『なんでお前が生きているんだ』
其は誰もが抱く疑問。
『なんでお前なんだ』
其は怒気すら滲ませた諦観。
『なんであの娘じゃないんだ』
其は彼女自身が最も胸に抱いている謎。
男がいた。女がいた。老いがいた。若きがいた。
漆黒の空間。上下の感覚すらも曖昧な、深淵に浮かぶ宇宙を彷彿とさせる闇の中に飛田貫伊織は漂っていた。
彼女の周りを囲うは、数多もの人々。
顔に影を差し、表情が読み取れないことを除けば何一つとして共通項の見当たらない衆愚。彼ら彼女らの関心は伊織に、厳密には伊織の失策に注がれている。
「随分と性質の悪い悪夢……」
少女は諦めの混じった、どこか他人事染みた声音で呟く。
空恐ろしさすらも覚える冷静さが今見えている光景を夢、それも悪夢にカテゴライズされる類であると主張している。根拠がいったいどこにあるのかも不明だが、何故か確信を以った眼差しが周辺を一瞥した。
明晰夢と呼ばれる夢の形式は、過去に目を通した論文で記憶がある。そこでは悪夢にある程度干渉が可能と記載されてもいた。
故に伊織は右手を翳して、横に薙ぐ。
『なんでそうやって逃げようとする』
しかして悪夢は姿を変えることなく、以前と同様に叱責の言葉を吐き出すばかり。
論文の記載とは異なる結末に首を傾げるも、元々夢の自覚に確実な手段は存在しないとも追記されていたことを思い出す。
制御が完全ではないのか、もしくは夢を自覚した、という設定を与えられただけの何ら変哲のない夢なのか。今の伊織には判別ができなかった。
別に見ていて心地いい光景でもない、一刻も早く起きないかと意識してみると全身が浮上していく感覚に包まれる。
急激に晴れやかなものになる光景に、伊織はふと一つの疑問を零した。
「そういえば、夢って記憶の整理って何かで書いてたような……?」
言葉を完全に紡ぐことも叶わず、伊織の意識は現実世界への浮上を開始した。
「ん、ここは……?」
目を覚ました桜の瞳に跳び込んできたのは、罅割れ亀裂を走らせた灰の天井。華やかな壁紙を取り外し、無機質なコンクリートをありのままに晒す様は寝起き直後に跳び込んでくる光景としては決してよろしくはない。
見慣れない天井に疑問符を浮かべた伊織であったが、脳に血液が供給されるに従って現状を理解していく。
「そ、そうですそうです……昨日は、加古川さんの自宅で一夜を過ごすことになったから……それで」
冷静になれば、見ず知らずの少年と一つ屋根の下で一夜を明かす。と、随分大胆なことをしてしまっている。上体を起こすも、気づけば早くに紅葉を迎えていた顔を両手で覆っていた。
伊織が夜を共にしていたのは、薄い布地と軋みを上げる合皮製のソファ。本来は艶のある光沢をみせていただろう黒は、積層した汚れによって鈍い色身を晒していた。
部屋の内部もまた管理人が逃げ出したのか、放棄されたものを不法に占拠したのだろうと疑惑を抱かせる傷の目立つ状態。テレビや雑誌などで最低限の生活感こそ伺えるものの、それでも質素という印象は濃い。
ソファから身を起こすと、寝間着ではなくカーディガンを纏っていた伊織は洗面台を目指して歩を進める。
道中、幾つかの締まっているドアの先で就寝しているのか。加古川と顔を合わせることはなかった。
粗野な言動が目立ったものの、アレで最低限の配慮ができるのか。
口に出せば失礼と罵られることを思いながら、伊織は洗面台の前に立つ。
「気持ち悪いです……」
何せ昨日は初のダンジョンで疲労が蓄積していた上、満足に汗を洗い流すことも叶わなかったのだ。華のJKを自称する身としては、今すぐにでも湯船に浸かりたいというもの。
とはいえ、他人の家で勝手にガスを扱う気にもなれない。そも、放棄された古都のマンションにガスが今も通じているのかは、甚だ疑問であった。まずは顔を洗おうと蛇口を捻ると、手に掬って心地よい冷や水で顔を洗う。
蓄積していた油分をこそぎ落として最低限の見目を整えると、伊織は寝床に置いていた携帯端末を取り出して時間を確認。
「まだ七時ですかぁ……いっそ早く出て、銭湯にでも浸かってから行けばいいですかなぁ」
窓から注ぐ陽光は眩しく、小鳥の囀りもまた朝が訪れたことを証明する。
古都といえども一時間近い猶予があれば、銭湯で汗を流した上で高校に到着できるだろう。仮に多少遅れたにしても昼までには辿り着ける。
そう思慮し、伊織は玄関へと歩を進めた。
そしてドアノブを掴み──
「って、駄目だ駄目だ駄目だッ……!」
弾かれたようにドアノブから手を離した。
痙攣する手を左で抑え、見開かれた瞳は恐怖に慄いた眼差しを注ぐ。微かに乱れた呼吸のせいか、嫌に心臓の鼓動が早鐘を打っていた。
何を恐れたのか、理解が追いつかない。
しかし、伊織の中にある確固とした恐れの形が登校するべきではないと主張していた。
「そ、そうです……ぼ、僕は勝手にダンジョン潜ったんですから、学校に通うべきじゃない、です……!」
人間に限らず動物全般は、未知をこそ真に恐れる。故に伊織は無理筋にでも恐怖に理由をつけ、自分の中で咀嚼可能な代物へと加工した。
額に滴る汗を拭う余裕すらない状況下で、背後に立つ人物へ意識を傾けられる訳もなし。
「んだよテメェ、まだ帰ってなかったのかよ……」
「ひゃいッ、ですッ?」
寝起き特有の気怠い声色に過剰反応し、大袈裟に仰け反らせる伊織。その背後では予想外の大声に少しだけ動揺を見せる機械義手の少年。
縮れた白髪を掻き上げる少年、加古川誠は昨日と合わせて何度目ともなる嘆息を零す。
彼が伊織を泊めたのは、昨日は女子高生を一人で帰宅させるには時間が遅かったため。別に加古川が随伴すればいい話ではあった。が、外側冒険者として多数の犯罪行為を重ねている身分、都市部に顔を出す気にもなれなかった。
故に起きたらさっさと少女は自宅へ帰っている、算段だったのだが。
「こんな防犯なにそれな家の戸締りなんざガン無視して、さっさと帰れよな。面倒くせぇな……」
「いや、いやいやいやいや。というか、まだ回復薬の代金返せてませんですし……!」
「だぁかぁらぁ、それは家に帰って豚の貯金箱でも引っ繰り返してだなぁ……」
「そ、そんなことよりもッ。今日はいったい全体どうするんですかなぁ、って?!」
わざとらしい笑い声を漏らす伊織の姿に呆れ、加古川は踵を返す。
「違和感がひでぇ義手のメンテだよ。見たらさっさと帰って回復薬代持って来い」