ぼんやりと目を覚ますと、倦怠感や熱っぽさはまったく感じなくなっていた。
起き上がりトイレで用を足した後、すぐに寝室に戻ると未だに素顔を晒している光さんの姿が見える。再びベッドに乗り、横になってさっきまで見ていた夢の続きを思い返していた。
「……そういえば、そんなこともあったな」
俺と光さんが出会った懐かしい夢を見て、少し派手な天井の壁紙を見上げる。カーテン越しに窓の外から漏れてくる明かりは、朝が来たことを告げていた。ベッドサイドの目覚まし時計は鳴っておらず、朝の八時を指している。
あの日企業説明会に滑り込みで参加できたから、今朝があると思うと変な気分になった。だけど当時の俺は、合同説明会やインターンで話しをして惚れ込んだ女性の先輩職員しか見えていなかった。案内してくれた職員はちょっとかっこよかったな、なんて思うだけで、名前も何も知らなかったのに彼の忠告はちゃんと覚えていた。そのお陰で予定の確認ややらなきゃいけないことを忘れないようになったし、一次エントリーも忘れずに面接まで進むことができた。彼は俺にとって、就活の恩人でもある。
ここ数日で下の名前を呼び合うまでの関係にはなったけれど、職場では上司と部下である事に変わりは無い。俺しか知らない桐生光の色々な姿を知ったけれど、やっぱり「桐生さん」と呼ぶのがしっくりくる。たまに下の名前で呼んだ時の反応は…俺だけが知っていればいい。
一度離して再び桐生さんと繋いだ手のひらは不思議と汗ばんでいなくて、まだずっとこうしていたくなった。眼鏡を取って眠る無防備な素顔を見つめ、この顔も職場内できっと俺しか知らないのだと思うと変な気分だ。
まさか職場の上司と短期間に親密な関係を築くなんて、先週までの俺は全く予想できていなかった。普段仕事ができる憧れのかっこいい人は、笑うと可愛い表情を浮かべる。甘いモノが好きで、猫の下僕で、俺が知る上ではかなり昔から文才がある凄い人だ。そして足つぼマッサージにハマっている。
なんで一度小説を書くのを辞めたのか、そしてまた書き始めたのか、生田キリオの過去も桐生さん自身のことも分からない事だらけなのに。
なんでか俺は、彼に深く惚れ込んでいる。
「…光さん、朝ですよ」
「ん……」
身じろぐ寝顔にゆっくり声掛けて、綺麗な頬に軽くキスをした。昨夜のように寝込みを襲ったら、今度こそ叱られるだろう。
素肌が剥き出しのままの上半身と、規則正しく上下する胸元のあちらこちらには、明るい場所だとはっきり分かってしまう鬱血痕がくっきり残っていた。全部犯人は俺だけど、正直言ってすけべすぎる。
「…そろそろ起きないと、喰っちまうぞ」
桐生さんの耳元で、生田キリオの書く小説の台詞を呟く。聞こえているのかいないのか、艶かしい吐息が返ってきて思わずそこらじゅうにキスしたくなった。だけど傍から聞こえた一声に妨害される。にゃん、と抗議するような一声だ。
おねこはすっかり桐生さんになつき、首元や脇の下で丸くなって眠るようになった。薄情な奴、と思いつつも、やっぱり好きな人に懐いてくれるのは嬉しい。
「惚れ込んだ憧れの人は同性でした…なんてな」
ふと、自分で呟いた言葉に何か頭の中で閃いた気がする。
「にゃん?」
おねこが俺の考えていることを促すように一声鳴いた。
こうしちゃいられないと起き上がり、桐生さんの唇にキスを落としてからベッドを降りる。
リビングに設置している座卓の上でスリープ状態にしていたパソコンをたたき起こし、書きかけのまま上書き保存していた小説の編集画面を開く。
