桐生さんと同じ部屋に引っ越しを計画しているのは、比較的空いていそうな来年の2月末。それまでにいろいろやることが多すぎて、スケジュール帳はびっしりと予定が入るようになった。
仕事関係で重要なのは冬のインターン、それから外部の説明会参加。少しずつ社外に出ることも増えてきて、その分充実しているとは言えど慣れない仕事にぐったりする日も多い。桐生さんと共有する時間も、以前に増して短くなっている。
それでもクリスマスと年末の予定はちゃんと開けていた。今年のクリスマスは来週の月曜日、つまりは仕事のある平日ではあるけれど、逆に考えるならばクリスマス・イブは日曜日だ。日曜日にはスイーツバイキングの予定があり、それ以外に買い物へ行くことだってできるし、それこそ…月曜日に有給を取ったから、のんびり過ごすというのもアリだ。今日は金曜日で、あと半日過ぎたらついに週末…。楽しみすぎて落ち着かなくなる。
とは言いつつも公私混同してはいけない、というのが桐生さんの口癖でもあった。
「マンションの内見、そろそろ行きたいなぁ」
オーナーに一言事前に言っているとはいえ、突然押し掛けるのは迷惑になってしまうだろう。二人で予定を合わせ、そろそろ下見に行っておきたいと思っていた。
「…音無さん」
「わっ!」
誰もいない休憩スペースでソファに身を沈めていたら、柱の影から急に桐生さんが現れた。最近の昼休みはバラバラで取っているため、一緒になれるのは稀だ。
「…桐生さん、どうしたんですか?」
「メール、読んでおいてください」
「えっ」
「それでは、これで…」
そそくさとその場を立ち去ろうとする桐生さんの手を握り、ぐいと引き寄せて顔を近づける。食い入るように見つめると桐生さんが視線を逸らし、小声でやめろ、と制止した。それでも耳の先まで赤く染まっている。
「…本当はやめてほしくないんでしょう?」
「…ここ、会社なんだぞ…」
「知ってますよ」
立ち上がってそのまま桐生さんを備品倉庫に連れて行く。心臓が破裂するんじゃないかと思うくらい、ドコドコ鳴っている。二人で入るなり内鍵を掛けて、ようやくふたりきりの空間に閉じ込めた。
「……おい、みか」
言い切る前に桐生さんの背中を壁に縫い留め、爪先立ちで唇を塞ぐ。暫く我慢していたとは言え、許されない行為だということは頭の中で分かっている。それでもほんの少しだけ、光さんに触れていたかった。背徳感と罪悪感でぐちゃぐちゃになりながら、光さんの背中に両手を回す。
「ンぅ…やっ…」
「はぁっ…だって…暫く触ってなかったから」
「おまえなぁっ、盛りのついた学生じゃあるまいし…!」
光さんは顔を真っ赤にして俺を見下ろしている。それでも本気で怒ってないことくらいは、すぐに分かった。伊達に何年も部下と恋人をやっていない。…恋人、は一年未満だけど。
「…だからメール見ろって言っただろ」
「そう言えば、何の話なんですか」
言われて冷静になり、ポケットからスマホを取り出す。目の前にいる恋人から送られてきたメールには、今日の夜俺の部屋に行きたいと書かれていた。
「…!」
「我慢してるの、自分だけだと思ったら大間違いだからな…!」
小声で囁かれ、背筋がぞわっと総毛立つ。こんな風に光さんに囁かれるのが堪らなく好きで、身体が勝手に反応してしまうのを辛うじて理性で抑える。
「光さん、それは卑怯だよ…」
変な笑いが込み上げてくるのを必死に堪えた。午後の仕事がちゃんと手に着くのかも既に怪しくなっている。
「あと半日、耐えとけ。そしたらご褒美持っておまえの部屋に行くから」
彼が俺の部屋に来ること自体、ご褒美のようなものなのに。そんなことを言われたら嫌でも期待してしまう。
「へへっ…楽しみにしてますからね?」
昼休みが終了したことを告げるチャイムと同時に、もう一度桐生さんの唇に噛みつくようなキスをした。
× × ×
長いようでいて瞬く間の昼休みを終え、別々に備品倉庫から出て再び居室に戻る。
音無が容赦なく噛みついて来るから、席に着く前に男子トイレへ行って鏡で自分の顔を見た。少しだけ唇が切れて鬱血しているが、何とか誤魔化せる範囲だ。
「まったく…容赦ないな」
ぽつりと零し、水道の蛇口を捻って冷たい水に両手を浸す。まだ汗ばんでいる手の平を冷やし、午後の執務に支障ないよう心も沈めた。
おれも美影も本当に忙しくて、碌に二人の時間を取れていない。たまに仕事の後で会いに行っても、夕飯を摂りすぐ風呂に入って泥のように眠っている。週末は休みのタイミングがずれるようになり、ともすれば擦れ違っても可笑しくない時間ばかりが過ぎていく。
