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第21話 妄想と憧憬

『「吉柳きりゅう…さん」

 「…二人で居る時くらいは、名前で呼んでくれないか」

 熱を持つ吉柳光輔きりゅうこうすけの頬に触れた瞬間、手の平が火傷するのではと思うくらい熱かった。それは彼の体温だけでなく、自分の掌に籠った熱の所為でもある。憧れでしかなかった上司とこうして逢瀬を重ねるようになるなどと、小鳥遊たかなしは思ってもいなかったのだ。』


 液晶画面に映る文字の羅列を読み進め、桐生は背中の中心が擽ったくなるような妙な気持ちになった。自分が部下である音無美影を題材にして密かに小説を書いていたのとは違い、自分の分身となっている登場人物が動いて喋り、誰かと口付けを交わしているのを読むのはどうにも恥ずかしくなってしまう。逆に自分の小説を音無が読んだ時のリアクションが想像できず、一瞬その先を読んで良いものかと躊躇ってしまった。いつの間にか音無の膝上から桐生の膝上へと移動したおねこが、不思議そうに桐生の顔を見上げている。そんなおねこの背中を愛おしそうに撫でつつ、桐生がぽつりと呟いた。

「…なぁ、音無」

「はい?」

「この二人は…どこまでいくんだ?」

「むふふ…それは結末まで読んだらのお楽しみです。今どのあたりですか?」

「恐らく終盤らへん、だな。しかし…何と言うか……とてつもなく恥ずかしい…」

「なにがです~?そんな照れなくても、ホンモノの桐生さんの方が100倍かっこいいですよ」

「…自分の分身みたいな登場人物が少しずつ、部下に絆されていく様を見ているようで…」

「…それで?」

 言い淀む桐生の背後から、笑いを含んだ声で音無が囁いた。びくんと背中を逸らせる桐生の耳朶に唇を寄せて、息を吹き掛けると桐生が上ずった悲鳴を上げる。おねこは何も見ていないとでもいうかのように桐生の胡坐の上で丸まってしまい、それ故に身動きが取れないでいる。

「…もしかして、イヤラシイこと想像しちゃいました?」

「やっ!べつに、そんなことは…!」

「コースケみたいに後ろからひたすら乳首攻めして欲しいとか…」

「んあぁっ!」

「それまで弄ったことのない場所で気持ちよくなりたいとか…?」

「やっ、やめぇ…おいっ‥!」

 脇の下から伸びる音無の手が桐生の胸元を弄ると、ワイシャツの上からでも指先がその箇所に触れるだけで電流が流れるような衝撃を感じてしまった。両腕を動かそうとするが首筋を甘噛みされ、力が抜けてしまった桐生の抵抗は虚しくも封じられた。既に弱点を知られているため、どう足掻いても音無の手中でいいようにされてしまう。

「ひかるさん、ココ弄られるの好きなんだよね?」

「すっ…うぅ…ちが…!」

「隠さなくていいんだよ。だって俺はもう、知ってるから」

 桐生の背中に自分の身体を密着させて、音無が更に桐生の胸元にある頂を指先で摘まむ。桐生はその先の欲求を必死に理性で押さえつけ、自分を落ち着かせようと乾いた唇を舌先で舐めた。少し触れられる程度で感じてしまうようになったこの肉体が恨めしくなりつつも、僅かにその先を期待してしまっている。だがおねこの穏やかな寝顔を見下ろして、もし起こしてしまったらととてつもなく恥ずかしくなった。

「…分かった…正直に言うから、それ以上は…おねこが起きてしまう…」

「ふふっ、分かってますって。ちょっと悪戯したくなっただけ、ですよ」

 胸元に回していた手をそのまま桐生の腹に回し、ぎゅっと強く抱き締める。桐生は音無のその手が緊張で汗ばんでいることに気付き、何も言わず左手でその手を包み、深呼吸して右手で小説を読み進めた。初めて書いたものを誰かに読まれる悦びと、批判される恐怖は紙一重に筆者を襲う。それが憧れていた作家なら尚の事だ。桐生も過去に身に覚えがあるからこそ、音無の行動を咎めることはなんとなくできなかった。

「ちょっとだけ、でいいのか?」

「えっ?」

「…これ読み終わったら帰るつもりだったが…このまま泊まるのも、いいかなと思って。おまえが良ければだが」

「えっ!いいんですか?俺とおねこはむしろ大歓迎ですよ」

 音無の言葉に呼応するかのように、おねこが目を覚ましぱたぱたと尻尾を縦に振って目を輝かせている。それは肯定を示す「YES」のサインだ。無論それは音無が勝手に決めたもので、おねこ自身は単に桐生からいつものように遊んでもらえるから嬉しいと思っているのだろう。おねこから随分と懐かれていることに、桐生は心から喜んだ。

