あれから数日程経過したのに、身体の奥で微熱がまだ燻っているようだ。
穏やかな日曜日を過ごす中でメルアドを交換して、桐生さんは自分の家に帰るため昼過ぎには俺の部屋を出た。休日にわざわざ電車で来てくれたのだと思うと、驚くと同時に嬉しくなってしまう。桐生さんが帰宅したと同時にメールが送られてきて、なんだか彼らしいなと思った。
『そう言えばおまえの書いている小説、どんな話なんだ?』
『内緒です』
『なんだそれ。おれは山ほど読ませたのに』
『完成したら読んでもらいますので!』
他愛のないやりとりに何かが胸を込み上げてきて、何故だか泣きそうになりながら再びパソコンに向き合った。
あの日は慌ててパソコンの画面を閉じ、桐生さんの視界からその文字の羅列が見えなくなるようにするのが精一杯だった。クラウドに保存したそのファイルはパソコンからでもスマホからでも編集できるから、今は昼休みの短い時間でもスマホから少しずつ書いている。一刻も早く桐生さんに読んで貰いたい気持ちもあるけれど、まだ未完成なのでもう少し先になるだろう。締切はもう数日後に迫っているが、それでもやれるだけ書き続けたい。
…目標にしているのは上司で、好きな人で、憧れのアマチュア作家だけど。
今でもあの生田キリオが目の前にいるなんて信じられない。執筆を再開していたなんて思いも寄らず、無我夢中で俺の気持ちを…大好きだと伝えたかった。少しでも話しがしたかった。ありがとう、と言いたかった。
それがまさか上司と部下の関係から一転して、かなり深いところまで知ってしまう仲になるなんて…。正直、今の俺たちに怖いものなんてないように思う。例え世間が認めなくても、俺はこの人を心の底から慕っている。そして彼が紡ぐ物語が好きだから。今までもこれからもファンでいたいし、一番近くで応援したい。俺の勝手なわがままだとしても。
散々キスしたくせに、と言いながら俺の顎を持ち上げられた時は、本当に…どうにかなりそうなくらい、動悸が激しくなった。桐生さんは誰が何と言おうと、かっこいいひとだ。眼科に行く必要なんて、これっぽっちも感じない。
翌日の月曜日から職場に復帰し、いつもと変わらない仕事の繰り返し…かと思いきや、少しだけ世界が変わったように思える。休みの間に溜まっていた書類作業や引継ぎを一通り終えると、突然桐生さんに声を掛けられ会議室で話しがしたいと云われた。俺の部屋で見せてくれた屈託のない笑顔とか、素の桐生さんは微塵も感じられない。そこには東栄商事人事部教育係の係長、桐生光しか存在していなかった。
「音無さん…どうしました?」
「ッ…あ、いや…何でもないです」
「…12月に開催する就活生向け冬季インターンシップについてですが、採用担当として音無さんに進行して貰おうと思います」
「えッ⁉…俺…あ、わたしがですか?」
「今まで後方支援をしていただきましたが、音無さんにとって現場の空気はとても刺激があると思います。私もサポートしますので、引き受けてくれませんか」
「勿論ですよ!桐生さんの…じゃなくて、学生さんや人事のお役に立てるなら何だってします!」
急に降って湧いたような話に驚いてしまったけれど、悪い話ではない。俺は二つ返事で承諾した。教育係は俺と桐生さん、それと先輩社員が数人所属しているけれど、それぞれ担当している分野が違うので、繁忙期は応援したりされたりすることがままある。今回は応援要請せず、俺たちだけで行うと聞いて、不安もあるけど期待の方が半分以上だ。
今考えれば、俺と桐生さんふたりで何かをするのは随分と久しぶりのことだった。今までそんなに意識はしていなかったけれど、職場では「ただの上司と部下、先輩と後輩」でしかない。
打ち合わせのスケジュールを組んでいる間も、今は仕事中だからと頭を切り替える。視界に入る桐生さんは今までと何も変わらずに、感情が読めない真顔でパソコンのキーを叩いていた。
「参加学生の集約はシューカツNAVIで行いますので、音無さんには案内連絡と物品の準備をお願いします。当日のスケジュールはこれから決めることになりますが、宜しいですか?」