部署異動が決まっている以上、おれが音無に教えてやれることは時間の限り何だって教えてやりたい。それでも日々の業務に合わせている以上、引き継ぎの時間を余計に取れないのが現実だった。仕事だけじゃないことだって…。
「桐生係長、唇どうしたんですか」
「…食事の時に切ってしまって」
「ひぇ、痛そう…お大事に」
トイレで擦れ違った他部署の職員が心配そうにおれの顔を見ていた。先日といい、そろそろ注意しないと奴は本当に首筋へ痕を残し兼ねない。
深呼吸しトイレのドアを開ける。自分の席に戻っていつもと変わらない素知らぬ顔で仕事を再開する。
「桐生さん、あの件ですけど」
まるで先程まで何事もなかったかのように、音無が印刷したコピー用紙を持ってきた。若干腹立たしくなりつつも、自分に冷静でいるように言い聞かせる。
冬のインターンシップまで残り僅かな期間、少しでも学生に興味を持って貰いたい。その為に採用サイトの見出しになる、キャッチフレーズを考えていた。
「もう少し、大胆な文言の方がインパクトありませんか?」
「例えば?」
「…大事なモノを掴むなら今、とか…好きなことに忠実であれ、とか」
音無の口から出て来た文言は、学生向けのメッセージとは思えないくらい直球過ぎだった。思わず吹き出しそうになる。
「あっ、それから…クリスマスも近い事ですし、自分にご褒美、とかプレゼント!とか」
「それは無理があるでしょう…季節性を意識するのは悪くないですが」
クリスマス。
暫くぶりに聞くその単語に、少しだけ浮き足立ってしまいそうだ。
今年は彼と一緒なのだと思えば、多少無理してでも構わないと思った。キッチリ日常業務を終わらせ、なるべく早く資料に手をつけたい。月曜日の休暇は既に取っている。
「…学生たちよ、大志を抱け…とか…」
「今年最後の採用イベントだから、それだと分かりづらいな…。キャッチフレーズは後で考えよう。その代わり、パンフの文面を考えてくれ」
「はい!」
威勢の良い返事に僅かに笑ってしまい、周りにいる職員たちが少しざわめいた。そんなに煩くはしていない筈なのに、何でだ。
「……ホント、無自覚なんだからなぁ」
「何がですか?」
呆れるように音無が肩を竦める。その答えは後で聞くことにしよう。
定時まであと三時間と四十分。その間に終わらせたい仕事の書類に、手を伸ばした。
× × ×
「……では、月曜日よろしくお願いいたします」
「係長が音無くんと同じ日にお休みなんて、偶然ですね」
「そうなんですよー!まぁ、急ぎの仕事は終わったので…」
終業のチャイムと同時に席を立ち、時間差を僅かにつけ音無の住むマンションに向かう。自宅から持ってきた手作りの惣菜を詰めたコンテナを三個、共同の冷凍庫から取り出し保冷バッグに入れ、桐生はそそくさと居室を後にした。道中、立ち寄ったコンビニでカラーコンタクトを外し、自宅用の眼鏡に掛け替える。
既に通い慣れた音無の部屋に入るなり、玄関で待ち構えていた部屋の主が桐生を抱き寄せる。首筋から顔に掛けて多数の口付けを落とされると、桐生は苦笑いしながら室内に足を踏み入れた。
「これ、土産」
「ありがとうございます…!やった、牛丼だ…!これは…ビーフシチュー?あとは…ロールキャベツだ…!」
「忙しくてもちゃんと食事しろよ?」
「ふふ…わかってますよ。桐生さんのごはん、美味しくて大好きなんだもん」
音無が桐生からコンテナを受け取り冷凍庫に入れている間に、桐生が上着を脱いでソファに折り畳んで置いている。そして辺りを見渡しているのが、音無の背後からの気配で分かる。お目当ての探しものが分かりやすい男だ。
「おねこなら、去勢手術しに動物病院に一泊だけ入院してます。明日の午前中、迎えに行くんですよ」
「そうなのか…」
桐生が少しガッカリしている様子を見せると、音無が桐生の身体に抱きついて上目遣いで見上げ、悲しんでいるような声を漏らした。
「…俺じゃ、やだ?」
唐突な甘え方に桐生は笑いを漏らし、音無の顎を指先で摘んで持ち上げ鼻先で囁く。
「……そんな訳ないだろ」
桐生の淡い色の瞳が、獣のような眼光を放つ。音無は恥じらう乙女のように両手を口元に当て、歓声を上げた。
「うわーっ!イケメンすぎる!!ひかるさん!俺を今すぐ抱いて!」
「なんだよ…おまえが抱かれる方なのか?」
ワイシャツのネクタイを緩めながら音無をベッドに連れていき、柔らかいマットレスに押し倒すような体勢で覆い被さる。
その勢いのまま音無の唇を啄むように奪い、吸っては離して目が合うと不敵に微笑んだ。昼休みは不意を突かれたが、この場では誰かに見られる心配も隠す必要もなく桐生の独壇場である。
