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第7話 微睡みと初めての…

 もう隠す必要はないだろう。


 張り詰めたような緊張と肩の荷が降りて、少し身が軽くなった気がした。

 あまりいい恋愛経験をしたことがない桐生にとって、音無美影は眩しく輝く、憧れのような存在だったから。今まで素っ気なくしていたのも、上司と部下の関係性を壊したくなかった為だ。それがまさか両想いだなどとは想像できず、それでも今こうして彼の自宅に来ているのは紛れもない現実だった。

 紙袋を抱える泣き疲れた音無を彼の部屋まで送り、玄関先に佇んでいたおねこを見つけると思わず顔を綻ばせた。彼はまるい眼を輝かせ、桐生の顔をじっと見つめて何か考えているような表情を見せている。桐生がしゃがみ、おねこの顔の前に指先を差し出すと匂いを嗅いで一声鳴いた。

「…これは…歓迎されているのか?」

「歓迎と言うよりも構って、かなぁ。あっ……です、よ」

「別に構わん」

「え?」

「……二人だけの時だけなら」

 桐生は恥ずかしいのか顔を俯かせ、おねこをひたすら撫でている。音無はそんな彼の頭をわしゃわしゃと撫で回した。 

 屈んでいる背中を抱きしめたくなる衝動に抗う。

「あーっ……かわいい…可愛いよキリオさん…」

「馬鹿なことを言うんじゃない…。おれは帰るぞ」

 呆れたように言い返すと、惜しむようにおねこから手を離してゆっくり立ち上がる。そして俯いている音無の顔を覗き込んだ。

「…どうした?」

「あっ、いや、その…なんでもな…」

「…言いたいことがあるなら、言いなさい」

 特に何かを言ったわけでもないのに、音無は顔を真っ赤に染めて桐生を見上げた。諭すような口調に上司と部下というよりも、先生と生徒のようだと思いつつ実感してしまう。表情に乏しく仕事だけは器用にこなせるこの男に、大層惚れているのだと。

「えっと、その……」

「なんだ」

「俺、と……付き合って…くれます、か…?」

「何で今更おれに聞くんだ」

「いや、だって…」

 桐生は呆れたように返して、音無の後頭部に手を伸ばす。指先に彼の茶髪を絡ませて手遊びしながら、音無の言葉を待った。

付き合う、となると二人きりでいる時間がこれから少しずつ増えていくのだろうかと思い、桐生は嬉しいような煩わしいような、複雑な心境だった。誰かに見られてはいけない、誰にも教えることができない恋人を持つことの何と背徳的なことか。

「…元よりそのつもりだったんだろ?」

「んぐ」

「まぁ…おまえが俺ではない別の誰かに惚れるまでは一緒にいよう」

「それは断固としてないです」

「…誰が誰を好きになろうと自由だと言ったはずだ。私生活と仕事を分けてくれさえすれば、おまえに愛想尽かされたって…おまえが幸せなら、おれはそれで構わない」

「…やだっ!…そんなこと言わないでください…!」

「音無、」

「電話で言ったこと、もう忘れました?」

「…何を…」


「俺があなたを口説くってことですよ」 


 音無はそう言いながら桐生の身体を薄暗い玄関の扉に縫い止めて、爪先立ちになり顔を近づけた。桐生の喉仏がひく、と動いて、咄嗟に目を瞑ってしまう。もう少しで互いの唇が触れそうになる寸前、突然音無が桐生の首筋へと顔を埋めた。そのまま、匂いを嗅ぐように鼻先で首筋をなぞる。

「おい、何を」

「…いい匂いがする…」

「あぁ…?多分、柔軟剤変えたからだろ」

「そうじゃなくて、ひかるさんの匂い」

 桐生のシャツの襟元に顔を預け、額を押し付ける。足元がふらついてしまい、桐生の身体に寄り掛かった。様子がおかしいと感じた桐生は音無の身体を両手で支え、頬で彼の額に触れる。先日の昼間と同じくらいにその肌は熱く、些か呼吸も乱れていた。

