木曜日。
桐生は週末に音無を自宅に招くため、入念な準備をしていた。
元々家具が少ない殺風景な部屋に、インターネットで調べた調度品や予てから揃えたいと思っていた家具を少しずつ増やしている。かつて天職だと思えた職に就いた際、自宅でも練習できるようにと素材や道具は揃えていた。
久方ぶりに振るうそれは、果たしてうまくいくかどうか分からない。クリーニングに出したきり、クローゼットの片隅に追いやられていた”勝負服”のビニールカバーを外して試着する。着る前は少しきつくなっているような気がしたが、現役時代よりもむしろフィットしているように思えた。
「…これなら大丈夫だな」
当時の感覚を思い出すように、キッチンの横に立つ。数年もの間封印されていた、その場所の掛け布を取る時が来ようとは桐生自身思わなかった。
衣擦れと共に現れたもの、それはちいさなカウンターバーだった。
× × ×
翌日。
定時で業務を終えた音無は、一足先に午後休みを取得し帰宅した桐生の自宅へと、ひとり…否、ひとりで一匹を連れて向かっていた。
メールに記載された交通手段を使い、最寄り駅から電車を乗り継いで二つ目の駅に着く。電車を降りて改札のホームをくぐると、桐生の指示通り電話を掛けることにした。
「…あっ、もしもし」
『音無か。おねこ様もおつかれさまです』
「はい、お疲れ様です!」
「んにゃ」
『…準備はできているからつでも良いぞ』
「わかりました!」
『大扉に来たらインターホン鳴らしてくれ。鍵は開けておくから』
元気良く返事をすると、僅かに笑った桐生が「またあとで」と返して通話を終わらせた。
そわそわと落ち着かない様子でキャリーを抱えながら歩く、来たことのない街並みは音無にとって未知の領域であり、全てが新鮮に見えた。スマートフォンの地図アプリに案内されるがまま歩みを進め、住所通りのマンションの前に到着する。キャリーの中のおねこが、早く出たいとぐずりはじめていた。
大扉の前にある部屋の番号とインターホンの通話ボタンと押すと間もなくスピーカーから桐生の声が聞こえ、集合玄関の自動ドアが開かれた。
「…5階の503…503…」
譫言のように部屋番号を繰り返し、エレベーターに乗り込み、階数のボタンを押す。そわそわと落ち着きなく機内をうろついて、5階に到着したと同時に躍り出るように廊下へ向かった。503、と金色の数字プレートを見つけると少し震える手でドアノブを握り、玄関を押し開く。微かに漂うライムの仄かな香りに目を細めた。
「おじゃまします…!」
「にゃ~ん」
「いらっしゃいませ」
「へ?」
玄関で靴を脱ぎ、おねこの入ったキャリーバッグと共に殺風景な廊下を歩いて左手から漏れる明かりに誘われる。向かった先にはひとり腰かけられる程度の小さいカウンターバーが見え、その奥に彼が立っていた。
「っ…!きりゅ、さ…」
「…どうぞこちらへお掛けください。おねこ様はそちらへ」
キャリーバッグから解放されたおねこは、室内に出るとうんと腰を逸らして伸び、キッチンから離れた場所に設えられた猫用のソファに向かう。ひとしきり匂いを嗅いだあと、数回揉むように両手でモミモミすると気に入ったのかソファに乗り
あまりの流れるような動きに音無は驚愕し、視線をおねこから桐生に移す。じっくりとその姿に見惚れて息を飲み、それと同時に出そうとした声は掻き消えてしまう。
照度を下げられた落ち着いた色合いの間接照明が、その場所を淡く照らしていた。
リビングにはソファとローテーブル、そしてカウンターバーくらいしかなく、その代わりキッチンがやけに広い。様々なボトルが置かれている棚とグラスが吊るされたラック、大きな冷蔵庫が特徴的で、それより目が惹かれるのは黒のカマーベストに白いシャツ、紺のネクタイと黒いスラックスに身を包んだ桐生だ。いつも前に降ろしている前髪を、飾り気のないカチューシャでオールバックになで付けていた。服装や髪型だけでなく、いつもとは違うのは眼鏡を外し、じっとおねこを見つめているその眼だ。