「…おねこ様の言うとおりに」

「ふふっ…なんだかんだと時間も遅いですし、たくさん感想も聞きたいから…泊まっていって、いいですよ」

「うん、ありがとう」

 アドバイスと言える程でもないが、ここまで書き上げた音無を素直に褒めたいと思っていた。主人公ふたりの出逢いから恋に発展し、恋が愛に至るまで、そしてその先も生田キリオには書けない物語がそこにはあった。


 主人子のひとり、とある商社の営業係長である吉柳光輔きりゅうこうすけ。すらりとした身のこなしと接客の良さで顧客からも社員からも人気があり、次長就任も近いだろうと言われていた。そんな彼のことが大の苦手だった部下の小鳥遊瑛太たかなしえいたは、上司と会わないで済む週末を心待ちにしていた。土曜日になり実家で飼っていた猫をワクチン接種のため動物病院に連れて行くと、そこでばったり出くわしたのは子猫を段ボールに入れて膝の上に抱えている吉柳だった。職場にいる時と違い、不安そうな表情を浮かべている上司を観察していると目が合い、咄嗟に目を逸らしてしまう。恐る恐る話を聞けば、吉柳が自宅近くに捨てられていた子猫を拾い、ここまで来たという。インターネットで必死に調べ、咄嗟にその動物病院に連れて来た吉柳は縋るように小鳥遊を頼るのだった。

 動物病院から始まったその関係は、少しずつ形を変えていき二人の距離はぐんと縮まった。それまで吉柳を苦手だと思っていた小鳥遊は、その理由が手ひどく振られた自分の初恋の人に似ているからなのだと気づく。一方の吉柳も自分とは性格や考え方が正反対の小鳥遊とどう接していいのか分からず、つい素っ気なく接してしまっている自分が少しずつ変わっていくのを実感する。やがて吉柳と小鳥遊は葛藤やプライド、同僚たちの詮索を掻い潜り、上司と部下のボーダーラインを超えた互いの想いを告白するのだった。


 最後まで読み終えると、桐生は深く息を吸って吐き出した。初めて小説を書いたと言うのが信じられないくらい、その物語は桐生の心を振るわせる。   

 現実にありそうでなさそうなシチュエーション、そして自分と音無を主人公に重ねて、いつか自分たちもそうなれればいい、と僅かに憧れを抱いてしまう。

「…単純に、凄いよ。初めてでこんな話を書けるなんて」

「えっ、そんな、そうですか?」

「ああ。小鳥遊が実際に動物病院へ行ってる姿が脳裏に浮かんだり、光輔の猫好き具合に思わず頷いたり…好きだけどそれまで飼えなかったから、何をすればいいのか分からないって不安も手に取るように分かった」

「うぉぉ…キリオ先生に生で感想貰ってる…やば…」

「よしてくれ、おれはプロの作家や編集者じゃないよ。文字書きの生田キリオというより、桐生光として率直な感想を言ってるだけだ。…いい話だな」

 桐生の肩に額を預ける音無へと手を伸ばし、桐生が優しく彼の髪を撫でる。音無の肩が僅かに震えており、嗚咽を噛み殺す声が聞こえた。

「ありがと…ございます……」

「小説書くの、楽しかったか」

「はい…楽しすぎて、締切とかコンクールとか、途中で頭から抜けてました」

 すんと鼻を啜り、鼻声で喋る音無の言葉に桐生は過去の自分が同じことをやらかしてしまったことを思い出し、苦笑しつつうんうんと頷いた。 

 プロの作家となれば〆切厳守が当たり前であるが、仕事や義務で書いている訳ではないアマチュアの小説書きは「好きだから書いている」のであって、好きの原動力である「楽しい」を失ってしまえば自然と筆を下ろしてしまう。楽しいと思っているなら自分が納得するまで書けばいい、と桐生が言えば、音無は涙を拭ってうん、と頷いた。

「…この話、そのまま埋もれさせるのは勿体ないな…。製本してみたらどうだ」

「えっ?いや、俺のはまだまだですし…!それに本にするには文字数が足りない気が…」

「…なら、おれの書いてる小説と…合同誌にしてみるのは…?」

「へぁっ!?」

 降って湧いたような話に音無が素っ頓狂な声を上げると、桐生は至って真面目に言葉を続ける。この機会を逃せば、ずっと言い出せなくなりそうで怖かったこと。音無にずっと黙っていたままだった、後ろめたい思いをようやく手離す時が来たのだと自分の心を奮い立たせる。

 もしかしたら、これっきりになるかも知れないのは覚悟の上だった。

「…来年の春、おれは人事部を離れて製造本部へ異動する。おれが最初に手掛ける本の仕事を、おれたちの本にしたい」


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