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第8話 思い出とキスの雨

5年前──


 桐生が中途採用職員として経理部に入社した翌年、未来の新卒職員を得るため、社内で開かれる学生向け企業説明会に各部から応援職員が招集された。桐生もその中のひとりで、多数の大学生が訪れる正面エントランスから会場への案内を任されていた。

 訪れた大学生は緊張している者、値踏みするように辺りを窺う者、まるで遊びに来ているかのようにはしゃぐ者など、多種多様だった。桐生は指示された通りの文言で学生たちを集め、エレベーターホールに向かう。エレベーターを呼び、学生が乗ったことを確認して会場階へのボタンを押す、そんな簡単な内容だった。会場階のエレベーターからは、現地の別職員が対応するので実質送り届けるだけだ。

 予め与えられていた参加学生名簿をチェックし、全員の到着確認をした後だった。

「す、すいません!東栄商事って、ここで…合ってますか…」

 エントランス入口に、息を切らして駆け込んで来た男子学生がいた。

 桐生は名簿の全員にチェックが入っていることと腕時計の時刻を確認しつつ、学生の傍に向かう。カジュアルなスーツ、前日染めましたとすぐに分かる黒染の髪を短く切った、何処にでも居そうな青年だった。

「弊社の企業説明会への参加でしたら、参加予約は終わっていますが…」

 決められた台詞以外の言葉を発したのは、それが初めてだった。愕然とする青年は、自分のスマートフォンを慌てて確認する。そして小さい声で呻き、頭を抱えた。

「…予約…取り損ねていました…」

「少々お待ちください。お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」

「東都大学三年の、音無美影です」

 今にも泣き出してしまいそうな彼を見兼ねた桐生は、社内用携帯電話で採用担当者に連絡を取る。今しがた聞いたばかりの名前を伝え、企業説明会に飛び入り参加の可否を確認した。すると、予想していなかった答えが返ってくる。

『音無さん…あぁ!先日の合同説明会にも来てくれた学生さんですよ。会場までお願いします』

「…承知しました」

 通話を切り、説明会に参加できると学生に告げ案内を続ける。最後の学生案内になる為、桐生も一緒にエレベーターに乗り会場まで案内することとなった。彼は相当喜んでいて、どうやら力になれたようだと僅かに嬉しくなった。

「ま…間に合って、良かった…」

 ぽつりと呟く声が聞こえれば、桐生は穏やかな口調で言葉を返す。自分の就活時代を思い出し、ふと懐かしくなったからだった。

「次回の…インターンシップに参加されるのであれば、予約確認は確実にお願いします」

「はいっ!あ、あの…ありがとうございます!」

「いいえ。とんでもございません」

 エレベーターは会場階に到着し、扉が開かれると同時にすぐ歩き出す。

 企業説明会の会場は既に満席で、時刻は開始一分前だった。ぽつんと置かれていたパイプ椅子まで導き、学生は小さく桐生に会釈する。

 桐生がその場から後退すると同時にチャイムが鳴り響き、演台に採用担当の女性職員が立った。

「それでは時刻になりましたので、これより東栄商事企業説明会を行います」

 凛とした声がマイクを通して響き渡り、学生全員が前を向く。この中に果たして未来の後輩は居るのだろうかと、桐生は他人事のようにその様子を見ていた。

 そしてこの日に聞いた学生の名前を、翌日にはすっかり忘れていた。


 2年後、同じ名前を聞くまでは。


×   ×   ×


「……音無?」

「俺はずっと…憶えてたよ」

「にゃっ」

 おねこが飛び上がる気配の後、急に視界がぐるりと一回転した。気が付けば自分の背中は柔らかいものに包まれ、目の前には思いを拗らせている相手の顔が間近にいる。今の状況がうまく飲み込めず、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。