生田キリオ先生を真似するように小説を書き始め、コンクールに向けて書いていた話が途中で行き詰まっていた。書いているジャンルは恋愛ものだ。主人公のサラリーマンが相手となる年上の上司を、いつの間にか好きになってしまう動機が薄かった。だが、そのまま俺の感情で書いたら……。
設定を変更しなければならないけれど、妥協したままではいい作品は生まれない。
確かキリオ先生もそう言っていた筈だ。
「…おねこ、どう思う…?」
「んにゃっ」
俺の専属アドバイザーによる回答は、しっぽを横に振った肯定のサインだった。
「…書いてみるしかないよな」
ストーリーは最初から決まっていたのにうまく書けなくて、ファーストキスの感覚も分からず悶々としていた。それが急に書けるようになり、目の前の霧が急に晴れたような妙な気分だった。
ぎこちない触れ合いも、艶やかな初めての夜も、ふたりで迎える晴れた日の朝も男同士で越えていく。
キーボードを叩き、面白いくらいに増えていく文字の羅列と、この話のタイトルが少しずつ重なってゆく。締切までの日数はあと少しで、半ば諦めかけていたところに光明が差した気分だ。
「ふふ…まさしく、【おねこ様の言うとおり】だな」
× × ×
「……んん…?」
キーボードのタイプ音を耳の奥で微かに感じ、次第にはっきりと聞こえてきてからようやく、桐生光は目を覚ました。軽快な音は弾むように、滑らかなリズムを刻んでいる。それが恋人である部下によるものだと気づいて、ベッドに両手をつき上半身を起こした。
「美影?」
名を呼びかけても反応がなく、一心不乱にパソコンで何かを書いている。恐らく彼の思考や意識はそちらに傾倒しており、桐生が起きたことに気づいていないようだ。手探りで眼鏡を探し、装着するとゆっくりと足を床につけて、ベッド下に散らばっている衣服を身につけた。リビングの座卓前に座る音無の近くに歩み寄るがそれでも気づかない為、桐生はある悪戯を考えた。
背後に忍び寄り、後頭部越しにパソコン画面をちらりと見て顔を近づける。書いている文言は一字一句、揺るぎなく続いていた。
耳元に唇を寄せ、寝起きの低い声でそっと囁く。
「……おはよう、ミカ」
「ぶわっ!!」
音無は勢いよく驚いた拍子に座卓へ膝をぶつけてしまった。危うく画面の変な箇所をマウスクリックする所ではあったが、パソコン画面は微動だにしていない。一安心しつつ、あまりにもテンプレ通りの反応だからか、桐生は声を上げて笑っている。
「もーっ!起きたんなら起きたって言ってくださいよ…」
「おまえの名前を呼んでも気づかないからだ…。まぁ、小説書いているとそうなるのもわかるが」
「えっ!…それ…ほんとすか?」
「嘘をついてどうする…そんなことより洗面所借りるからな」
「あっ、ハイ。使い捨て歯ブラシなら棚の中にたくさんあります」
「一本貰うぞ」
そう言いながら桐生はトイレの横にある扉を開けて、全面鏡張りの洗面所に入る。相変わらず落ち着かないが、言われた通り棚を開こうとした。だが、音無がけたたましく洗面台の扉を開け、血相を抱えながら桐生の前に仁王立ちした。
「今度は何があるんだ?」
「いっ…いえ、なんでもないです!あの、俺も洗面所使いたくて」
「なら一緒に使えばいい。急ぐ必要もないだろ」
「その、ほら、アレです!その棚には機微情報が!」
「仕事で覚えたばかりの単語で誤魔化すなよ」
ニヤリと桐生が笑い、棚の扉に手をかけようとした。しかし、音無の顔色が青から赤に変わる様子に思い直したのか、扉の取手から手を離す。両思いと言えどまだお互いに知らないことばかりで、踏み入ってはならない箇所もあるのだろうと観念した。
「…じゃ、おれの分も歯ブラシ出してくれ」
