ローブの男達はまるで見知った顔に対して行う態度で伊織へ話しかける。表情こそ伺えないものの、気さくに手を上げる様は敵愾心とは無縁。

 しかして政府から危険団体に認定される組織との顔見知りなど、少女には存在しない。

 ただ無力に顔を左右に振り、二人から一歩後退るのみ。

 怯えた桜の瞳に違和感を覚えたのか、男達は互いに顔を見合わせる。が、それも数秒とかからない。


「どうやら何かあったようだな。万が一の時はドライコーン猊下が何とかすると言ってたんでな。ついてきてもらおうか」

「ヒッ……く、来るな……!」


 恐怖心に後退る度、地面を擦る革靴の音が正面から鼓膜を揺さぶる。

 彼らが穏便な手段に限定するかどうかなど、ローブに隠れた手に握られる短剣を一目すれば明白。精々が話を聞く前に斬りかかるかどうかといった程度で、腕の一本を切り捨てることに抵抗がないのは明らか。

 何せ到溺教会とうでききょうかいが扇動した結果、八年前には数多の人々が自死へと至ったのだから。


「怯えることはない。大人しくしてくれれば、すぐに終わるからな」

「そ、そんな言葉……」


 信じられる訳がない。

 伊織はポーチの内に手を突っ込むと、何か抵抗できるものはないかと弄る。しかしお望みの品は終ぞ現れず、短剣を持った男達は徐々に距離を詰めてくる。

 忙しなく動く視線は、頭上を自在に舞う漆黒の翼を写し込む。

 魔蝙蝠。

 ダンジョン発生に巻き込まれた蝙蝠が魔素の影響で魔物化し、ダンジョンに定着した存在。超音波や甲冑をも噛み貫く牙が主な脅威。

 短く息を吸い、少女は肺に空気を取り込む。


「動け!」


 念じた思いの殉じたままに叫び、しかし効果の程は伺えない。

 男達は再度互いに向き合い、困惑に顔を合わせる。

 即座に行動へ移さないのは好都合。伊織は再度肺へ空気を送り込むと、先程よりも感情を込めて大気を震わせた。


「動けッ、助けろッ。僕を、助けて!」


 何度も何度も、声を張り上げて。

 魔蝙蝠へ呼びかける。

 だが、ブラッドルーズ戦で起きた感覚は訪れず。魔物は彼女の意思とは別に騒々しさで天井を舞う。

 息が乱れる伊織を目の当たりにし、漸く合点がいったのか。男達は短剣を振るって空を斬る。


「……魔軍掌握まぐんしょうあくが機能していないようだな」

「とはいえ、敵と誤解されては堪らん。魔狼やゴブリンを操っても相当の脅威だからな」

「だな。だったら、少しでも痛めつけておくか」

「は、いや……この……!」


 刃を持ち、徐々に距離を詰める男達。

 かたや無手の上、逃げる手段の一つもない女子高生。

 勝ち目などある訳もなく、そも検討する価値すらも見出すことは叶わない。

 やがて睨み合いの状況を嫌ったのか、男達が先に動く。

 素早く、少女の目にも止まらぬ疾風迅雷の速度を以って距離を詰め、白刃の軌跡を中空に刻む。一振りで胴体を裂くまではいかずとも、一撃で抵抗の意思を摘み取るには充分な威力と鋭利さを秘めた得物が伊織との距離を詰め──


「ファンを殺させる訳にはいかない、かな」

「ッ?!」


 甲高い音を響かせて。激しい火花を飛び散らせて。

 伊織と刃の間に、甲冑を纏った女性が割り込む。

 腰まで伸ばした茶髪に胸元とスカート状の甲冑。翡翠の瞳は突然の闖入者に動揺した男を無感情に見下ろし、逆手に握った得物の柄頭に取りつけられたマイクへ口を近づける。


「今回だけの特別だよ。犯罪者へ注ぐ鎮魂歌……ノイジーシャウト」


 静かに告げられた曲名を合図に、ダンジョン全域に破滅的な爆音が響き渡る。

 大気に叩きつけられた振動の波が刃を伝って二重に男を刺激し、顔を顰めて頭を抑える。取り零された得物が地面を叩く音など些末に過ぎず、男はおろか闖入者でさえも意識してはいない。