やや淡い藍色のような、濃い灰色のような不思議な色をしている。
「…もしかして、カラコンですか…?」
「いえ…生まれつき瞳の色素が薄くて。仕事中は黒いカラーコンタクトに眼鏡ですが、今は普通の度入りレンズです」
「っ……!反則ですよそんなん…!めちゃくちゃかっこいいじゃないですか…」
「…そうでしょうか……自分ではよく分かりません。ご注文は如何なさいますか」
「えっと、じゃあ…カクテルよく分からないので、お任せします」
「かしこまりました。アルコールにはお強いでしょうか?」
「えぇ!それはもう…!って桐生さん、知ってるじゃないですか」
音無が笑っている様子に微笑で返し、シェイカーに純氷ブロックを砕いて入れる。桐生は迷うことなく慣れた手つきでドライ・ジンの瓶を手にし、計量してシェイカーに注いだ。そこに今しがた絞ったばかりであろうライムジュースとひとすくいの砂糖を入れ、濾過するための器具とキャップを締める。シェイカーを持ち上げ両手で構え、軽やかなリズムで8の字を描くようにシェイクすると、その真剣な眼差しに思わず音無は再度見惚れてしまった。
「はわ……」
瞬く間にシェイカーからカクテルグラスに注がれたのは、透明な中にライムジュースの淡い色が混ざりあった、爽やかな香りのする一杯だ。
「…お待たせしました。ギムレットです」
「かっ…やっ……いただきます」
手汗で湿った手のひらをスラックスで拭い、音無がグラスの軸に触れる。数分しか氷と混ざっていないのにグラスはキンと冷たく、グラスの縁に一口つけるとジンの鋭さの中に爽やかなライムの香味を感じ、無意識に「美味しい」と口に出ていた。ギムレットはアルコール濃度が高いカクテルだが、氷の溶け具合でその鋭さを若干和らげているようだ。また一口、と飲み進めるとあっという間にグラスは空になった。
「…まさか桐生さんがほんとにバーテンダーやってたなんて……」
「一度は天職だと思いましたけれど、他にやりたいことが見つかりましてね。自分で飲むノンアルコールカクテルを作れるようになったので良かったと思います」
「桐生さんが妙に接客慣れしてたの、この経験があったからなんだなぁ」
「恐れ入ります」
「喋り方はいつもの桐生係長だ…昔から丁寧なんですね」
「…癖は直ぐに抜けないものですよ」
「でも、俺の前では肩の力抜いて普通に喋ってくださいよ」
おどける音無の様子にクスクスと笑えば使ったシェイカーを手早く洗い、桐生は普通のグラスに注いだミネラルウォーターを一口飲んだ。
「…そういや、俺と初デートの時はカラコンしてなかったですよね?」
「ああ…あれは眼鏡のレンズに色が入っていて、外から見れば普通の色に見えるものだったから…休日はコンタクトを使わないようにしている」
「寝るまでずっと眼鏡してたのは、そのためだったんですね…俺が部屋を薄暗くしてたから気づきませんでした…」
「騙すつもりはなかったが…人前で晒すのに慣れていないからな。すまん」
「謝らないでくださいよ。むしろめちゃくちゃ嬉しいんです…素のひかるさんに会えたから。へへ、夢に出てきそう…」
頬を少しばかり赤らめ、ほろ酔い気味にぽやっとした音無が桐生の頬に手を伸ばす。桐生はその手をやんわりと取り、甲に軽く口づけを落とした。
「その時は…夢の中のおれに、よろしく」
「っ…!」
顔から火が出てきそうなくらいの熱さを感じ、音無が呂律の回らない口調で「ひゃい!」と返事を返した。
長い夜は更けていく。