「…おまえ、熱がぶり返したんじゃないのか?」

「へ?」

「へ?じゃない、すぐに寝なさい」

 音無の靴を脱がせ、自分も靴を脱いで彼の肩を支えながら部屋に入る。足元でおねこがくるくると回り、飼い主を心配そうに見上げていた。

「うにゃあ」

「…おねこ様…少しお待ちください」

 おねこを踏んでしまわないよう、細心の注意を払ってやっとのことで寝室に向かう。ベッドの上に音無の身体を座らせて、握ったままの紙袋を離させてベッド脇に置いた。

 そして、音無が着ているサロペットの肩紐を外そうと金具に手を掛ける。肩紐が外れると、シャツのボタンを首の方から数えて幾つか外して胸元を緩める。少しばかり彼の呼吸が落ち着いた気がした。

「寝やすい服に着替えさせたいけど、とりあえずこれで少しは楽になるだろ」

「…うん…」

 ゆっくりとベッドに横たわらせ、音無の額に手の甲を当てた。やはりぶり返したらしく、熱がある。

「…早く帰らせるべきだったな…すまない。すぐに体温計と氷枕持ってくるから」

「あい」

 テーブルの上に出されたままになっていた体温計と、冷凍庫の中から入れっぱなしになっていた氷枕を取り出す。氷枕には洗濯物干しに掛かっていたタオルを取り外して巻きつけ、すぐに音無の傍へ向かった。

「…ほら、頭少し上げて」

 ベッドに横たわる音無の頭を持ち上げ、後頭部に氷枕を宛てがう。

「すいません…」

「これも。体温、測ってみろ」

「はい」

 促されるまま体温計を手にして脇の下に挟み、額に触れる冷たさに目を細める。いつの間にか桐生が音無の前髪を掻き分けて、冷却シートを額に貼っていた。

「…おまえが寝たら帰るなんて言わないから、ゆっくり休め」

「へへ…キリオさん、やさしい」

「…おまえにそう呼ばれていたら、案外悪くないと思うようになったよ」

 肩を竦めて苦笑いを浮かべ、音無の頭を軽く撫でた。すると「自分も撫でろ」と言わんばかりにおねこがやってきて、桐生の手の平に頭を擦り付ける。フワフワとした手触りに桐生は一瞬顔を綻ばせたが、おねこは気持ちよさそうに目を細めて音無の首元に丸まった。

「ほら、おねこ様も心配していらっしゃる」

「そう…?おねこもキリオさんがきっと好きなんだよ」

 んにゃ、と一声鳴いたおねこが桐生の左手に鼻先を押し付け、まるで肯定するかのように甘噛みする。イテ、と小さく声に出しながらも桐生はおねこにされるがままになっていた。

 音無の脇の下に挟んでいた体温計のアラームが鳴り、桐生が取り出すと液晶表示は三十八度を示している。

「…やっぱりな…おまえ、無茶し過ぎだ」

「すいません…浮かれてました」

 力無く笑ってから、音無が桐生の手を求め布団の上を探る。それに応えるよう、桐生の右手がその手を握った。

 両手に華、とはよく言ったものだが、生憎と音無もおねこも生物学的に雄である。

「……桐生係長から桐生さんになって、生田先生になって、キリオさんになって…さっきひかるさんって呼んだ時、ちょっと興奮した」

「ふふっ…なんだそれ」

「桐生光を独り占めできるの、今のとこ俺だけなんだなって実感してたからさ…へへ」

「……二人だけの時にいくらでも呼んでいい」

「うん…そうする…、俺、寝るね……」

「ああ」

 音無の瞼が次第に下がり、完全に閉じられる。やがて穏やかな鼻息が聞こえると、桐生は彼の顔に触れそうなくらいまで顔を近づけ、額同士を当てた。音無の額に貼った冷却シートだけが二人を阻んでいる。


