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第6話 既刊誌とオムライス

「そういや季節のメニューがあるんだっけな……」

「昨日はハヤシ食べたから……」

「今日は麺にするか」

「あっ」

「ん?」

 まるで心を読まれているみたいだと、音無は少し嬉しくなった。今朝熱が下がったばかりなのに、また上がりそうな気がしてしまう。紙袋を持った桐生と横に並び、駅を出て坂を昇る。音無の住んでいるアパート近くにある、商店街に向かった。揚げたてコロッケの匂いが漂う肉屋、焼きたてパンの店、敷居の高そうな寿司屋、手頃な価格で人気のカレーライスチェーン店まで。比較的何でも揃うこの通りは、美容室、スーパー、カフェと古くから続く沢山の店がひしめき合った、賑やかな場所だ。

 オフィスビルが並ぶからなのか、平日のランチタイムは昼休みの会社員たちでひしめきあう場所だった。

 割引券に書いてある件のファミレスは、この商店街に並んでいる。

「…近くにあるのは知っていたけど…初めて来た」

「そうなんですか?」

「大体職場と自宅の往復だからな…買い物は自宅近くのスーパーだし、今は通販で何でも買えるだろ」

「そっか…桐生さんも一人暮らしですよね」

「ああ。今の社宅に引っ越してからは変わっていない」

 少しずつ分かっていく桐生の素顔に、音無は心做しか浮き足立った。同じ職場の中にいるだけでは全然知らなかったことが、次から次へと顕になる。まるで捲っても捲っても消えない玉ねぎの皮のようだと思いながら、陳腐な例えに僅か苦笑いを浮かべた。

 まだ、自分たちは付き合ってすらいないのだ。ここで舞い上がっていてはいけないと、平常心を取り戻して会話を続けながら店先を眺めて歩く。美味しそうな食品サンプルが軒先に並んでいる店が見えた。割引券に書かれている店の名前を見つけ、足を止める。

 テレビや電車の広告でよく見かける看板を見上げ、自動ドアのスイッチを押す。いらっしゃいませ、の掛け声と共に、少々お待ちくださいと電子音声のアナウンスが流れる。入口のすぐ側には待合席と来店予約を確認する電子機器が置いてあって、音無が慣れた手つきでタッチパネルを操作する。桐生はその間、膝上に荷物を置いて待合席の椅子に座っていた。

「…ここにはよく来るのか?」

「まぁ、近所なんで…前はしょっちゅう通ってました。おねこがうちに来てからは、あまり外出しなくなりましたけど…」

「そうか」

 来店予約機から吐き出された、予約番号の感熱紙をヒラヒラさせながら音無が言う。すると間もなくして、忙しそうな店員が2人を出迎えた。

「いらっしゃいませー!801番でお待ちの2名様!」

「はぁい」

 音無が返事すると、桐生が荷物を持ち上げ音無の隣に並んだ。窓際の席に案内されて、桐生と向かい合わせの座席に座る。冷たい水とメニュー表が運ばれ、店員に小さく会釈する桐生の横顔を見つめた。音無は何だか急に緊張してしまうようで、ぎこちなく両手を膝の上に乗せる。ちら、と目線を動かしても、大体向かいに座った上司が視界に入って来てしまう。瞬きを繰り返しそわそわと視線が泳ぐと、まっすぐにこちらを見てくる桐生と目が合った。

「…どうした?」 

「いや、だって、桐生さんかっこ良すぎますし…」

「はぁ?……そんなことはないだろ…」

 明らかに狼狽えてるのを見て、何てことを言ってしまったのだろうと音無は少し後悔した。天井を仰ぎ、深呼吸する。

 平常心を忘れないように頭の中で円周率を唱え、QED!と謎の呪文を呟き自分を必死に落ち着かせた。

「す…すいません…なんか今日の俺、変ですね」

「いや…多分、おれも変だから」

「えっ?」

「そ、そんなことより…メニュー、見ていいか?」

「あっ…ハイ」

 メニュー表を手に取ろうとした瞬間、桐生の指先に手が触れて思わず音無は腕を引っ込めた。先程まで平気で握ったり揉んだりしていたのに、何故か急に恥ずかしくなる。こんな状態でスイーツバイキングに行けるのか、少し不安になってしまった。

