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第20話 定時退社と親子丼(下)

 音無の部屋に戻るや否や、玄関で靴を脱ぐ前に音無が桐生の身体に抱き着いた。甘えるように顔を擦り合わせ、それに応えるように桐生が軽く音無の額にキスを落とす。それ以上玄関でヒートアップしないようにと桐生は買い物袋と共にキッチンへ向かい、音無は物足りなさそうにしながらもリビングを軽く片付け始めた。数週間前とは打って変わり、綺麗に整頓されているキッチンは使い勝手のいいものになっていた。

「…おねこ様、お久しぶりです」

「ウーン」

「はは、寝言言ってる…」

「このまま寝かせてあげよう」

 ソファの上に丸まって眠るおねこを起こさないよう慎重に撫でていると、音無は今がチャンスだとばかりに立ち上がり、桐生の立っているキッチンへと足を向ける。彼は既に小鉢か何かの準備をし終えたようで、メインになる親子丼作りに移っていた。

「桐生さんひかるさんキリオせんせい!!」

「…名前を呼ぶのは一度でいい」

「ついに完成したんですよ!俺のBL小説が!」

 包丁を操るため俯いていた桐生が、音無の言葉を聞いて視線を上げる。すぐ傍には目をきらきらと輝かせている音無がいて、まるで尻尾を振っている大型犬かのように希望の眼差しで桐生を見つめていた。頭を撫でたくなる衝動に駆られつつ、桐生は包丁で玉ねぎを切る手を止めないでいる。

「ん…おめでとう。例の、あれか。夕飯の後に読ませてくれ」

「はいっ!」

「コンクールの締切は?」

「それが……その…納得いくまで書くのを止めないでいたら、いつの間にか締切を過ぎてて…」

 しゅんと項垂れる音無の表情に、桐生は過去の自分とその面影を重ねてしまう。まだ作家を夢見ていた頃、無我夢中で執筆していた程の情熱は今や、だいぶ醒めてしまっている。しかし音無の姿を見ていると、自分も書き残していたことを最後までかたちにしたいと思ってしまうのだ。

「…そうだったのか」

「でも、いいんです!俺の書いてた話が完成しただけで、なんだか嬉しくて」

「…うん。おまえはそれでいいと思う」

 急な沈黙の中、リズミカルな音と共にくし切りの玉ねぎが生まれ、焼き色の付いた鶏肉と出汁が煮立った鍋の中に入れられた。蓋をして煮ている間、買ったばかりの卵を三個器に割り入れる。ひとつは黄身が二個入っていて、音無が驚いたように指を差した。

「あっ、双子のたまご!」

「たまにあるぞ。ラッキーだな」

「へへっ、なんか得した気分ですね」

「そうだな」

 音無が笑みを浮かべると、連なるように桐生も笑う。菜箸で割り解しつつ、音無が完成させたと言う小説に想いを馳せる。どのようなストーリーを書いたのかも気になるが、自分が書いてきたものとは違うボーイズラブ作品を読むのは随分と久方ぶりだ。ふと、彼が何故小説を書き始めたのか気になった。

「…美影は何がきっかけで公募小説を書き始めたんだ?」

「っ…!」

「その様子だと余程の動機があるんだろ」

「それは、その…」

 顔を真っ赤に染めた音無は急にリビングに戻り、ソファに寝ているおねこの腹に顔を埋めた。その様子を一部始終見ていた桐生は苦笑しつつ「後で教えてくれ」とだけ言葉を返した。

 玉ねぎと鶏肉が煮立った頃合いを見て、割り解した卵を半分ほど鍋に入れる。半熟になる程度まで煮ている間、音無が購入したばかりの新しい炊飯器で炊いた白米を深めの皿に盛り入れる。リビングに戻りソファから桐生の様子を見ていた音無は、何か手伝おうと立ち上がり再び桐生の横に並んだ。

「光さん、何か手伝いましょうか」

「ん、ありがとう…盛り付けた皿を運んでくれ」

「はいっ!」

 完成した親子丼を音無が運んでいる間、桐生が鍋肌を温めていた澄まし汁を木椀に注ぎ入れてテーブルに持って行く。予め準備していた小鉢に入れた浅漬けとほうれん草の胡麻和えを冷蔵庫から取り出し、食卓に持っていくと想像以上に賑やかな食卓になっていた。