「光さん…俺のこと、名前で呼んで」

 熱を含んだ声と、窓から差し込む夕日の紅に照らされた表情に釘付けになる。やはり彼は自分より若いのだと、桐生は思い知らされた気がした。十歳も違うのだから、体力が桁違いなのも当然ではある。彼には病み上がりでも自分をベッドに押しつける体力があるのだから、無駄な抵抗は止めようと自分に言い聞かせ、桐生は熱い息を大きく吐いた。自分から求めるのは恥ずかしいけれど、自分を好いていると言った彼になら、身を委ねても良いと思う。それでも今は彼の体調の方が心配になった。

「美影…」

「…今からあなたをめちゃくちゃにしたい」

「ははっ…何を言って…おまえ、病み上がりだろ」

 そう言っている最中にも関わらず、音無は桐生の身体の上に跨った。桐生が着ているシャツのボタンを首元からひとつずつ外していく。指先が震えているのが見て取れて、桐生は僅かに口元を緩ませた。音無の逞しい腰に手を這わせ、宥めるように撫で擦る。

「ほら、焦らないでいいから」

「…う…」

「おれは逃げないって言っただろ。今は休んでおけ…」

 音無の背中を両手で引き寄せ、自分の身体に重ねる。音無は甘えるように桐生の胸元へ頬を擦り寄せ、シャツからはだけた白い素肌に弱々しく口付けを落とす。そして左胸に耳を当て、にこにこと笑った。少しだけ隆起した薄紅に爪先で弾くように何度も触れる。

「…っ…」

「光さんの心音、おっきくなってる」

「……当たり前だろ。その…初めてなんだから」

「ふふ、そっかぁ」

「何がおかしい」

「俺も…一緒だから」

 そう言いながら桐生の胸元にある小さな飾りを指先で摘み、捩ると桐生の口から小さい声が漏れた。更にくすぐるように指先で弾いて桐生の反応を伺えば、口元を手のひらで隠し何かを必死に耐えていた。

「…美影…」

「うん?」

「俺でいいのか」

「光さんじゃないとやだ」

 音無が駄々をこねるように唇をとがらせると、桐生はつい笑ってしまう。

 その気持ちは痛いほど分かった。恐らく、自分も音無美影でなければいけないのだろうと思っていたから。


×   ×   ×


 おれ自身、過去に誰かを好きになった経験が無い訳ではない。

 初恋は中学生の時だった。しかし、叶う事なく終わった。相手は異性ではなく、同級生の男子だった。

 自分はもしかしたら変なのかも知れないと思った、そんな時だ。書店で見掛けた雑誌に掲載されていた耽美小説との出会いが、おれの人生を大きく変えた。学生時代、頑なに自分の恋愛対象を隠し続けたが、自分とは違う人物としてなら、自分の理想とする恋を小説と言う形で曝け出せることに気が付いた。


 きっかけなんてのは些細な事に過ぎない。こうして、男性同士の恋愛模様を書くオリジナル同人小説家『生田キリオ』が生まれた。ペンネームは適当に考えて一度棄てたつもりだった。それでも今では、それなりに愛着はある。

 自分だけのウェブサイトを立ち上げ、生田キリオでいる間は少しずつかたちにしてきた話を掲載し、ほぼ自己満足で終わると思っていた。しかし宣伝していた訳ではないが、口コミが次の読者を呼び込んだらしく、数多くの読者がHPの掲示板に感想を残してくれた。そこには桐生光なんて冴えない男子学生はおらず、同人作家『生田キリオ』の小説に魅了され、書籍化を切望する沢山の声があった。当時おれは大学生で、アルバイトで得られる収入には限りがあった。自費出版の同人誌としてなら発行は可能だが、少部数しか印刷できないだろう。熟考し、幾多もある印刷会社を調べて最安値で印刷できる店を見つけた。そしてある程度書き溜めた小説と、書き下ろしを加えた短編集を少部数だけ発行することにした。

 入稿する時に手が震え、本当にいいのかと何度も自問自答した。それでも初めて自分の紙の本が手元に届いた時、両手に持って自分の胸元に抱き締めたくらいだ。今思えば相当恥ずかしいが、自分で何かを作ったことがある人なら一度は経験する道なのかも知れない。

