「わ、きゃ、あがッ……!」
完全な直角であらば即死もあり得た高度を、伊織は滑り台よろしく斜面を転がり落ちることで生き永らえていた。尤も、全身を酷く打ち据えている以上、無傷という訳にもいかないが。
どこまでも続くと思われた穴の終焉。それは突然現れた光明の数秒後に訪れた。
「ぎゃっ……」
乙女としての勘が成せる業か。顔面から着地する事態だけは回避し、右肩を勢いが許すままに擦りつける。やがて勢いが死ぬと数秒の間を置き、伊織はゆっくりと身体を起こす。
どこか薄暗く、十数メートルも覗ければ上等な絞られた光量。左右では頑強なる岩肌が空間を隔てる壁の役割を果たし、二階分はあろう高みの天井では蝙蝠と類似した存在が鳴き声を上げて新たな獲物の入場を歓迎する。
岩盤に大穴を穿ったかの如き空間に、少女は見覚えがあった。
たとえばテレビで行われた特集番組で。
たとえば級友が推している配信サイトの投稿動画で。
たとえば、二〇年前に絵空事が現実になった日以降その数を減らした、創作の中で。
「ダンジョン……なんで、出入口はギルドが管理してるって」
困惑の表情を浮かべる少女は左右を見回し、付近を誰かが通過している可能性に賭ける。が、少なくとも認識可能な範囲で人気を感じることは叶わない。
どうすべきか逡巡し、顎に手を当てるも精々が留まるのは危険という程度。
「ひとまず、動いた方がいい、よね?」
気のせいか、天井に蠢く蝙蝠の眼光が鋭利なものに変貌したように思え、伊織は恐る恐る岩肌に触れる。
かつて目を通した小説の中に今の伊織と同様、突然ダンジョンに放り込まれた主人公が脱出する際に用いていた手段を思い出したのだ。
「確か壁に沿って歩けば、やがて出口に辿り着く、だったよね……これ迷路の脱出方法だった気もするけど」
侵入者の命を理不尽にも奪い去る危険に満ち満ちたダンジョンと、あくまでアトラクションとして建造される迷路を同一視していいのかは甚だしく疑問だが、他に頼れる手段もない。
心細さに時折胸元へ手を置きつつ、伊織は革靴で地面を叩く。
静寂の内に混じるは、時折水滴が地面を叩く音。それが岩肌に染み込んだ水分か、もしくは貪った獲物の血液かは意図的に意識を逸らす。
それでも、呼吸が乱れるのは抑えられず。
そも、都市部の高校から古都の距離でも相当のものがあったのだ。身体が休憩を訴えてストライキを敢行するのも妥当というもの。
現状が華の女子高生に似つかわしくない、乖離しているとすら言えるのも伊織の意思に鑢をかける。抜け落ちた体温がともすれば停止を主張し、口から零れる吐息に震えを伝播させた。
「……あ」
数多もの要項に心が折れるかどうかの瀬戸際の中、伊織の目に跳び込んできたのは文字通りの光明。懐中電灯のものであろうか、満月の如き光が左右に振られて壁をなぞっていた。
「す、すみませーん!」
「ん、人の声……?」
「止せ、罠かもしれんぞ」
相手は熟練の冒険者か。ダンジョンに凡そ似つかわしくない高い声音を警戒し、即座に足を早めるのではなく警戒の色を見せている。
ならば自分から歩み寄るまで、伊織は壁に手を当てながら足を止めた光の先へと進む。
徐々に鮮明となる輪郭は、最初に彼女が抱いた印象を裏づけるものであった。
「制服だとッ、いったいどうことだ?」
「怪我してるじゃない、魔物に襲われたの?」
肩や胸元に取りつけられた簡素なアーマーは、彼らの経験値を示すかの如く凹凸が目立つ。手に持つ武具にしても同様、ベテラン特有の無言の説得力が宿った得物は無傷とはいかないが、決して整備が疎かともいえない。
幻想の世界から飛び出したかのような姿の三人組は、それぞれが文明の利器たる懐中電灯で伊織を照らしては困惑の声を漏らした。
二人の一歩前を歩く一人を除いて。
「……」
「おい、セージ!」
「何やってるのよ?!」
「ヒッ……!」
セージと呼ばれた男性は右手に握った両刃剣の切先を伊織の喉元へと突きつけると、仲間の非難も省みず鋭利な眼差しを注ぐ。そこに同情の念は介在の余地もなく、むしろ罠を疑う程に。
明確な敵意、殺気に少女は思わず短い悲鳴を零した。
「冷静になれ、二人とも。なんで一五階層に女子高生がいるんだよ、しかも武器の一つも持ってないぞ。
……人に化けた魔物とでも疑った方が懸命だ」
「そ、そんなッ。ち、違いますよ。華のJKを疑っちゃうんですかッ?!」
「疑っちゃうね、こっちも命がかかってるんだ」
懸命に訴えようとするも、伊織は表情に苦いものを混ぜていた。
ダンジョンの一五階層ともなれば、数年は経験を積んだ中堅層が漸く足を運ぶ領域。確かに穴に落下したら到達しました、で済む話ではない。
警戒感を露わにしたセージを説得する根拠が、伊織には不足していた。
「そもそも俺達が潜り始めたのは十時だぞ、女子高生なら学校に通ってる時間だろ」
「そ、それは……」
なおも詰め寄るセージ。それでも切先を押しつけて伊織の喉元から鮮血を噴き出させないのは、あくまで油断した所を襲う腹積もりと疑っているのか。
