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第32話 お猫様の言うとおり

 慌ただしく職場に戻り、午後の仕事を開始する。その日は年末前とあり、比較的早くに日常業務のケリが付いた。明後日の木曜日はついに冬のインターンシップ当日で、総勢百名程の申し込みがあり午前・午後の部と計4回に分けて訪れる学生名簿を作り終えたばかりだ。俺が就活をしていた頃、最後にこのイベントに参加して採用応募にエントリーすることを決めた。今自分がやっている仕事が将来の同僚を見つけるきっかけになるのだから、何だか変な感じがする。

 そして桐生さんと最後の打ち合わせをしている最中だった。午後から口元にマスクをしだした桐生さんの様子が少し変だと思い、首を傾げつつも恐る恐る問い掛ける。二人の関係は気まずくなるかもしれないけれど、今このタイミングに聞いておかないと明日に響きそうで怖かった。

「…桐生さん」

「ん?」

「どうかしたんですか?あの…もしかして、バレたとか…」

「……どうやら、そのようですね」

 桐生さんも恐らく、髙野先輩から色々聞かれたのだろう。その表情は憂いのあるような、少し喜んでいるような不思議な色を含んでいる。横から物憂げな目元を見つめていると何故か色っぽく感じてしまった。

 いや、今はそれどころじゃない…と自分に言い聞かせ、打ち合わせが終わってしまう前にこの心に巣食うもやもやをなくしてしまいたくなる。

「その…いいんでしょうか?桐生さんの昇進とか、妨げになるんじゃないかって…不安で」

「いえ、あの御二方なら大丈夫です…仮に会社側に知られてしまい、そのような措置を取られてもその時は労基に出ます。就業規則で社内恋愛は禁じられていませんし、それが元で昇進させないのはハラスメントですからね。それに、貴方の将来にも当て嵌りますから」

「俺のことはいいんですよ。いざとなったら…職場を追われても、俺は桐生さんを選びますから」

 自分でも賭けに出た言葉だった。この会社に就職できて本当に嬉しかったし、本心では辞めたくはない。でもそれだけ、桐生さんのことを諦めることはできなかった。安川さんたちに対して信頼しているのは俺も同感だけど、違う人たちに知られた場合や、社内恋愛をよく思わない人にバレた時の可能性を考えないといけない…そんな焦燥感に駆られてしまいそうだった。

「そんな事を言わないでください。音無さんの人生は音無さんのものですから」

「……俺の人生の半分を、生田キリオと桐生光が占めてるんですよ?そこ、忘れないでくださいよね」

 桐生さんは俺の顔をじっと見て、すぐに目元に笑みを浮かべた。うん、と小さく頷いて、当日の進行表をとんとんと指先で叩く。

「では…明後日の段取りは以上になります。午前、午後とどちらも気を引き締めるように」

「はい!」

 この日のために色々な場所で、この会社を周知してきた。学生の目に入るように、インターネットも最大限活用して。学生の応募はこの日次第で増えもするし減りもするから、最後の勝負と言ってもいい。

「あの、もし…良かったら。大晦日、初詣に行きませんか。1月半ばにある、最終説明会の成功を祈願して」

「ええ、いいですよ。…他にお願いすることはないんですか?」

「あっ、えっと…ここで言うのはちょっと…」

「ふふっ…わかりました」

 マスクをしているので半分は見えないけれど、入社してすぐの頃とは大違いな優しい表情を浮かべ、桐生さんが俺の顔をじっと見つめた。桐生さんの部署異動は確定しているけれど、決して会えなくなる訳じゃない。一緒に暮らす予定の部屋は、アパートのオーナーに内見したいと言ったら体験宿泊もできると言っていた。桐生さんにも伝え、年末年始の休暇を利用して1週間滞在することにしている。同棲なんて生まれて初めてだから、緊張するのは当たり前だけど楽しい新生活にしたいと思っている。

 最初はとんでもない片思いだった。しかし俺より先に惚れていたのは桐生さんの方で、驚きと嬉しさが綯い交ぜになり身も心もぐちゃぐちゃになる日々を過ごした。その先に今日があって、多分これからも葛藤や迷いを繰り返していくのだろう。紆余曲折あって恋人にはなれたけど…その分すれ違うことも多くなると思う。それを乗り越えるのは、俺たち自身だ。