 Webサイトに通販の案内と、注文を集約するための仲介サイトへのリンクを貼ってその日は早々に寝てしまった。すると何時の間にか在庫が無くなり、本を保管していた倉庫からの在庫確認メールにおれは自分の眼を疑った。

 以降、何度か同人誌を発行したがどれも在庫が残らないようにと少部数の発行で、それでも少しずつ印刷数を増やした。バイト代に少しだけ、本の収入が加算されたからだ。

 音無がどのタイミングで生田キリオを知ったのかは分からない。もしかしたら、とうに閉鎖したサイトを長い間探し回ったのかも知れない。試し刷りで売り物にならない本を棄てられず、手元に残していた分を全て彼に渡したのは本に対する供養でもあった。そのまま残しておいても、日の目を浴びず最後は燃えないゴミになってしまうのだから。


 おれの残した本で彼に喜んで貰えるなら、それだけで良かった。


×   ×   ×


 桐生の異性に対する感情は、友情以上のものに発展することはなかった。桐生光が音無美影に出会うまでの長い間、その感情は揺蕩う雲のように転々と流れては消えていく。そんな道を歩み続け、いつしか誰かを好きになることさえ億劫になっていた。

 執筆活動の傍ら大学を卒業し、就職したのは文芸雑誌の編集部だった。文章を書くことが高じて本格的に作家を志していたが、まずは雑誌のライターから始めることにしたのだ。

 しかし配属されたのは所謂ゴシップ雑誌の編集部で、取材する内容や執筆する記事は桐生が希望していたものとはかけ離れていた。

 巷で騒がれている芸能人の噂、人気の風俗店、カップルに人気のラブホテルなど、桐生からすれば興味の欠片も湧いてこなかった。しかし仕事となればやり遂げなければならず、死にもの狂いで取材し、書き続けた。この時の取材が、後に生田キリオの作品にも生かされるようになるのだが、数年経過して雑誌記者は性に合わないと転職を決めた。


 その後は雑誌の取材で赴いた、繁華街の片隅にあるバーに身を寄せることにした。オーナーと話している間にその店と、バーテンダーの仕事に興味を持った桐生は、オーナーの『桐生さんなら何時でも店員として歓迎するよ』との言葉に縋る形で裏口の扉を叩いた。当初驚いていたオーナーは快く受け入れ、桐生を新人スタッフとして雇った。その店は異性同性問わず恋をし、恋人となった客たちが訪れる場所で、この店がきっかけで結ばれたカップルも少なくない。よくデートに来る恋人たちとは顔馴染みになって、様々な悩みを聞いては相槌を打ち、とりとめもない会話をした。人と接する事を得意としていなかった桐生にとって、この店での仕事は不思議と苦ではなかった。時には楽しく、また刺激にもなり、桐生のことを生田キリオだと知って驚き、泣いて喜ぶファンも偶にいた。一からバーテンダーとしての資格を勉強し、それまで苦手だった酒を少しずつ克服することもできた。

 そして、最初で最後に経験する接客業となった。


 音無と昼間ファミレスに行った帰り、遭遇した人物はこの店での同僚だった。桐生が勤めていた当時、桐生に惚れていたようで、フロアスタッフとして勤めていた彼から猛烈なアプローチを掛けられたものの、はっきりと断っていた。オーナーが制止しても諦めが悪く、辟易した桐生は自分から居心地のいい店を去ることにした。それ以降、桐生の前に現れることはなかった。偶然にも桐生が音無と一緒に居る所を見られてしまったが、今後会う事はないと願いたくなる。昼間、音無が見せた引き攣ったような表情をもう二度と見たくはないから。

 二度目の転職活動と同時に創作活動を休止し、もう一人の自分である生田キリオに別れを告げた。桐生は当時二十八歳で小説家になる道を諦め、Webサイトを閉鎖し、以降は次の仕事に生きると決めたのだ。

 それまでの自分に別れを告げつつも、忘れることができないでいた経験…本を作るという仕事に携わるのだと。

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