「…とりあえず、そっちは音無が先に見ればいい」

「はい」

 桐生はメニュー表とは別に添えられている、ラミネート加工された季節メニューを手にした。それに記載されている、季節限定のパスタをじっと見ている。通常メニューをパラパラと見た音無も、それとオムライスのハーフサイズセットにすることにした。どれだけ緊張していても、腹が減るのは抑えられない。呼び出しブザーのボタンを押して、店員が来るのを待つ。冷グラスに入った氷が溶け、カランと涼やかな音を鳴らした。

「……あの」

「あのな」

 同時に口を開き、互いに顔を見合わせて口を噤む。音無が両手で顔を覆って肩を震わせ、擦り切れそうな声を出した。

「……桐生さん」

「ん」

「2人だけの時はキリオさん、って呼んでいいですか?生田先生だと、緊張して息が止まりそうで…」

「それは困る。まぁ…何でも好きなように呼んでくれ」

「でへへ…やったぁ」

 音無はグラスに口付け、水を数口飲む桐生の唇を食い入るように見つめる。心臓がトクトクと音を鳴らし、こんな思いになるのは本当に久しいように思った。

「……そうだ、渡したいものって…」

「それは」

「お待たせしました、ご注文をどうぞ」

「っ…」

 肝心なところを聞く前に、店員の来訪で変な空気の流れが変わった。もどかしいような、助かったような妙に燻ってしまう感情を押し殺し、桐生は季節メニューを指さして注文する。

「…しめじと鮭のクリームパスタ、ドリンクセットひとつ。食後にホットコーヒーでお願いします」

「あっ、えっと…パスタグラタンの、ハーフオムライスセットひとつ!」

 店員がにこやかに笑い、復唱すると音無はちらりと桐生の顔を見た。言葉にしてはいないが、よく食べる奴だなと顔に書いてある。

「…飲み物はいいのか?」

「あ、えっと…オレンジジュース、追加で。俺のも食後に…」

「かしこまりました」

 店員がメニューを手に下がる瞬間、桐生が笑いを堪えるように俯く。

「……わかってるんですよー。自分の味覚がお子様だって」

 不貞腐れて唇を尖らせる音無の表情に、桐生はとうとう我慢できずくすくすと笑みを零す。そして顔を赤く染める、音無の頭をそっとこづいた。

「いや…すまん。オムライス、美味しいよな。つい…。気にするな」

「は…えっ!?」

「…そう言えば、音無も季節メニューにしたんだな」

「あっ、そうなんですよ!パスタとグラタンが同時に食べれるって最高じゃないですか!」

「ついでにオムライスも、だろ?」

「へへ…よくお分かりで」

 他愛のない言葉を交わし、音無が冷水を飲み干してグラスが空になると、水を追加しに来た店員と同時に桐生の注文したメニューを持ってきた。

 すぐに音無のパスタグラタンセットもやってきて、チーズの焼ける香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。空きっ腹が悲鳴を上げている。

「音無」

「ん?」

「一口ずつ、交換するか」

「いいんですか?!」

 音無は手をつける前で良かったと、自分で自分を褒めたくなる。オムライスを1口分、スプーンに乗せて桐生の皿の傍らに置く。桐生もスパゲティにソースを絡め、鮭の切り身を乗せてから音無の皿に添えた。思わず顔を見合わせ、両手を合わせる。

「「いただきます」」


× × ×


 くるくると変わる仕草と表情。同じ居室に立っている印象とは違う、素のあいつを垣間見ることができるなんて思いもしなかった。

「…うまい。卵がふわっふわですよ」

「ん…楽しみにしてる」

 無性にパスタが食べたくなって、注文したメニュー。フォークで巻き取り、1口頬張る。鮭とクリームの仄かに甘い匂いが食欲をそそり、パスタは硬すぎず柔らかすぎず丁度いい。うまい、と考える前に口にしていた。

「はぁ~…久しぶりだけどうまいな…この店」

「ああ、ファミレスも伊達じゃない」

 グラタンを掬ったスプーンを口に運び、ニコニコとしている顔は幸せそうに見える。昨日の昼もだが、音無は美味そうによく食べて、よく笑う。そしてよく喋る。それはもう、うるさいくらいに。

「どうしたんですか、キリオさん」

「いや、何でもない」

「そうですか?パスタは熱いうちに食ってこそですよ。このグラタン、ソースうまいなぁ…あ、この後、どうします?」

 口に入れたばかりのしめじが口から出そうになる。渡したいものを渡すことだけを考えていたおれは、もしかしたらと予想できたのはここまでだ。昼を食べた後のことなど、何も考えてはいなかった。

「どう、って…何も予定はないけど…」

「そ、そうですよね…!すいません、」

「いや……、」

 おれは…彼をどうしたいのだろう。

 叶うことなら…とは思うが、食事に誘ったのも…この機会を無くしたら後が無さそうで、なんてただの口実に過ぎない事は自分でも分かっている。休みが明けたらまた仕事が始まり、上司と部下に戻るだけなのに何を期待している…?