 会議室のテーブルに置いた資料を片付けながら、ふと自分の指先を見た。色々な人から聞かれる左手薬指の指輪については「恋人から貰いました」と言って肌身離さず着けていた。決して嘘ではないから、これからも滅多に外すことなく大切にしたい宝物になっている。

「光さん」

「うん?」

「あの……明後日、頑張りましょうね!」

 何故か泣き出してしまいそうになった自分を、自分自身で鼓舞する。

「ああ、もちろん」

 資料やノートパソコンを持ち、会議室を出て自分の座席に戻る。ふと桐生さんを振り返ると、トイレに向かったらしく気にもとめずに席に座る。

 この時は二日後に起こる出来事を、微塵も予想することはできなかった。


×   ×   ×


 慌ただしく時は過ぎ、二日間があっという間に終わる。できることを全て終わらせ、準備も万端にと迎えたインターン当日の朝。

 喉に違和感があり、早朝に目が覚めてから最悪な気分で身支度を進めようとしていた。脳内をぐるぐる回るのは音無にこの状況をどう伝えようかと言うことと、今日一日のスケジュール。そして、このまま自宅を出ていいのかどうかすら危うい状況なのだと言うことも。


「……」


 起きた後、自分の声が出ないことに気がついた。何度口を開いて声を出そうにも、出てくるのはガラスが擦れたような酷い掠れ声。どうして今日に限ってなのかと、色々なものを悔やんだ。

 鏡で喉を見てみると、真っ赤に腫れている。扁桃腺がやられたのか、耳下から首筋にかけて痛みがあり熱っぽく、頭がぼんやりしていた。

 一昨日の夕方あたりから妙に身体が重く、喉の痛みがあり風邪薬を飲んでいた。昼にファミレスに行った時、咳をしている客が周りにいて、用心のため退店後にマスクをしていたがささやかな抵抗でしかなかったようだ。早く帰宅し夕飯を食べ、大事を取り風呂に入らず早く寝たつもりでいたが、それでも駄目だったらしい。

 出勤までにはまだ猶予があり、ひとまずメールを入れて音無に連絡する。朝から声が出ないことと仕事を休むこと、それからインターンの進行を任せきりになってしまうであろうことを詫びる。

 時計はまだ朝五時を指したばかりで、普段なら寝ている筈の時間だ。しかし程なくして、スマートフォンから着信音が鳴った。それもメールではなく、電話の着信だ。画面表示は音無からだと告げており、通話ボタンを押してスピーカーにする。早起きにしては早すぎる。どうやら起こしてしまったようで、申し訳なくなった。

『…桐生さん?大丈夫ですか?声出さないでいいんで、通話口を2回叩いてください』

 いつもと変わらない音無の声だった。言われた通り、マイクの辺りを2回叩く。スピーカー越しにおねこ様の鳴き声が聞こえる。もしかして彼も心配してくれているのだろうか。

『仕事の方は、俺に任せてください。いざって時はヘルプ頼みますし、桐生さんは絶対無理しないで。…っておねこも言ってます』

『んにゃ』

 思わず笑いそうになり、引き攣った喉が痛む。美影とおねこ様の言うとおりにしておこう。

「……ん」

『あと、何か食べたいものありますか?すぐにメールしてくださいね!いったん切るんで、失礼します』

 まるであの日とは逆だと思いながら、言われた通り通話を切って再びメールを送る。当たり障りなく、喉を通るものと考えてうどんか雑炊と入力した。熱の所為か意識が朦朧としてきたのでベッドに横になろうとした瞬間、なんで彼がわざわざ今食べたいものを?と疑問に思う。まさかとは思うが今から来るんじゃないよな、とありえない予想を頭から追い払った。音無の自宅からここまで、電車を乗り継ぎ一時間は掛かる。しかも始発の電車はまだ出ていない時間帯だ。

 それにおれの部屋の合鍵は渡してあるものの、それが使われたことは今まで一度もなかった。きっと遠慮しているのだろうと思う。天井を見上げているとぐるぐる回るように見えてきて、本格的に不味い事になったとぼんやりする意識を引き摺り目を瞑る。


 大事な日に体調管理ができていないなんて、不甲斐ないにも程がある。音無にもさぞかし呆れられただろう。上司なのに、口先ばかりの奴だと。

 思えば今まで上司らしいことができていたのかと思うと、そうではなかったような気がしてしまい途端に泣きたくなってきた。異動して初めてできた部下であり後輩、そして……。

