「…え?」
頭の中が真っ白になって、ようやく絞り出せたのはその一言だけだった。
桐生さんが俺の前から居なくなる。そりゃあいつかは異動する日が来るだろうとは思ったけれど、まさかそれが来年の春…あと半年もしないうちに訪れるなんて、考えてもみなかった。
「…なんで、ですか」
「おれは人事部に来て、来年で四年目になる。これまでの経験を活かして製造に異動してはどうかと…早い話が、引き抜かれたってことだ」
「俺と仕事するのが、嫌とかじゃ…」
「それは断じて違う。本当はもっと、おまえが一人前になるまで育てたかったが…おれの予想以上に音無は成長して、いろんなものを吸収しているから...もうおれが居なくても大丈夫だと確信した。後任はおまえが知っている髙野係長だから、安心して…」
「でも、製造本部ってことは、本部のあるビルから離れるんですよね…?」
さっきまでの熱が嘘のように引いて、自分の指先が冷え切っているように感じた。製造本部は人事部や営業部、業務部などがある本部社屋とは別にあり、距離がかなり離れている。同じオフィス街にあるとは云えど、同じ建物内にいるのと違う場所で働くのとでは大違いだ。
信じていたものが急に手の平の中から零れ落ちてしまった寂しさと、自分ではどうすることも出来ない虚しさに押し潰されそうになる。人事部で同じ三年を過ごしているのに、何で俺じゃなくて桐生さんなのかと。
俺だったらまだ経験が浅いから、人事の仕事を続けたいからと理由をつけて、今回の異動は辞退していただろう。逆に考えれば、まだ入社して三年目だから異動の打診がなかったのかも知れない。
「俺も着いて行きます…と言いたいとこですけど…はは、それじゃ意味ない、ですよねぇ」
「…音無」
「良かったじゃないですか。ずっと願っていた、本の製造に携われるようになって」
目の前を直視できず、目を瞑る。桐生さんの背中がずっと遠くに感じてしまうから。
この感覚は初めてではなくて、初めてふたりで出掛けたあの日、唐突に知らない人が俺の知らない桐生さんと会話をしていた時の感情とよく似ている。
心臓の奥まで氷水が流れ込んできたような痛み。身体が動かなくなり、頭の中が真っ白になった瞬間のぞっとするような悪寒。自分の中のどす黒いものが、澱となり音もたてず心に降り積もっていく。
「…髙野さんは俺の大学の先輩ですから、大丈夫です。きっとうまくやれます」
「いや…そうじゃない、」
「だって、そうでしょう?俺にはあなたを止める権利も権限もなくて、ただ…見送ることしかできないんですよ」
憧れの上司と同じ職場で働けなくなること。
つまりは上司と部下の関係性が解消される。それは俺にとって別れを切り出されるのと同様に辛く、悲しい告白だった。上司でも部下でもなくなれば、会う機会はめっきり減るだろう。むしろ…それで良いのだと自分を誤魔化すことしかできなかった。俺なんかが、桐生係長のやりたいことの足枷になってはいけないのだから。
「桐生係長なら製造でもうまくやれます。だって社内の誰よりも本を作っていて、本のことを知っていて、ものづくりを愛してる生田キリオじゃないですか」
「…っ、…やめてくれ…おれは、そんな高潔な人間じゃない」
桐生係長の身体を抱き締めていた腕の力を緩めると、逆に彼が俺の手を強く握ってきた。彼の肩が小刻みに震えていて、後頭部から僅かに見えた目元はしっとりと濡れていた。どうしてあなたが泣いているんですか、とは言えなかったけれど、声を上げて泣き出したいのはこちらの方だった。
「…合同誌、いいですね。俺なんかと一緒に作っていただけて、光栄です。俺達にとって最初で最後の共同作業には、うってつけじゃないですか」
「やめろ!」
珍しく叫んだ桐生係長の大声が悲鳴のように、部屋に虚しく響き渡る。その声はみっともない鼻声になっていたのに、俺はどこまでもこの人のことが好きで堪らなかった。よくよく考えれば、桐生さんなんて気安く呼んでいい相手じゃなかったのに。俺はこの人と恋人になれたのだと、両想いなのだと一人で舞い上がっていた。