「すまん…。おれも…これから美影を独り占めできるのか…?」


 これが最後の恋でありますように、と思いながら、音無の寝顔を見つめて火照った手の平を強く握る。

 自分からはまだその勇気が出ないので、冷却シート越しに口付けを落とした。


×   ×   ×


 熱をぶりかえしたのは自分の体調管理の所為なのに、桐生さんが何度も謝罪する言葉が聞こえていたように思う。

 そしてとても温かいものが触れていた。それはおねこの体毛じゃないし、布団や毛布でもない。


 さっきの、は、もしかして…。

 浅い眠りの最中、あれだけヒヤリとしていた後頭部がぬるくなって目が覚める。さっきより比較的スッキリした頭で辺りを見渡すと、メガネを外しベッドに両腕を置いて、横向きで伏せ寝している光さんが視界に入った。おねこは光さんと俺の間に割り入るように、ベッドに丸まって寝ている。額の冷却シートも熱を吸い取って随分温く感じ、自分で取り替えようと上半身を起こした。

 光さんの寝顔を見るのはこれで二度目だけど、あの日よりも無防備に見える寝顔はとても優しげだ。長い睫毛に整った眉、俺より年上だとは見えない綺麗な白い肌。そして清潔さを感じる黒髪は、眉目秀麗と言う言葉がしっくりくる。これで何で恋人がいないのか分からないくらい、俺にとっては理想のひと。今まで女性でも男性でも、俺が好きになった人は恋人にしたい人だった。

「……光さん…?」

 穏やかな寝息を立てて眠っている、光さんの顔をまじまじと見る。

 かなり疲れさせたのだろうと思い、申し訳なく思いつつ…冷却シートを剥がした額を、光さんの額に当てた。

 こんな至近距離で見ていたら、余計熱が上がってきそうで。寝込みを襲うようなことはしたくない、けど、あんな寸止めはズルすぎる。あの瞬間も、実はぜんぶ分かっていた。

「…光さん……どうせなら唇にして、よ」

 一向に起きる気配がない光さんの顔に被さるように顔を寄せて、額、瞼、鼻先と唇で軽く触れる。自分の心臓が滅茶苦茶速く動いてるのがわかって、どうしようもなく痛い。

 告白してからキスするまで、早すぎるとは分かってもこの衝動を自分で止めることはできなかった。何度、この人の唇に喰らい付いて吸って舐めて、どろどろに溶かしてやりたいと思ったことか。絶対に表に出してはいけない欲望が、熱と一緒に振り返っていた。

 少しだけ顔を上向かせて、啄むように唇を重ねる。ふに、と形を変えるそれはとてつもなく温かで、想像以上に柔らかい。

「ん…んむ…」

 これ以上は歯止めが効かなくなりそうで恐くなる。もっと欲しい、けれど今はまだ駄目だ。ちゃんと起きているときでないと。

 そう思って唇を離そうとしたのに、急に離れなくなった。

「きりゅ、さ…」

「っ…」

 何が起きたのか一瞬分からなくなる。

 寝ていた筈の光さんが、俺の後頭部に両手を回して…唇をぬるりとする感触が撫でた。光さんの舌だ。

「ふ…んぅ…!」

 柔らかく、温かいそれを独り占めしたくて、無我夢中でもっと欲しいとねだり、唇を開いて求めた。光さんの後頭部に、俺も手を伸ばす。

「…!」

 ちゅっ、と小さな音が立って、唇が離れた。

「…おはよう、みかげ。…元気になったか?」


 少しだけぼーっとした、光さんの目と目が合った。

 顔から火が出る、とはこのことに違いない。そう確信できるくらいには何もかもが熱くて、光さんの身体をベッドに引き上げようとした。桐生さんは微かに笑いながら、俺にされるがままになってベッドに這い上がるように乗ってくる。ぎし、とフレームが軋む音がした。

「っ…なんだよ、元気になり過ぎたか」

「あぁ……光さん…駄目だよ…」

 もう、我慢の限界だ。

 まさか自分がこんな感情を抱くなんて、あの頃の俺は思いもしなかっただろう。

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