「その…スミマセン」
「謝らなくていい。気にするな…おれも悪かった」
「桐生さんは悪くないです。だって…見られるのはちょっと恥ずかしいのが入ってるから…」
「わかったよ。何が入ってるか知らないが、見ない方が良いんだな」
桐生は洗面所の奥、浴室扉の前に向かい、その場で目を瞑って音無に背を向けた。
「…3分間だけ待ってやる」
「ふふ…あの悪役みたいなこと言わないでくださいよ。そんなに掛かりませんって」
桐生が苦笑いする声に安堵したように笑い、音無は戸棚の扉を開けて中を覗き込む。そこには音無がスマートフォンで撮り、引き伸ばして印刷した2L版の桐生の写真が一枚貼られていた。カメラの存在には気づいていないのか、自然に笑っている穏やかな表情だ。社員旅行の際に景色を撮ろうとして、たまたま近くに居たため慌ててシャッターを切った。他にも桐生から貰った「お疲れ様でした」と丁寧な文字で書かれた付箋や、一緒に出張に行った帰りに拾った綺麗などんぐり、実家を出る時に姉から貰って何度も読み返した生田キリオの短編集が置かれている。さながら宝が隠された祭壇のようになっていた。
「はぁ……ひかるさん、やっぱり今日もかっこいい…」
「お前は一度眼科に行ってきた方がいいぞ」
戸棚を閉める音と何かの袋を破る音が聞こえ、桐生が振り返るとすぐ側に音無が立っていた。
「はい、桐生さん」
「ん。あれ、歯磨き粉は…」
首を傾げつつ差し出された歯ブラシを口に咥えようとして、口を開くとそこに宛てがわれたのは音無の唇と、冷たく硬いものだった。
「…っ…!」
口の中に硬いものが押し込まれ、それがタブレットタイプのハミガキだと理解したのは音無の唇が離れてからだ。口の中にミントの清涼感が広がり、タブレットが口内の温度でじわりと次第に溶け出した。今度は先端を水で濡らした歯ブラシを手渡され、気が動転しつつもそのまま歯を磨く。
(い、今の…なんだ…?)
心臓が跳ね上がりそうになったことをひた隠しにして、素っ気ない表情のまま腕を動かした。すっかり復調した様子の音無も、自分の歯ブラシに歯磨きペーストを塗布しニコニコしながら歯磨きしている。どうやらタブレットタイプのものは、オープン予定だったブティックホテル時代の名残らしい。固形になっている為、長期間保管できる代物なのだろう。
「ひょうはとこにいひまふ?」
一足先に口を濯ぐと、桐生が笑いながら傍らのタオル掛けに掛けてあるタオルで口元を拭う。
「…濯いでから喋りなさい」
「んむ」
桐生に続いて洗面台で口を濯いでから、鏡で口の周りをチェックした音無が桐生の傍に近寄った。
「今日はどこ行く?マイハニー…かわいこちゃん?いや…イケメン彼氏係長…」
「…どう言われても笑っちまうからやめとけ」
「最近商業BL読んだりしてるんですが、なかなか熱くて参考になるんですね……でも俺の中で一番のお手本は目の前にいるし」
言いかけ、音無がじっと桐生の顔を見つめた。
「…今度はなんだ?」
「んー…たまには桐生さんの方からして欲しいな」
「……さっき散々しただろ」
桐生が恥ずかしそうにぷいと視線を逸らせば、音無はにっこり笑っている。
「えー?ナニをしたんでしたっけ」
「は…」
「ね、先輩、教えてくださいよ…」
「つ…都合の良いときばかり後輩の皮を被るんじゃない」
「俺はいつだって桐生さんの後輩ですし部下ですからね?」
「……」
桐生が音無の顎を無言で持ち上げ、顔を寄せる。ひゃ、と音無が小さい声を漏らすと、その顔は更に近づいた。
「…普通の部下にはこんなことしないだろ」
囁くように呟き、そのまま自分の唇を重ねた。