「はい!」
自分が学生だった頃を思い出し、そういえばそんなこともあったなと、何だか変な気持ちになった。あの日の出会いがあってもなくても、多分俺はこの職場に決めていただろうから。
「質問があれば今のうちに聞いてください」
「桐生さんは…なぜ転職先にこの会社を選んだのですか?」
「…今は関係ないでしょう」
呆れるような表情を浮かべている。そこまでは想定内だ。
「関係、ありますよ」
今ならハッキリと言えた。
× × ×
いつになく強い口調で言う音無に、桐生は驚きつつもそれは何故なのかと問う。
「…私の志望動機と学生の志望動機にはかなりの差があります。中途採用と新卒では、当然それまで過ごしてきた環境や影響を受けてきたものも、経緯や動機が違うでしょう。それなのに何故、関係があると?」
「中途でも新採用でも、決め手はきっと同じかなと…。そこをプッシュしても良さそうだな、って思いました。だって嫌な会社を好き好んで選びはしないでしょう?まぁ、入ってから『なんか違う』ってのはあるでしょうが…」
「……まぁ、確かに一理…ありますけれども」
二人の務める職場は商社ではあるが、扱っているのは日用品などの商品ではない。顧客から注文を受けて現場へ発注し、それを顧客が指定した場所に発送するところまでを担う『印刷屋』である。パンフレットやレジュメ、自費出版の本、会報誌など様々なものを必要とする人々が発注し、製本したものを指定した場所に送り出す。以前の桐生はこの企業にとっての常連であり、自分の思い通りの本を作ることができる理想の印刷会社だった。自分がこの会社を選んだ理由は、間接的に自分と同じ道を選ぼうとしている者の役に立てる仕事だと思ったから。そして、それまでの経験を活かせるかも知れないと思ったからだ。小説家への道は諦めたものの、何かをしたためて誰かに伝える仕事への憧れは諦めきることができなかった。それを今度は発注する客の立場ではなくつくる側、すなわち印刷する企業側の目線で支援したいと思った。
当初は企画や営業、広報を請け負う営業企画部か製造本部を志望したが、志望通りにはいかなかった。しかしきっかけはどうであれ、この企業に就職できれば何かが変わると信じていた。
「…なら、音無さんの志望動機は?」
「俺は…その…わ、笑わないでくださいよ?」
「はい」
「合同企業説明会の企業名簿を見た時に、俺が大好きな生田キリオって作家が使っていた印刷会社だって気付いて…立ち寄った時、声を掛けてくれた採用担当の人が…あまりにも綺麗だったから」
「……それで?」
「えっと、その…もっと知りたくなって…ギリギリ参加した社内開催の企業説明会で、桐生さんと会いました」
「ふふ…憶えていましたか」
「忘れませんよ!何と言うか…名前は知らなくても、この人たちと同じ仕事場で仕事ができればいいなって…採用担当の人も素敵だし、その…少しずつ、この会社のこと自体が好きになっていたんですよね。…な、なんかこれ採用面接みたいで恥ずかしいです…!」
「うん……なんだかおれも恥ずかしくなったから、もういい」
「えっ!それじゃ桐生さんは…」
「それはまた今度。それから…ありがとう」
音無はそれまで食い入るように見ていた桐生の顔を直視できず、俯いて会議室のテーブル一点を見つめる。思い切り息を吐き出して、一大決心したかのように顔を上げた。
「感謝するのは俺の方ですよ!俺の憧れは今も昔も生田キリオで、桐生光なんです。それがイコールで結ばれるなんて…今でも信じられない…」
「…音無…」
「そ、そう言う訳なので…!この仕事、無事やり遂げますから。なるべく、桐生さんに迷惑掛けないように…」
音無は会議室の椅子から思い切り立ち上がり、深々と礼をしてその場を後にしようとする。その後ろ姿に向かい、桐生が小さな声で呟いた。
「…迷惑なんて、いくらでも掛けてください」
それが自分にできる、最後の仕事かも知れないから。