「──さん───」

 幻聴まで聞こえてきて、振り払うように頭を動かした。額が急に冷たく感じ、拭おうと手を伸ばす。

 そしてその手を、温かい手のひらに握られたのが分かった。

「桐生さん」

「……?」

 はっきりと聞こえる声に目を開けると、音無の顔が間近に見える。まぼろしじゃなく、本人だ。

「…おと…」

「うわぁ、ホントに酷い声ですね…食べられそうなものと、水分補給出来る飲み物持ってきましたから無理に喋らないでくださいよ?」

「??」

 何でおまえがここにいる、と言おうとしたのに言葉が出ず、もどかしい。スウェット姿で息を切らし、おれの顔を覗き込んで前髪を掻き分け、おれの顔色を伺っているようだった。

「なんで、って言いたげな顔してますね。実は急いでアパートを出ようとしたら、オーナーから声かけられて…うちの自転車使いなよと。スマホのナビ見て線路沿いに全速力で走らせたら、案外早かったんです」

 あのアパートのオーナーに感謝する。そして二人に対し申し訳なさでいっぱいになる。道理で早かった訳だ。始発電車はまだ出ないし、タクシーで来ようとしてもすごい額になってしまうだろう。今度内見に行く時、菓子折を持っていこうと決めた。

「…わるい」

「いいんですよ。俺も風邪ひいた時いっぱい助けられましたし、光さんの声が聞けなくて心配で…無我夢中でした」

 大袈裟な奴、と言いかけて口を噤む。自分が音無と同じ立場になり、どうしたのか思い出して何も言えなくなった。そして今は喋らない方がいいと直感で止める。どうやら粘膜を傷つけ出血したらしく、口の中に僅かに鉄の味がした。

 枕から頭を動かせず、ただ美影の顔に指先で触れることしか方法がない。喋ることができない状況をこんなにももどかしいと思ったことは、今まで生きてきた中で一度もなかった。仕事の詳細はメールする、とジェスチャーで伝えたのに、何を思ったのか音無は急におれの顔に両手を添えて、顔中のそこかしこにキスをしてくる。

「んっ、な、なっ…」

「任せて、って言ったでしょ?光さんはひとまず朝ごはんを食べたら、薬を飲んで下さい。あと、ちゃんとタクシーで病院行ってくださいね?今はネットで配車できますから。台所、借りますよ」

 買い物袋の中から薬やら何やらを取り出した後、忙しなくキッチンに向かう。何かをし始めたらしく、包丁で何かを切る音とガスコンロの点火音がした。冷蔵庫に何かを入れたり、何かに液体を注いでいるような音もする。動作音が聞こえるだけで、彼が何をしているのかは殆ど分からない。規則的な音が耳に心地よく響き、それと同時に醤油や出汁の匂いがしてきて、なんとなく懐かしくなった。

「あちっ…こんな感じで良いのかな。光さん、起きれますか?」

「……ん」

 ベッドから起き上がり、ふらつく足取りでリビングに向かう。ダイニングテーブルに座ると気がつけばテーブルの上には、アルミ鍋に入った鍋焼きうどんができていた。懐かしい匂いだと感じたのは、傍に置いてある刻んだ柚子の皮のようだ。

「これ、…」

「俺、そんなに料理しないからどうしようかと思って…これなら必要な材料揃っていますし、味は保証できます!それにさっぱりした生姜と柑橘系の皮を添えたら、喉にもいいんじゃないかなぁと」

 音無は少し照れながらそう言うと、取り皿に1口うどんをよそって柚子の皮を添え、おれの口元に持ってきた。

「はい、あーん」

「あ」

 口を開くとあたたかいうどんと、柚子の爽やかな香りが鼻腔を掠める。うどんは少し濃い味付けのような気もしたが、じんわりと染み入るように美味い。

「ちゃんと料理して誰かに食べて貰うのは、多分…初めてで」

「うん」

「最初はパウチのお粥にしようと思ったんですけど、手料理なら…きっと光さんも元気出るかなって。どうですか?」

「うまい」

 ただそう頷くことしかできなかった。実家で風を引いた時に出て来た懐かしい味に、思わず目を細める。美影のこの気持が、とても嬉しくなった。満面の笑みを浮かべる美影から箸とれんげを受け取り、また一口と口に運ぶ。刻みネギに刻んだ油揚げ、薄切りの蒲鉾に薬味は柚子の皮とおろし生姜。具材はシンプルながらも身体の中心から温まる。心なしか喋りにくさも軽減されたようで、途切れ途切れにはなるが声が出るようになってきた。

