恋人と同棲。所詮、夢のような話だと思っていた。
末永く添い遂げたい人と、ひとつ屋根の下で暮らすこと。今まで恋愛に関してからきし玉砕していた俺が、まさか年上の恋人とそうなるなんて。殆ど別れを切り出されたに等しい告白から、俺の夢が現実になろうとしている。
「…それ...本気、ですか」
嗚咽を堪えようとしているのに、無理だった。涙が後から後から零れ出て、とめどなく溢れてしまう。いっそのこと、別れたいと言われた方が楽だと思っていたのに。
一緒に住もう、と言い出した唐突な光さんの言葉は斜め上過ぎて、すぐに返事を出せないでいる。掛け布団で涙を拭い、振り返ろうとしたら背中にあったかいものが触れた。光さんの身体だ。両腕を俺の腰に回して、強く抱き締めてくれる心地よさに目を瞑る。
「おまえに嘘を言う訳、ないだろ。ほんとは、落ち着いて話をしないと駄目だと思った」
「...うん…」
「例え職場が離れても、おまえから別れを切り出されるまでは…美影とずっと一緒に居たい」
「……俺が大好きな桐生さんを手離すと思います…?落とし物の原稿用紙を拾った挙句に連絡先書いたメモまで貼って、走って行ったのに」
「ふふ…そう言えばそうだったな」
「あの時は無我夢中で、頭の中がもしかして本当にキリオ先生なのかなってことで埋め尽くされてたから…まさかこんな深い仲にまで進展するなんて、思ってもいなかったですけどね」
腹に感じる桐生さんの手を握り、大きくてごつい手の甲を撫でる。この大きな手で撫でられるとどうにもくすぐったくて、思わず泣き笑いのヘンな顔になりそうだった。
「光さん」
「ん?」
「部屋とか、目ぼしつけてます?引っ越すのはいつぐらい?」
「おねこ様がいるから、ペット可マンションなのは確定だな。それにおねこ様を兄弟と引き離すのも忍びない気はする…引っ越し時期は異動の辞令が正式に出てから、と思っていた」
「そうなると引っ越すのは、来年になりそうですね..。ここらへんのペットマンション、他にも探してみたんですけど何処も家賃高いですよ。今住んでるここの二倍くらい掛かりますし、空き部屋もあるかどうか…」
「それに正直…それまで待てない」
「!」
そんな台詞、ずる過ぎる。今、光さんがどんな顔で話しているのかとても気になって背後を振り返ろうとした。俺が寝返りを打とうとすれば、背面に光さんが密着して身動きが取れない。
「…ひかるさん、顔見せて。離れないとそっち向けませんよ」
「や…今は…見ないでくれ」
「えー?じゃないとできないから、キス」
「……」
葛藤している光さんが安易に想像できてしまって、可愛すぎてにやにやする。今は可哀想だけど、両手の甲を少しだけ軽く摘まんだ。渋々、といった様子で手を離したから、俺は速攻で背後を振り返る。そして、ずっと考えていたことを口に出してみる。
「…なら、俺の部屋に住みます?ひかるさんの荷物運ぶには、少し狭いですけど…」
「ああ…その…美影がよければ、俺がここに引っ越すのもアリかとは思っている」
「あっ、そう言えば…このアパート、一部屋だけ空き部屋あるんですよ」
「空き部屋?」
「そう…ラブホ時代の名残と言うか、今まで借り手がつかない部屋がありまして」
その部屋は、俺が住んでいる部屋と同じ階にあった。3LDKのその部屋は、広すぎて単身者には向いておらず、かと言って家族連れが住むような場所でもない為借り手がつかずにずっと空き部屋のままだ。男女のカップルが住むにはかなり勇気がいる、所謂VIPルームと言うやつだった。家賃もそれなりに高い分、設備はここよりも確実に良かった気がする。
「…なら、そこで決まりだな」
「いいんですか?入って後悔するかも…」
「なんでだ」
「ふふ…。それは内見してからのお楽しみにしておきましょ?」
夢にまで見た二人暮らしができると思えば、まぁ...あの内装でも、俺は構わないけれど。
光さんがあの部屋の内装を見たときの驚く顔を想像しつつ、とうとう我慢できなくなった俺は光さんの唇に噛みつくようなキスをした。
× × ×
「…桐生係長、唇どうしたんですか?紅い痣できてますけど…」
「え?あぁ…実は…猫に、噛まれまして」
翌日。
東栄商事の人事部居室は、少しだけ閑散としていた。
桐生がパソコンで業務のタスク管理をしている中、音無の姿は見当たらない。この日急遽、地元にある東都大学への訪問が決まり、大学のOBである人事部の音無・営業部の髙野両名が向かっていた。他にも打ち合わせや会議が重なり、普段なら二十名程所属している人事部のブースには片手で足りる人数しか在席していない。桐生はその間、冬のインターンシップ参加申し込みの為に学生が登録する、就職サイトへ掲載する原稿を確認していた。若者が働きやすい職場、魅力的な職場であることをどう伝えるべきか。言葉選びや制限文字数、サイトの特色などを踏まえて文章を考える必要があり、ノートや過去の掲載記事とにらめっこしていた。
そして集中している矢先、唐突に掛けられた声にびくんと肩が震えてしまう。平日の夜は控えろと言っていたのに、音無は容赦なく痕跡を残してしまったようだ。今朝鏡で見たときは、そこまで酷くなかった筈だった。
「猫…?係長、猫飼っていらしたんですか?」
「ええ、…そんなものです。これから一緒に住もうかと」
ふ、と桐生の口元が弧を描く。一瞬だけ、フロア内がシンと静まる。まさかあの「無愛想」「無口」「無表情」のスリーカードを揃えている桐生光が、優しく微笑む日が来るなどとは思ってもいなかった。桐生の真正面を見ていた女性社員は頬を紅く染め、そのまま会釈して自分の席に小走りで戻って行った。
(…いま、何かヘンな事を言ったか…?)
不思議に思いつつも、音無に着けられたその痕を無意識のうちになぞった。