「うぉぉ!うまそう…いただきます!」

「作り慣れてはいるから、食べれなくはない…と思う」

「何言ってるんですか、光さんのつくるごはんは何でも美味しいですもん」

「…おだてても何もでないぞ」

 恥ずかしそうに俯く桐生の頬を指先でつつき、揶揄からかいつつも音無が親子丼をひと口頬張る。柔らかく滑らかな舌触りの半熟卵と、下味をつけて焼いた鶏肉との相性が抜群でぺろりと平らげてしまいそうだ。ほうれん草の胡麻和えは和え衣を桐生が手作りし、適度な柔らかさのほうれん草とよく絡み合っていて不思議と懐かしい味がした。

「ん~!うっま…!」

「良かった」

 ほっとした様子の桐生を今すぐ褒め讃えたいと思いつつ、箸が止まらないので今は食事に専念することにする。


 桐生が音無に問い掛けた小説を書き始めた理由、それは音無が片想いしていた桐生に自分の文才を認めて欲しいがためのものであった。しかし桐生自身も小説を書いていて、尚且つ音無が長い間敬愛していたアマチュア作家、生田キリオであることを知る。その時点で、桐生には到底敵わないと半ば音無は諦め始めていた。コンクールに出すのはひとつの手段ではあるが、まだその時ではないのだと薄々感じていたのだ。

「……俺、桐生さんに褒めて貰えたらなって思いながら…小説書き始めたんです」

「それが動機か?」

「まぁ、キッカケですよね。それかいざ書き始めたら楽しくて」

「…分かる」

 桐生が浅漬けを箸で摘み、口に運びながら相槌を打った。自分の若い頃によく似ている、とつくづく思ってしまう。

「コンクールの締切を意識するより、自分で読んでいいなって思える話を書きたくなって…気づいたら締切過ぎているし、規定文字数の2万字を超えて3万字突破してたんです」

「凄いじゃないか。書いている理由は何時だって変わっていい、と思う。自分が読みたい話を自分の為に書いていたら、いつの間にか評価されることだってあるだろうからな」

「にゃん」

 おねこが相槌を打つように一声鳴くと、桐生と音無は揃って笑った。

「俺……締切に間に合わなかった、って言ったらキリオさんに怒られるかと思ってました」

「何でだ?正式な原稿依頼じゃあるまいし、他人の努力を理不尽に踏みにじるようなことはしたくない。それに公募募集やコンクールだってまだまだ沢山ある。肩の力を抜きながら、自分に合ったものを探してみるのも悪くないと思うぞ」

 桐生が隣に並んで座る音無の頭を撫でると、泣き出しそうな飼い主の様子におねこが不服そうな声を漏らし、頭を擦り付けた。

「…早く食べて遊んでくれ、と」

「ふふっ…ふたりには敵わないなぁ」

「んにゃっ」

 穏やかな二人と一匹の食事は、確実に音無の『日常』になりつつあった。


×   ×   ×


 俺のノートパソコンの前に座り、画面を食い入るように見つめる『生田キリオ』の横顔を眺めている。職場や普段俺の前にいる桐生光ではなくて、その顔つきは幾多もの物語を生み出したアマチュア作家の顔つきだ。

 食後、約束通り桐生さん…否、キリオ先生に俺の書いた小説を読んでもらっていた。どんな辛口評価が飛んできても構わない、今の俺が最大限の力を振り絞って書いたはじめての小説だ。それもキリオ先生と同じ土俵に立つため、題材にボーイズラブを選んだのが吉と出るか凶と出るかは分からない。

「…どう、ですか」

「タイトルは『おねこ様のいう通り』か…。うん、書き出しは良いと思うぞ」

「主人公のうちひとりのモデルは、桐生さんにしてみたんです。分かりました?」

「…そんなの、バレバレに決まってるだろ。名前は吉柳きりゅうだし、黒縁眼鏡に偉そうな態度、そしてネコに弱いなんて…」

「へへっ…そりゃもう、精密に再現しましたから…それに偉そうじゃなくて、桐生さんはほんとに偉いじゃないですか!」

「うーん…しかしそれが何も知らない読者に伝わるかな?」

 図星を指されて一瞬ギクリとぎこちなくなった。けれど『今は』それでいいのだと断言できる。元よりネットサイトとかに上げるつもりはなくて、まずは完成させることを目標にしていたから。

「何も知らない読者の反応を知るのも大切なことだぞ。自分だけ盛り上がっているだけでいいなら、無理強いはしないが」

「そう言うキリオ先生は…?どっか投稿サイトに上げるんですか?」

「…おれのはいいんだよ。今は君の小説のことだろう、水影おと君」

「はひっ!あぁ…もう1回、呼んでもらえます?」

「あん?まだ途中までだから、最後まで読ませなさい」

 呆れたような表情はいつもと変わらないのに、その意味合いは普段と全く違う。俺はキリオ先生が小説を読み終えるまで、ただ黙っておねこを膝の上に抱いていた。

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