「みかげ、ありがとう。助かった」

「っ…!そ、その言葉はまだ早いですからね?今日のインターン、ちゃんとやりきれたら報告しに来ますから。…褒めるのはその時にしてくださいよ」

「うん」

 誰かの優しさにここまで救われるなんて、随分と久しぶりのような気がする。まさか早朝から来てくれるなんて思わなくて、美影の行動力には毎度驚かされるばかりだ。

 おれが食事を終え、薬を飲んだ後に「汗、拭きましょう」と言っておれの背中をぬるま湯で絞ったタオルで拭いてくれた。本当にあの日の恩返しらしい。首筋から背中にかけて拭かれるとぞわぞわと鳥肌が立ち、掠れた息が漏れてしまう。確か、あの時はこの後…と思い出して冷静になる。おれは仕事に行き、玄関で美影と別れた。ただ、それだけのことだ。

「もーっ…それ、反則ですって」

「おまえのせいだろ」

「えぇ?俺に散々掻き回されて、締め付けてくる光さんが悪いんですよ」

 くすくすと笑みを漏らしながら拭き終えた身体を乾いたタオルで二度拭きし、新しい下着を取ってくれた。着替えると随分さっぱりして、朝よりも幾分か楽になっていることに気づく。

「…みか、時間は大丈夫か」

「あっ!もう七時だ…それじゃ、俺はもう行きますね。自転車返してから仕事行かなきゃ」

「ああ。気をつけて」

 玄関まで向かう美影を見送り、彼の左手を手に取ってぴかぴかと輝いている薬指の指輪に口付ける。風邪を移すわけにはいかないので、唇に振れるのを我慢しつつも「行ってらっしゃいのキス」をした。

「っ…!きりゅ、さ」

「ん?」

「…風邪直ったら、覚悟してくださいよ!」

「っ!」

 玄関の扉を押し開け、外に出る美影に手を振る。扉が閉まり、廊下を歩いていく足音が消えるまでその場に立っていた。

「…馬鹿…余計熱上がるだろうが」

 恥かしさで火照る額を玄関の扉に押し当て、一息つくと再びベッドに戻る。眩暈はだいぶ良くなったようで、布団に潜り込み眼を瞑るとすぐに意識が遠のいていった。

 あいつならきっと大丈夫。そんな確信を握り締めて。


×   ×   ×


 来た道を再び自転車で戻り、息をきらしてアパートに到着する。自転車を駐輪場に止めて鍵を掛け、オーナーの部屋のポストに自転車の鍵を入れてすぐさま自分の部屋に戻った。

 今日の仕事はひとりでうまく行くかは分からない、けれど成功させないと今後のスケジュールに支障が出てしまう。俺は気合を入れておねこを撫で回し、怪訝そうにこちらを見る愛猫の匂いを思い切り吸い込んで、仕事に向かう身支度をした。洗顔、歯磨き、スーツに着替えて髪型をある程度整える。スマホの充電をチェックし、仕事鞄を持ち上げて冷凍庫を開く。光さんが以前焼いてくれた、自然解凍で食べられるひとくちケーキを冷凍庫から出して鞄に入れた。これで準備万端だ。

 おねこは俺を見上げ、構ってほしそうに尻尾をフリフリと振った。その仕草は実にかわいいものの、今は少し我慢してもらう。俺はほんとうに、こいつと桐生さんがいないとダメらしい。でもそれは心の拠り所というか、護るべきものと言った方がふさわしいのだろう。

「よしよし、帰ってきたらいっぱい遊ぼうな」

 軽く頭を撫で、もっとかまっていたい衝動を抑えて玄関に向かう。

 靴を履いていると、背後からおねこがゆっくりとこちらにやってくる足音が聞こえた。立ち上がり、おすまし座りしているおねこに話しかける。

「…おねこ、今日のインターン成功するよな?」

「んにゃっ!」

 おねこがしっぽを縦に2回叩いた。これは『YES』のサインだ。

 それならもう、間違いないと確信を持って挑むことにした。

「よし。行ってきます」

「にゃっ」

 大丈夫。うまくいく。そう自分に言い聞かして会社までの道を歩き出した。

 全部、おねこ様の言うとおり。


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