深淵の最中、光の届かぬ大穴を直下しつつ加古川誠は崖を掴む。
幸いにも機械の義腕は片手かつ命綱のないロッククライミングにも安定した性能を発揮していた。疲労もなければ掌を伝う痛痒も皆無な得物は悪ノリ染みたペットネームに相応しく、実体がないのではないかと疑問すらも生じさせる程に。
尤も手を離すタイミングで足をも離し、ある程度自由落下に身を任せてから再度崖を掴む。などという乱暴なやり口を素手で行うのは無謀極まるのだが。
「ったく、どこまで続いてんだ。この穴は……」
ぼやく眼差しの先は、一切の光を呑み込む暗黒。
神宿ダンジョンは現在第三六階層まで確認されており、心臓部であるダンジョンコアは三〇階層付近を移動しているとの主張が冒険者ギルドからの発表である。
仮に二〇階層から直に最下層である三六階層まで繋がっているとすれば、一六階層分。一階層で三メートルと仮定しても約四八メートルはある上、ダンジョンの形状が一定とは考え難い。
「しかも、これで繋がる階層は全部調べろってのか……いっそ足の一本でも折れてりゃ……」
脳裏をよぎった不謹慎な発想に被りを振ると、加古川はロッククライミングを再開。
すると、微かに鼓膜を揺さぶる音が響く。
階層を下るに従い、徐々に鮮明となるハスキーボイスに乗せた軽やかなリズム。曲調こそ大きく異なるものの、声音自体はどこか聞き覚えのあるものであった。
「この歌声。ムーンイーターの方か?」
仲間と逸れた孤独に耐えるべく、せめて平常心を維持するために歌の一つでも口ずさんでいる。といったところか。
下手に自力救済を図ろうと動かれるよりも好都合と、救助する側に回っている加古川は頬を吊り上げて喜色を示す。
先の見えない作業よりも明確な光明が覗ける方が気力には繋がる。気持ち崖を下る速度が増し、その度に歌声が鮮明な意味を帯びた。
「──誰かの宝は 私のガラクタ 皆のガラクタ 私の宝
なんでなんでなんでなんで
皆の光は どこに行ったの 私の光は どこにあるの
どこへどこへどこへどこへ
潰えた光は どこにある?──」
「……なんだ、これ?」
アイドル文化に然したる興味を持たない加古川だが、流石に耳目を叩く曲調に疑問符を抱く程度の常識は弁えている。
こんなものを危険蔓延るダンジョンで歌っていては、それこそ正気を失ってしまうのではないかと首を捻ってしまう。もしくは気を違えているからこそ、歌詞から狂気性を滲ませてしまうのか。
いずれにせよ、定期的に音を発しているのは捜索側としては都合が良かった。
と、自ら思い込むことで鼓膜を震わす怪電波を解釈する。
「ま、さっさと見つけて本命を探るか」
手早く音の発信源を辿るべく、加古川は降下の速度を上昇させる。
ややあって、崖が一端途切れてダンジョン内部と繋がった。
階層としては一階分抜かして二二階層、といった所であろうか。表面的には二〇階層と大差なく見えるが、多少魔素の密度が増して吸い込む息が重苦しく感じた。
足を振って反動をつけると、勢いよく手を放して中空に身を投じる。
一瞬の浮遊感を経て重力に身体が引っ張られ、着地の反動で轍が刻まれる。
勢いが収まり、上体を起こして振り返るとマイクを片手に電波染みた歌を口ずさむアイドルが一人。
「おや、あの穴からやってきたってことはセージ……って言っても分からないかな。上にいた人達に頼まれたのかな?」
着地時の音で気づいたのか、アイドルは歌を中断すると顔を上げて翡翠の瞳を覗かせる。そこに純粋な疑問と、微かな羨望の色を混ぜ合わせて。
「一応はそうなるのか。本命は別にあるから、動けるんならさっさと上を昇って欲しいんだがな」
「本命って、もしかして私を助けようと飛び込んできた娘のこと?」
「そ、その馬鹿女」
大袈裟に肩を竦め、吐き捨てる加古川。
心底愚かだと言いたげな口調に惜しくも届かなかったとはいえ、命の危機に手を伸ばされた相手であるムーンイーターは難色を示す。
「そんな言い方しないであげて。あの娘は私を助けるために無茶したんだから」
「それでもしアイツが死んだら、お前は助かったことを素直に喜べるのかよ」
加古川の反論に、ムーンイーターは閉口した。
仮に彼女が下の階層で力尽きていた場合、ムーンイーター自身が生還できても素直に喜ぶことなど到底不可能だったが故に。
眼前に立つ機械義手の少年が語る内容に、反論することは叶わなかった。
「自分勝手に助けて肝心の自分は死にました、なんて笑い話にもなりゃしねぇ……遺された方も辛ェんだよ」
「……なんか、経験者は語るって感じがするね」
「探るなボケ」
自らの得物を杖代わりにして立ち上がり、ムーンイーターは加古川と正対する。
歳でいえば加古川の方が年下にも関わらず、見下ろす形となるのは男女の体格差か。
視線が自然と下がり、足へと注がれる。
スカート状に開かれ、移動の妨げとならないよう多層的に合わせられた甲冑の奥。右の膝当ては剥がれ、左側も幾つかの擦過傷が刻まれている。
微かな血痕すらも伺える一方で、移動に支障は見当たらない。
「この高さから落ちて無傷ってこたぁねぇだろ。回復薬の余りでも残ってたか?」
漆黒の眼差しが注がれる先は、相も変わらず頭上に広がっている無明の深淵。
ダンジョンの妙か。二〇階層という明確なゴールがあるにも関わらず、出口の様子は微塵も伺えない。
「いいや、私の扱える魔法の一種さ。歌に魔素を乗せて聞いた者の傷を癒す。結構便利なんだ」
「さっきの歌がか? あんなよく分からん歌が最近の流行なのか?」
おじさん分かんねぇよ。と冗談めかして語る少年に対し、ムーンイーターは成功者の見本ともいうべき境遇には不釣り合いな自嘲の色を帯びた笑みを浮かべた。
「いいや、むしろ私の黒歴史だってさ」
「だって?」
「作詞星倉皐月、歌手ムーンイーターのデビューソング。でも新進気鋭のアイドル様とは違って、一曲目からとんでもなく売れない歌を作った作詞家はこの後に続くものを出せませんでしたってさ。
結構自信、あったんだけどなぁ」
遠い目をして語る彼女は、思考を切り替えるべく両刃剣を引き抜くと手元でスナップさせる。
「それで、あの娘を助けるんでしょ。アテはあるの?」
「はぁ? なんでお前に話す必要があるんだ?」
「だって、私を助けるために落ちたんだから。私が見捨てる訳にはいかないでしょ」
当然のように口走り、ムーンイーターは左手を腰に当てて胸を張る。
まるで誰かを助けるのが当たり前であるかの如く。確信の元に胸元へ手を当てる様は、他者へ向けた演説を連想させた。
そしてアイドルの演説を真正面から傾聴する唯一の観客は、露骨なまでに表情を強張らせる。
「いや、そういうのいいんで……怪我人は一人で上層へ昇って帰って下さい」
他人行儀の丁寧語を話してまで拒絶を示すものの、肝心の相手が聞く耳を持たなければ意味がない。
「怪我はさっきの歌で治しましたよ。それに、私が入れば人探しも楽だと思うし」
「楽だぁ?」
自信ありげの女性を前にし、加古川は再度面倒そうに表情を歪ませた。