 絶大な隙を晒す黒衣のローブへやおら刃を振るっても、抵抗の術を持たぬのだから。


「なんだ、コイツ……!」

「ハッ、随分と人気者じゃねぇか。馬鹿女ッ!」


 もう一人の男は苦虫を何十と噛み潰しながらも、視線を女性から外すことは無かった。が、だからこそ彼女の背後から跳躍して迫る少年の義腕への対処が遅れる。

 殆んど反射で両腕を交差させるも、唸りを上げる魔鉱ドライブの戦闘出力をただの腕力で受け止めきれるはずもなし。


「そぉらッ!」


 かけ声を一つ。

 軋みを上げて振り上げられた拳の一撃が、防御の上から男の肉体を粉砕。体内に生々しい音を響かせ、身体を数メートル先の岩盤へと叩きつける。

 蜘蛛の巣状に広がった亀裂が威力の程を物語り、暫しの時間を経て落下した男は白目を向いて意識を手放す。


「え、は……?」


 絶体絶命の危機から一転。僅か数秒で安全が確保された伊織は状況の激変についてこれず、間の抜けた表情で付近の女性を見つめた。

 女性は手首を数度スナップさせ、得物の両刃剣に付着した血を振り払うと、視線を少女へと注ぐ。


「フフ、どうやら間に合ったみたいだね。私は──」

「ムーンイーターさん?! どうしてここにッ。ままままさか僕を助けにですか?!」

「……勘がいいね。尤も、私一人で辿り着けたとは思えないけどね」


 言い、微笑を浮かべるアイドルの姿は液晶越しのものとは大きくかけ離れ、ダンジョンの奥地という環境にも関わらず背後をライトアップされた光景すらも幻視させた。

 それは至近距離で一人のファンに浴びせるには致死量とすら形容でき、事実として伊織は思わず鼻を抑える。


「待って、凄いいい。綺麗……無理」

「?」


 小声を漏らすファンの姿に理解が及ばず、アイドルは小首を傾げた。

 そして激しい動揺に涙さえも浮かべる伊織は、自身に近づく足音へ気づく素振りも見せない。

 高校指定のカーディガンを朱で穢す少女が接近する存在に意識が向いたのは、頭部に鈍痛が響いてからであった。


「ッッッ!」

「一発ぶん殴らせろ、馬鹿女」

「もう殴ってるね」


 ムーンイーターの突っ込みによって、伊織は自身の頭頂部に鈍く響く激痛がもう一人の救援者──加古川誠の仕業であると理解した。


「ちょっ……何するんですか、加古川の馬鹿!」

「テメェが無策で突っ込んだ挙句、大穴に落ちたから手間が増えたんじゃねぇか馬鹿がよ」

「馬鹿って酷くないです?! 華のJK相手になんてこと……!」

「馬鹿に馬鹿って言って何がわりぃんだよ。事実並べて文句になる方が問題だろうが、反論する前にまずは自分を省みろや」

「そういう言い方は止めてって言ったでしょ。あくまで一番問題があったのは私なんだから」


 顔を合わせていがみ合う二人に割り込み、助けて貰ったムーンイーターは仲裁に入る。

 眼前に近づけられたことで、伊織は彼女の手を注視した。アイドルにしてはやや傷の目立つ肌模様は、兼業とはいえ冒険者の端くれと主張するようであり、思わず自らの手へと視線を移す。

 スポットライトの下、舞台で歌って踊る女性のものとは比較にならない肌模様。きめ細かな綺麗さもなければ、冒険者に相応しいタコと血に塗れた様子もなし。

 平凡な、華の女子高生に似つかわしい掌を眺める。


「……」

「何黄昏てんだ、さっさと帰るぞ」


 軽快な音がダンジョンの一角に広がり、遅れて頭に伝わる鈍痛が加古川が再度振るった拳によるものだと少女に理解させた。

 当然伊織は不満の眼差しを注ぐものの、すぐに手元へと引き戻す。

 その突き刺さる視線の意味が分からなかったため、加古川は首を傾げて疑義の念を抱いた。

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