「なら、奥の奥で抱いてやろうか」
身体の何処かで、互いに理性のスイッチが切れる音がした。
× × ×
音無がベッドのサイドテーブルに手を伸ばし、引き出しから避妊具を取り出す。震える手で容器の蓋を剥がし、中から薄い皮膜を取り出すと自身の剛直に被せた。
荒い息遣いと、か細い声が断続的に室内で響き渡る。時折聞こえるのは肌を打ち付けている音と、肌を吸う唇の音だ。
着ているものを全て脱ぎ捨て、あられもない素肌を剥き出しにしたまま向き合っていた。
「ひかるさん、締まりすぎっ…!」
「ちがっ、や……んん…」
「ふふ、何言ってるのかよく分からないですよ」
音無が桐生の腰を両手で掴み、思い切り引き寄せると締め付けが強くなった。奥まで到達するのに抵抗されているような気がして、ややムキになりながらも抽挿を繰り返す。音無はそのまま何度も腰を打ち付けて、桐生の意識がいっそ飛んでしまうまで抱いてやりたいと思っていた。しかし彼を労りたい気持ちと拮抗して、どうしても力をセーブしてしまう。
音無に身体を預ける桐生と彼に向かい合った音無は、お互いに余裕があるような口ぶりだが実際余裕などというものは皆無だった。少しでも気を抜けば快楽に飲み込まれてしまい、意識朦朧としたまま求めてしまうであろうことは安易に理解できる。暫くぶりの恋人を堪能し、互いのことしか目に入っていないかのようだ。
「ふふ…いつまでも俺に絡みついて離れないじゃないですか…スケベすぎる身体ですね?」
「んっ…テンプレみたいな煽り文句だな?もっと捻らないと、臨場感が…っ…出て来ないぞ?」
「まぁた強がって!でも光さんのそんなとこが可愛いんだけどね」
「っ…!」
卑猥な水音を撒き散らしながら桐生の腰から背中に手を這わせ、目の前にあるやや肥大してしまった乳首に喰らい付く。歯を立てないように舌先で乳輪をなぞり、隆起する毛穴のひとつひとつをくすぐるように愛撫する。桐生の背筋がぞわぞわと総毛立ち、腰をしならせて音無のまだ衰えない剛直を強く締め付けた。
「うわ、きっつ…!俺の俺が喰いぎられそう…」
「くっ…ふふ…今のは60点だな……」
「もうっ…!どうやったら100点採れるんですか?キリオ先生」
「それは自分で考えてみな」
まるで教師と生徒のような問答の後、何か悪戯を思いついたかのような顔つきになり、音無がニヤリと悪だくみしている表情を浮かべ、桐生の耳元に唇を寄せた。
「『…先生、僕、もう我慢できないよ…』」
「え…んなっ…何を…、まさか」
「『約束したでしょ、先生…僕がおっきくなったら、いっぱい気持ちいいことできるようになるって』」
「や、やめろ…っ…何で一言一句憶えてるんだよ…!」
「『ベロニカ先生の中、あったかい…』…ほらぁ…次は先生の番ですよ」
「っ…!そんなの、言える訳…っ…」
「『ルカ、君は…随分と、おおきくなったな』」
「やめろぉっ…!んうっ、あぁぁっ…」
桐生は顔を真っ赤にして抵抗するも、虚しく空振りに終わる。桐生が生田キリオとして作家活動をしていた頃、自費出版の書籍として出した『ルカとベロニカ』というボーイズラブ小説の一節だった。寄宿学校を舞台にした生徒と教師の淡い禁断の愛を描いた三部作として発行され、物語の後半で生徒のルカが教師のベロニカにただならぬ想いを打ち明けるシーンだ。まさか暗唱できるまで読み込んでいるとは思わず、桐生は自分の手元にあった自著の同人誌を渡して良かったのか悪かったのか分からなくなってしまった。
「俺の中で100点のやりとりはキリオ先生の小説ですからね?はぁ、ゾクゾクする…ふっ…やば、出そう…」
「こんなの恥ずかしすぎるだろ……その…ご、ご愛読ありがとうございます…?」
「ははっ…光さんほんとかわいい。『ずっと我慢してた先生に、ご褒美あげるね…!』」
「うぅっ…!いっ…あぁぁ!」
ひとしきり大きく腰を揺らすと桐生の最奥の扉が開かれ、音無の剛直がその先へと侵入し薄い皮膜の中で白濁をぶちまけた。目の前が明滅し強烈な絶頂を迎え、桐生自身も足の指先でシーツを掴み、音無の引き締まった腹に吐精する。
「光さん…えっろぉ…」
「……『…こんな身体にしたのは君じゃないか…』」
「あ~っ!最高…!俺もう光さんと暮らす…!」
「何馬鹿な事言ってるんだ…これから…一緒に住むんだろ」
恍惚とした笑みを浮かべ、汗ばむ音無の背中に指先を食い込ませ、強く抱きしめて乾いた口を潤すようにキスをねだる。ひとつになり、また別れて絡み合う舌と唇は何度も重なり合った。
「…このまま、クリスマスまで一緒にいたいです」
「うん…おまえとおねこ様が望むなら」
長い長い夜は、まだ始まったばかりだ。