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第11話 運命とバックハグ

 とても長い時間、唇を重ねていたように思う。ようやく桐生の方から離れると、恥ずかしそうに身体の向きを変えて口許を指先で拭い、横目で音無を見た。

「こ…こんなのでいいのか?」

「はぁぁ…最高です……もう1回…今度は壁ドンも添えて」

「おまえなぁ、」

 音無は自分よりも背が高い桐生の肩に両手を回し、縋るように爪先立ちになる。桐生が言いかけた言葉は再び塞がれてしまい、代わりにちゅっちゅっと仔猫が人の指先を吸うような甘い音が漏れた。再度濃厚なキスをして酸欠になりかけた桐生は、音無の首筋から尾骶骨に掛けて人差し指を上から這わせてなぞる。音無は慌てて唇を離し、悲鳴を上げた。

「っ…!うあぁっ…!」

「美影は首筋と背中が弱いんだな」

「んなっ…ずるいです……!」

「さっきの仕返しだよ」

 してやったりと悪戯っぽく笑い、音無も顔を見合わせて笑みを零す。リビングからおねこが2人を探す鳴き声が聞こえ、2人は急いで洗面台から飛び出た。


×   ×   ×


 幸せだなぁ、と朝から顔がふやけてしまいそうになった。おねこは音無たちが洗面台から出てくると、スリスリと足に身体を擦り付けた。朝ごはんの催促だ。

 少しだけドライフード(通称カリカリ)の欠片が残ったおねこのご飯皿を回収し、綺麗に洗ってキッチンペーパーで拭き取る。すっかり綺麗になって乾いた皿に、おねこが好きな仔猫用のカリカリを入れてお気に入りの場所に置く。いつもの朝のルーティンだ。

「はいよ、おねこ」

「うにゃん」

 おねこは待ってました、と言わんばかりに乾いた音を立てて頬張り、うまそうに食べ始めた。初めて会った頃よりも随分丸くなった気がするけれど、まだまだ子供なのかうにゃうにゃ何かを喋りながら頬張っている。猫の子育て本によると、外敵を警戒しながら食べるのはクセのようなものらしい。

「…そう言えばおねこ様はいつから一緒にいるんだ?」

「1年くらい前から、かな…正確には覚えていないんですよね、いつの間にか居たから」

 お猫が頷くようにウンと喉を鳴らす。どうやら彼にも、出会いの瞬間は忘れることができないのだろう。傍らにしゃがんでいる音無の足に擦り寄り、気持ちよさそうに目を細めていた。おねこの小さい額を撫でながら、懐かしい思い出を語るかのようにぽつぽつと語り出す。

「このアパートの隣、昔は小さい空き地があったんですよ。そこに野良猫が住み着いてて……」


×   ×   ×


 空き地に住み着いた野良猫は、母猫と産まれたばかりの仔猫が3匹。当時は道路に面した箇所はフェンスがあったから、安全だと感じて連れてきたのだろう。毛の色はみんな茶トラ猫でそれはもう可愛くて、近隣やアパート住人の癒しになっていた。当然ながら俺もメロメロになっていた。

 アパートに外付けされた横並びのエアコン室外機の間に誰かがベニヤ板を渡し、その下に誰かが高さの低いダンボールを置いて、また誰かが毛布を敷いていた。そこが猫家族の住処になったのは言うまでもない。いつの間にかアパートのオーナーがマンション横に小さい小屋を作り、中に猫用のトイレを置いて毎日掃除するようになっていた。地域猫ならぬ、アパート猫だ。

 悠々自適な社会人生活2年目を送っていた俺は、まだそこまで収入が安定していなくて、猫の家族みんなを引き取る財力はなかった。遠目に見ながら見守っていると、ある日不動産関係者らしき数人がその空き地を見に来ていた。