「っ…最初で最後とか……そういうこと、言うなよ…」
「…もう、この話はやめませんか?明日も仕事ですし、そろそろ寝ましょう」
「美影」
「はい?」
「…俺が異動を決めたのは…自分だけの為じゃない。詳しい話はまた、明日させてくれ」
「……」
これ以上、何を話すことがあるのだろう。
嫌なことばかり考えてしまう自分が嫌になって、まともに桐生係長を見ることができなかった。
× × ×
冷え切ったベッドは身も心も凍えさせる凶器のようだ。
音無と横並びにベッドへ横たわっているのに、こんなにも寒々しい夜は初めてだった。付き合い出してから数ヶ月も経たないうちに、おれと音無との関係性が揺らぎ始めているのを肌で感じてしまう。
異動の話をどう対応すればよかったのか。美影にどう説明すればよかったのか。そればかり考えてしまって、目を瞑っても眠れないでいた。
隣を見遣ると音無はこちらに背を向けていて、背中から丸まっている。膝を抱えているのだろう、顔は描け布団に隠れよく分からなかった。
「…美影。眠っているなら…そのままでいい。起こしてしまいたくないから」
「……」
「単に、ここから先はおれの独り言だ。同じことを明日喋ろうと思うけど、本番に弱いから…もし起きているなら、予行練習だと思ってくれればいい」
返事はなく、寝ているのだろうと思いおれはそのまま言葉を続けた。
「異動しようと決めたのは…俺自身のキャリアのことだけじゃない。最近、おれ達がどう見られているか知ってるか。……いつも一緒に居るところを」
仕事の最中なら、上司と部下なので寄り添っていても違和感はないだろう。だが、あろうことか…おれと音無がファミレスに連れ立って食事しているところを、職場の人間に見られてしまっていたようだ。
社員同士が自宅や店で飲むこと自体は、他の社員にもよくあることだった。だが当人はおれたちの会話まで耳にしていたらしく、一緒に食事を食べ、親密に会話し、尚且つおれが紙袋を音無に渡すところまで見られていたことに気が付かなかった。幸い指摘してきた社員も他意はなく、これが違う部署に見られては大事になるのではないか、といったようなことを案じての言葉だった。
このことはおれから言うから絶対音無に言わないようにと釘を刺して、今後のおれ達はどうするべきなのか考えていた時、異動の打診があった。
今のご時世、同性のカップル自体は珍しくとも何ともないだろう。しかし同じ社内、部署同士となれば少し話は変わって来る。
うちの職場は業務の都合上、社内恋愛の末にゴールインした夫婦は同じ部署にはいられない明示された社内ルールとなっていた。それは周りへの配慮や、当人たちのメンタル的な部分への配慮としても感情とは切り離す必要があったためだ。同じ部にいれば周囲もそれを気にかけ、業務に支障をきたす可能性がある。それを回避するためにも、所属歴が長いおれが先に異動する方が自然だろうと判断した。
「…異動の打診があったとき、正直いうとおまえにこのことを言おうか随分と迷った。その時は確定ではなかったし、自分でもちゃんと考えたいと思っていたからな」
「……」
「それに…おまえが楽しそうに小説の話をしたり、おれににこにこと笑い掛けてくれる表情を見て…そんなありふれた日常を壊してしまうのが恐かった」
おれは何処までも不器用な人間なのか、こういった事態の時にどう対処すればいいのか未だに分からない。恋人がいた経験もないし、誰かを好きになったのも随分と久しい。誰かに相談できることでもないし、相当考えた。
そしてひとつの過程を見つける。もし、おまえが承諾できるなら。
仕事場が変わっても、毎日顔を合わせる方法が無い訳ではないから。
「…その…おれと同居…ルームシェア、しないか」
「っ…!」
心を奮い立たせ勇気を振り絞って言った割に、その声は震えていなかった。