今目の前にいる上司が、まさかあんな恥ずかしい姿を見せていたなんて。
公私混同は絶対に避けなければならないけれど、どうしても一人になった時に思い出しそうになってしまい気を引き締める。俺は表情に出やすいから、気をつけなさいと昨日桐生さんに注意されたばかりだ。
俺が告白してから、2人の間柄は…かなり変わった。それでも人前では変わらず、『上司と部下』の関係を続けている。
職場では素っ気ない態度のまま退社しても、こっそり桐生さんがおねこに会いに来ると箍が外れるように彼を求めてしまう。スーツのジャケットを脱いでハグして、恐る恐る唇を重ね夕飯を一緒に食べるだけ。それでも十分幸せだと思ったし、桐生さんは長らく一人暮らしを続けているからなのか、自炊歴も長く料理がとても上手かった。彼の部屋のキッチンは俺の部屋にある台所よりも二倍ほど広く、それだけ使いこなせている様子が伺える。得意な料理は肉じゃがやチャーハン、煮物と言った一般的な料理が多く、碌に料理をせず暮らしてきた俺にとってこの上ないご馳走だ。当初週に一度だった桐生さんの来訪は週に二度、三度と少しずつ増えたけれど、業務が立て込むと残業する日も増えて、それに反比例して俺の部屋から桐生さんの姿が減っていった。桐生さんの部屋を訪れることもあったけれど、週末に来年度新卒の合同説明会や中途採用職員の面接があったりで、平日に振り替え休日をもらうようになり同日に休みを取るのが難しくなってきている。
作り置きのおかずを保冷容器に詰めて冷蔵庫に入れ、少なくとも朝はしっかり食べるようにと云われてから体調はすこぶる良くなった。昼は桐生さんや違う部署の顔見知りの社員と一緒に食べに行き、交友関係も広がってきている。栄養と睡眠をしっかり摂り、隣に大好きな桐生さんとおねこがいれば何も怖くはないと思っていた。
季節はすっかり晩秋に差し掛かり、師走前の繁忙期に入ると慌ただしく一日が始まって終わりそしてまた朝が来る。俺が書いていた小説とインターンシップの準備は少しずつ形になっていき、小説公募の〆切と共に刻一刻と迫っていた。気が付けばもう、明日だ。
仕事が終わると定時で帰宅し、すぐに自宅のパソコンと向き合う。物語の中の2人もすっかり距離を縮め、ハッピーエンドまっしぐらだ。おねこは桐生さんに買ってもらった猫用こたつから頭を出して眠っている。
「……これが終わったら…ようやく2人でスイーツバイキングだ…!」
なんだかんだと約束を未だに果たせないまま、年明けを過ごすのは何としても避けたいと思っていた。大晦日は何をしようか、桐生さんの年越しそばを食べて初詣に行って…とまだ見ぬ予定に思いを馳せる。
窓の外には、去年よりも早いみぞれ交じりの雪がちらつき始めていた。
× × ×
みぞれ交じりの雪は本格的な雪へと変わるかと思いきや、翌日の朝には晴れ渡る青空が広がっている。そして昼になるにつれて気温が急上昇し、11月とは思えない陽気がオフィスを温める。
昼休み開始のチャイムが鳴ると、音無は大きく両腕を上げて背筋を伸ばした。今日の昼は何処に食べに行こうか、ぼんやりと考えていた。
「…桐生係長、お昼ご一緒しませんか?」
「ええ、経理の安川主任が美味しいラーメン屋を教えてくれたので…たぶん、あの二人も一緒ですよ」
「やった!安川さん、最近ゲームのランク上がったんで色々聞きたいとこだったんです」
「ああ…それはちょうど良かったですね」
偶然にも以前桐生が所属していた営業課時代の部下と音無が意気投合し、たまに昼食を一緒に取るようになっていた。二人はパソコンをスリープ状態にし、居室を出る。同じくして件の安川と呼ばれた社員と、もうひとり男性社員が一緒になって社屋の外へと向かう。
「あっ、やっぱり髙野先輩も一緒だ!」
「お疲れ様です。桐生係長、音無」
「今日はラーメンの気分なんだよなぁ…って話してたとこなんです!」
「奇遇ですね。私たちも同じことを言っていました」
髙野と呼ばれた社員は安川と同時期に入った営業課の社員で、音無が通っていた大学のOBだった。サークルも同じ陸上部だったとあって、それ故に話題が尽きず、すっかり意気投合している。髙野の趣味は桐生と同じく料理で、ふたりにしか分からないような会話を偶にしていた。それを横に聞きながら、音無と安川は共通のオンラインゲームのクエストやミッションについて熱く語るようになった。最近はこうして四人で昼食をたまに摂っている。