 なんとなく部屋の窓から眺めていると、会話中しきりに猫の小屋を指差していた。嫌な予感がしたけれど、その予感は的中してしまった。

 近くの企業が空き地を買取り、駐車場にする為の下見だった。アパートのオーナーはせめて仔猫たちが乳離れするまで、と嘆願したが、企業も企業側で一刻も早く駐車場の土地を見つけたかったそうだ。その企業の立体駐車場が老朽化のため改修する必要があり、仮の駐車場を近くに探さねばならないとのことだった。


「もしかして、その駐車場って」

「そうそう…うちの職場ですよ。俺も遠目に見ていただけだったから最初は誰だったか分からなくて」


 まさか自分の職場が自分の住んでいるアパートの隣に駐車場を作るなんて、当時は想像つかなかった。総務部の人達が何度も視察しに来て、猫の小屋をじっとみて、頭を抱えている姿を何度も見ることになるなんて。

 そのうち、アパートのエントランスに張り紙が出されるようになった。空き地は駐車場になるため工事が入るが、このアパートをペット可物件にし、野良猫達の里親を探すと。

 条件は3つ。ひとつ、最期まで共に暮らすこと。ふたつ、必ず去勢すること。3つ目は引渡し後、兄弟いつでも会えるような環境をつくるから、たまに遊ばせて欲しいこと。

「このアパートのオーナーは神か」

「ですよね…いつの間にか猫にメロメロになったんですって」

 そして、いつもトイレやご飯を世話していたオーナーにいつからかなついていた母猫は、オーナーが飼うことになった。仔猫2匹も乳離れ後、それぞれ引き取り先が決まって、最後に残っていたのがおねこだ。

「…何でまた…こんなにかわ…美しいのに…」

「それが、ぜんぜん人馴れしなかったんですよね。オーナーもかなり困ってて」

「んにゃっ」

「今じゃこんなベタベタなのになぁ?」

 当時のおねこは兄弟の中で一番体格が小さく、本当に凶暴だったけど、たぶん身を守るのに必死だったからなんだろう。そう思って会いに行くことにした。実家で猫を飼ってた経験もあり、1匹ならうちに迎えられる。

 でも俺はなんとなく、こいつと暮らすんだろうなと予感めいたものがあって、予め猫用のトイレとか寝床を準備していた。確かに何をしても背中を逆立てシャーシャーと威嚇するし、こっちを完全に敵扱いする。引っかかれても構わないからと指先を差し出すと、おねこは必死に噛み付いてきた。でも歯が揃ってないから、痛くは無い。そして自分よりも何十倍とデカイ奴に手を出されても、怯まずにいたおねこが眩しく見えた。

「おねこが口を離したその時からもう、うちの子だなって決まりました」

「…まさしく運命だな」

 桐生さんがおねこの顎下を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。もうすぐ成猫になる月齢だけれど、おねこの身体はまだ小さいままだ。ごはんは食べるし排泄もしっかりしてるので、生まれつきの体格だろうとかかりつけの獣医師が言っていた。おねこが健康なら、それで良かった。

 引き取り手が全員見つかってからは、あっという間に時間が過ぎた。オーナーの提示した条件の通り、アパートの2階エントランスは猫が逃げ出さないよう、二重扉になったキャットウォークに改造されている。オーナーの行動力には脱帽してしまう。

「本当に…美影と一緒になれて良かった」

「俺もおねこには助けられてるんです。……色々、ね」

 目と目が合うと、おねこは知らないフリをして大きく欠伸を漏らした。いつの間にか桐生さんの胡座の間にすっぽりはまり、目を閉じている。

「あっ……!お家デートってのもアリですよね?」

 俺が小声でそう提案すると、それでもいいかと桐生さんは笑う。

「…アリだな」

「俺、一度してみたかったことがあるんです」

 おねこを胡座に乗せた桐生さんの背中に周り、腕を回してぎゅっと抱きつく。温かくて思わず、俺も2度寝しそうになった。

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