もしくはあくまで伊織を女子高生と認識している二人の手前、問答無用という訳にもいかないためか。
いずれにせよ、伊織にとっては堪ったものではない。
既に失血が意識を奪う域にまで到達しつつあり、止血をすべきだという警鐘を彼女自身も受け取っている。
最早形振り構っていられないと助けを懇願しようと口を開く。
その刹那。
「魔狼だッ!」
誰が上げた声か。
金切り声の叫びに反応した三人が、一斉に意識を後方へと注ぐ。
懐中電灯が照らした先には、漆黒の毛並を風になびかせた獰猛なる獣の姿。人骨など容易く噛み砕く口からは、食欲が赴くままに垂れ流される涎が糸を引く。
一匹や二匹ではない。まさしく軍勢と呼ぶに相応しき規模は、大地を埋め尽くしてなお余りある。轟く足並みはさながら、地上を無慈悲に呑み込む濁流を連想させた。
「クッ、こんな時に!」
最初に動いたのは、背に弓筒を携えた女性。
素早く三本の矢を弦に引っかけ、力強く引き絞ると構えも何もない状態のままに射出。
空を切る音は手数重視の乱雑なものとは思えぬ速度で魔狼の一群へと迫り、正確に額を穿たれた二体が脱落。力を失った屍が先を急ぐ同胞から踏みつけにされた末に肉体を霧散させる。
が、数体落とした程度で攻勢を緩める存在でもない。
女性が矢継ぎ早に斉射する中、次に動いたのは伊織の心配をしていた男性。
「ケッ。こんなのが来るなら、レイヴンの奴も呼んどきゃ良かったぜ!」
一団に見当たらない誰かへの小言を挟み、男は背に携えた身の丈程もある大剣を振り回すと、力任せに魔狼を薙ぎ払う。彼が大剣を振るっているのか、それとも大剣が彼を振り回しているのか。
どちらとも取れる剣技だが、群れ成す魔物を蹂躙可能な以上、そこに疑問を挟む余地はない。
彼自身が暴風の化身と呼ぶに相応しき戦果を上げるも、魔狼は数を頼りになおも攻め立てる。元より魔物などダンジョンを守護する防衛機構、己が生命よりも侵入者の排除を優先することこそが本能に刻み込まれている。
故に費用対効果など端から眼中になく、たとえ全滅しようとも人間の排除にさえ成功すれば採算は取れると殺意を剥き出しにする。
そして突きつけられた殺意を前に、伊織は自然と足が後退った。
「あ、あぁ……!」
数の差はともかく、自身に殺意が注がれる状況に慣れている三人とは異なり、伊織は所詮高校に通う一般人。濁流の如く迫りくる魔物の軍勢にも、一瞬先に死が見える状況にもすぐに適応しろというのも酷な話。
「いやぁぁあぁぁぁ!!!」
「あ、おいッ」
反転すると、伊織は脇目も振らずに逃走を選択する。つんのめりそうな程に前傾姿勢で走る姿に、セージが叱責の声を上げるも鼓膜に届いているかすらも分からない。
「助けて助けて助けて助けてェ!!!」
反響する絶叫はダンジョンを起こし、喧しい音に蠢く存在は数知れず。
右に左に前へ後ろへ。
足を止めることこそが死への一歩と行く先も分からず手当たり次第に進む様は、迷子の教本があれば反面教師として出典されていたと確信を抱く程に。
そして、逃避行の末路など決まっている。
「あ……」
二メートルはあろう体躯から逃げ惑う少女を見下ろすは、漆黒の毛並に人と狼の中間に位置する魔物。
鋭利な爪牙は数多もの啜った血に滲み、四足歩行の動物に特有の多関節は二足で筋肉に満ちた強靭な身体を支える。注がれる眼光は飢餓による狂気で溢れ、唸りを上げる喉はさながら暴走族が違法改造を施したバイクの如く。
魔狼を統べるモノ。軍勢を形成せし存在。人知を超えた魔物の一角にして、人を狩る一流のマンハンター。
「ウェア、ウルフ……!」
「ヴオォオォォォッッッ!!!」
伊織が名前を呟くのに呼応して、人狼は咆哮を轟かせた。
地上にまで届くのではないかと錯覚する程の叫びに大気が震え、岩肌が軋み、そして怯えた獲物は腰を抜かす。
魔狼とはウェアウルフの下位種にして、配下。
咆哮に込められた魔素が反応して四肢を形成し、無より出でて主に忠誠を誓う。伊織を取り囲むように円陣を組む様は、捧げる獲物を決して逃さぬために。
「あ、あぁ……!」
否応なく脳裏をよぎる死の気配。
恐怖する様を愉しんでいるのか、ウェアウルフは嬲るようにゆっくりと距離を詰める。
一歩、一歩。
吐息がかかる距離にまで近づくも、心中を鷲掴みにされた少女は身動ぎ一つ取ることが叶わない。大口より伺える虚空の先には、無が待ち受けている。
数瞬も待たず身体の一角が噛み砕かれる、そう思い目蓋を硬く閉じた時であった。
「邪魔なんだよ、退けよ」
生々しく、骨肉の砕ける音がダンジョン内に反響する。
大気を薙ぎ払う衝撃が伊織の短い黒髪を揺らし、風圧が彼女の身体を押し込む。直後に鳴り渡る破砕音は、硬質のものに衝突した肉が弾けるのにも似た響きを伴わせた。
いつまで経っても予想された激痛が訪れない少女は、恐る恐る目蓋を開く。
そして、桜の瞳は救世主を目の当たりにした。
「ったく、面倒事に巻き込みやがって……」
漆黒の機械義手を掲げた、自身とそう年齢差のない救世主の姿を。