「そういや来週から、あのケーキ屋でオータムフェアやるんですよ。よかったらおれ達と行きません?」
「「行きます」」
音無と桐生の声が重なり、安川と髙野が噴き出してしまった。
安川と髙野は甘いモノに目がなく、同じ甘党の桐生や音無を誘うようになり、期間限定のスイーツを食べに行くようにもなっていた。安川曰く「甘党パーティ」と呼ばれていた。
四人は安川の先導で、オフィス街から少し離れた細い裏路地を歩く。
「おすすめのラーメン屋って、ここらへんじゃ有名なんですか?」
「何でも製造本部の岩下を唸らせたらしい…ずっと常連なんだってさ」
「ラーメン狂いで有名なあの岩下係長を…ですか?」
「ちょ、ラーメン狂いって…!桐生係長が知ってるくらいなら相当だなぁ」
「な?気になるだろ?」
「はい!」
四人が足を止めた目の前には、既に列を成している小さな店が見える。その店の名前に、四人は同時に目を丸くした。
「『縁起でもないとか言うなよ。天にも昇る美味い店って意味だよ』…って言ってたらしいです。おれもまた聞きですけど」
「へぇ…?」
音無が何故か桐生を横目に見てにやっと笑う。
その店の名前は「昇天軒」と書かれていた。
× × ×
「…ほんとに美味かった…」
「あの味、癖になりそうだな」
昼食を食べ終えた後、各々感想を言いながら午後の業務へと向かう。
四人は同じ居室で働いている為、男子更衣室で歯磨きをし再び居室に戻るまで一緒で、午後の業務開始のチャイムと同時に「甘党パーティ」は解散した。
欠伸を噛み殺しながら長い一日の業務を終えようとする頃、音無はプリンターから吐き出される資料を取りに行く振りをして、向かいの席に座る上司…そして恋人である桐生光の様子を窺う。今日彼は自宅に寄ってくれるだろうかと思いながら、並々ならぬ想いと憧れを抱き続けているその顔を見つめた。先日、仕事中は黒のカラーコンタクトレンズをしていると知ったばかりだが、改めて見ているとやはりシルバーフレームの眼鏡が良く似合っていた。
(うわぁぁぁぁ!午後の桐生さんもイケメンだ!!)
大声で言いたい言葉を必死に留めていると、音無の視線に気付いた桐生が顔を向けて目と目が合う。一瞬眼鏡の奥が揺らいだように見えたが、すぐに視線を逸らし口元に手を当てて咳払いを漏らした。
今日は残業も仕事後の用事もない事を示す、誰にも分からない二人だけの暗号。音無は目を見開き、機嫌良さそうに口元を緩めた。
少しだけ時間をずらして職場を離れ、音無の自宅に程近いスーパーの中で待ち合わせをする。一段と冷え込み、遠方から電車通勤をしているため厚手のスラックスとジャケットの下にウールのベスト、そしてマフラーとコートを着込んでいる桐生と違い、普段通りのワイシャツとスーツジャケット、スラックスのみの音無は白い息を吐いて鮮魚コーナーにやって来る。
「おい、また風邪引くだろ」
「大丈夫ですって!うち職場から近いから、コート着るとあっついんです」
「黙ってこれを着なさい」
桐生は見兼ねて自分の着ていたコートを脱ぎ、音無に押しつけショッピングカートを押し出す。音無は受け取ったコートの温もりを抱き締めるように持ち上げると、すぐに身に纏い桐生の後を追った。
追いついた音無と横並びになり、桐生は品定めしながら買い物かごの中にひとつひとつ調味料などを入れている。度々桐生が訪れるようになってから、音無が住むアパートの狭いキッチンには一般家庭並みかそれ以上に豊富な食材が揃うようになっていた。
「今日は何がいい?」
「うーん…。親子丼とか、かに玉とか…卵料理、食べたくないですか?」
「卵料理か。ちょうど鶏肉の細切れが半額だったな。なら、今日は親子丼にしよう。卵はあるのか?」
「こないだ買った分は使い切ったので、新しいの買いましょう!」
うきうきと前を歩く音無の背中を見て、桐生は苦笑いを滲ませ後に続く。特別でも何でもない、普通の平日の夜。残業をしないように心がけてはいても、毎日そうはいかないのが中間管理職の性である。
職場に二人の関係は知られていない…と思うが、何処に目があるか分からない。仮に知られてしまった場合に備え、桐生は次の行動を既に起こしていた。しかし音無にはまだ、言えないでいる。いつ、どのタイミングで言えばいいのか未だに思い悩んでいた。
「桐生さん、赤玉と白玉どっちがいいですか?」
上司の悩みをよそに、小学生が親に尋ねるようなあどけなさで卵の種類を問い掛ける。そんな音無に吹き出しそうになりつつ、桐生は「赤玉で」と笑いを噛み殺しながら言葉を返した。