「おはようございます!音無です」
「はい、おはようございます。音無おねこちゃんですね」
「そうです。迎えに来ました」
「んにゃーっ!」
動物病院の入口に入るなり、音無が来たと分かったらしいおねこの鳴き声が聞こえた。どうやら元気そうだと分かれば、音無も安心したようにホッとした表情を浮かべる。桐生は外で待とうとしたが音無に押し切られ、待合室のソファで待つことにした。音無はカウンターでおねこの入ったキャリーケースを受け取り、入口の網目からキャリーケースの中を覗き込む。
「おねこ、おつかれさま」
「ンッ」
おねこは耳を伏せ目を丸くして、音無の顔をじっと見ていた。久方ぶりに見た飼い主にやや警戒しているようで、音無は苦笑いして受付の事務員に向き直る。
「おねこ、大人しくしてました?」
「ええ。手術後も落ち着いてくれて、助かりました…。受付の時にお会計は済んでいますので、今日はそのままお帰りください」
「ありがとうございました!それじゃ、帰ろうな。今日はキリオおにいさんもお迎えに来たよ」
「っ…まったく…」
ソファから立ち上がり、早足で音無の隣に並びおねこのキャリーケースに向かって跪く。おねこは目の前に桐生の顔が近づくと網目から鼻先を出し、桐生の鼻先にチョンとくっつけた。
「…⁉⁉」
「おねこ様…そ、そんな…」
悶絶しそうな桐生を他所に、おねこはキョトンと首を傾げた。次いで音無を見上げ、大きく口を開けて欠伸する。音無はムッとしつつ桐生の尻を軽く叩いた。
「…ほら、帰りますよ」
動物病院の事務員が微笑ましく見送って、ふたりと一匹はその場を後にした。
× × ×
目の前で起きたことが信じられず、面食らうというのはこういうことなのだろうと実感してしまう。おねこ様に…なんと言うことだ…鼻キスされて冷静でいられる訳が無い。呆然とするおれとは裏腹に音無は横に並び、なんとなく不機嫌そうに歩いていた。
「……桐生さんは俺のだからな」
「ニャッ」
「あんだよ」
会話しているひとりと一匹を見遣り、今の状況は彼らの間に板挟みになっているらしいとようやく理解する。しかし音無もおねこ様も同じように、おれにとって大切な存在だ。音無は恋人、そして部下として。おねこ様は音無の飼い猫と言うこともあるが、音無と同様におれにもなついてくれて凄く嬉しい存在だ。今まで猫好きでいたが同居できたことはなく、ずっと音無が羨ましいと思っていた。キャリーケースの取っ手をおれと音無で片手ずつ持ち上げ、音無の部屋へ向かう家路を歩く。ケースを置いたり持ち上げたりとキャリーケースにアクションを加えるのは音無に任せた。
「桐生さん、照れてます?」
「そりゃあそうもなるだろ。おねこ様からの…ちゅ…ちゅ……」
「ちゅうじゃなくて鼻キスですからね!」
「ふふっ…ムキになるなよ。おまえのほうがおねこ様とイチャイチャしてるじゃないか」
「それがそうとも……あ、パン買うの任せていいですか?おねこは店の中、入れないから…」
「ああ、分かった。なら、適当に買うからな」
目当ての店の前に着くと、一人で店内に入る。オフィス街の真ん中にあるそのパン屋は、安くてうまい大好きなメニューが並んでいるパン屋だった。しかし平日の昼時になると、激混みで入れた試しがない。入れても大抵のパンは売り切れで、最後のひとつを奪い合う…なんてこともあるくらいだ。
土曜日の朝とあれば多少は空いていると思い、店内を見渡す。確かに客の数は少ないが、出ているパンの種類も普段より少し減っていた。
「いらっしゃいませ!」
「あの、たらこチーズと野沢菜パンは…」
「もう少しで焼き上がりになります!少々お待ちくださいね」
ふわりと漂う香ばしい匂いに、思わず足が止まってしまう。既にテーブルの上へ出されているものの中から、何も入っていないコッペパンふたつと塩バターパン、チョコクリームパンを取った。お目当てのたらこチーズと野沢菜パンは焼きたてを食べられるとあり、出てくるのが待ち遠しい。
「お待たせしました!葱の味噌漬けパンと野沢菜パンが焼きたてでーす」
「焼きたてでーす!」
運ばれてきた大きな鉄板から野沢菜パンをふたつ取る。続いてたらこチーズらしきパンが陳列され出し、確認すればやはりそうだった。柔らかい生地のパンに切込みを入れてたらことマッシュポテトを混ぜたフィリングを詰め、切り口にチーズをふんだんに掛けて蓋をするように焼かれた逸品だ。この店ではかなり人気のある商品だった。
これさえあれば紅茶もしくは珈琲を淹れて、朝食メニューが完成する。思いつきで寄ってみて正解だった。
会計を済ませ、店を出るとちょっとした人だかりができていた。その場所は音無が待っている筈の場所だ。
「…美影、どうした?」
嫌な予感がして近づくと、おねこ様のキャリーを抱えた音無が見知らぬ女性客たちと談笑していた。奴はこちらに気づくなり手を振って「ひかるさん!」とおれの名を呼び笑顔を振り撒いている。
「……随分待たせたな」
「いえいえ!それじゃ、帰りましょう」
その場から立ち上がり、音無は片手にキャリーを持ち替え囲んでいた女性客たちに軽く手を振って歩き出した。少し心の中にモヤモヤとした澱が生まれるのを感じつつ、それが何故なのか分からないまま隣に並ぶ。
「それにしても桐生さん、随分と時間かかりましたね?」
「目当てのパンが並ぶのを待っていた…すまん」
「いえいえ!楽しみにしてます!…ところで、」
「ん?」
「何か俺に聞くことないんですか?」
じっとこちらを見ている音無の目は、何か聞いて欲しそうでいて、何故かしきりに泳いでいる。気のせいだと思いつつ、意を決して問い掛けた。
「…おまえ、女の人にモテるんだな」
「そこーっ⁉」
キャリーケースから不服そうなおねこ様の声が聞こえた。もしかしてモテていたのはおねこ様なのか?どちらにせよ、彼らはおれの大事な存在なのに…と薄暗い感情を抱いてしまいそうになる。
「じゃあ...あの人たちと話してる俺については?」
「待たせて済まなかった、という気持と…そうだな」
片手にぶら提げた買い物袋を無意識に手繰り寄せ、自分の顔を隠したいばかりに持ち上げた。子供染みてると自覚しているが、今この顔を音無に見られたくはない。こんなことで…妬いているなんて恥ずかしい気持ちの方が勝っているから。
「……ちょっとだけ…寂しかったと言うか…遠くに感じたと言うか」
「…っ!あぁ~もうっ可愛い!ほら、帰りますよ!」
「にゃっ!」
おれの空いた片手が音無に握られると、容赦なく引っ張られ奴の隣に並ぶ。繋がれた手は離れることなく、そのままだ。
じんわりと熱が籠る手のひらの温度を感じながら、おれたちは家路を急いだ。