 漏らしそうになった溜息を、慌てて鮭の切り身と一緒に噛み砕き飲み込んだ。

 音無から貰ったオムライスは、やさしい味がした。


× × ×


 キリオさんの表情が一瞬、翳ったような気がした。でも、変わらずフォークは動いていたからきっと気のせいだろうと自分に言い聞かす。

 オムライスはふわふわで、デミグラスソースに絡めると極上の味わいが口の中に広がる。パスタグラタンも初めて食べたけど、クリームソースがパスタに絡んでカリカリに焼けたチーズとの相性は抜群だった。久しぶりにこの店に来れて、キリオさんに昼メシを誘って貰えて良かったと心から思う。 

 キリオさんとこの店に感謝して、手を合わせごちそうさまでした、と挨拶する。当然ながら皿の上には何も残っていない。差し出されたものを残さず平らげるのは、子供の頃から身に染みている音無家の家訓だ。

 キリオさんのパスタ皿も、綺麗に空っぽになっている。

「はぁ、満足…!」

「天気もいいし、店を出たら…少しぶらつくか?」

「はい!」

 行く宛てもなくブラブラするのが好きだったから、キリオさんの提案はとてもありがたかった。腹ごなしの運動にもなるし、最近の休日はずっと籠りきりで、軽く動いた方が良さそうだ。そろそろ腹回りが気になってくるし…。

 近くにいた店員を呼んで飲み物を頼むと、空いた皿が片付けられてテーブルの上が綺麗になる。

「……そうだ、これ」

「へ?」

 綺麗に拭かれたテーブルの上に、気づけばキリオさんが持っていた紙袋が置かれている。そう言えば、渡したいものって何だったのだろうと首を傾げた。

「…開けたらわかる」

「え、いいんすか…?」

 恐る恐る、閉じられた紙袋を手にする。開けたらそこにはめくるめく世界が広がっていて…、なんてことを考えていたら指先が少し震えた。

「……あっ………」

「多分、持ってないだろうと思ってな…この間、部屋の掃除をしたら出てきたから」

 紙袋の中には、生田キリオがかつて発行した同人誌が沢山入っていた。子供の頃に読んだものから、パソコン画面の中で表紙しか見たことの無いものまで。長編シリーズの『千夜紀行』全5巻に『ルカとベロニカ』三部作、遺作とされている『最後の男』も入っていた。ファンなら涎が出るくらい欲し、読みたいと思うものだ。一次創作が殆どだけど、中には二次創作の小説まである。俺が中学の頃、追いかけていた作品だ。どうやら小説アンソロジーのようだった。

「えっ、あ、あの、これ」

「……いらなくなったら、燃えるゴミに捨ててくれ」

「何言ってるんですか!一生大切にしますよ!」

 思わずテーブルを叩く。そんなことするわけが無いのに。

「……いや…注意事項としてだな…念の為に…」

「あっ……すいません……」

 周りにいる客たちからも視線を浴びて、恥ずかしくなる。キリオさんも耳まで真っ赤になっていた。そんなタイミングで店員が来るなどと思わなくて、慌てて紙袋を持ち上げテーブルの上から俺の膝上に乗せた。

「お待たせしました、ホットコーヒーとオレンジジュースです」

「…ありがとう」

「どうも」

 オレンジジュースのグラスにストローを刺しながら、ちらっとキリオさんの表情を伺う。黙ったまま、コーヒーにミルクと角砂糖を2つずつ入れてスプーンでかき混ぜていた。

 確かに、プレミア価格がついてる同人誌が山のように入ってるから…もしかしたら、って考えるのは当然なことなのだろう。でも俺にとって、この一冊一冊が本当の意味で宝物だ。大金を積まれても売り払うわけが無い。

「…そんなに喜んでくれるとは思わなかった…持ってきて正解だな」

「むしろ…いいんですか?」

「ああ。既に通販もしていないし、自分の手元にあるよりも…喜んでくれる人の元に行って欲しいから」

「……ありがとうございます…あの、もし良かったらサイン貰えますか?」

「っ…!」

 キリオさんが飲みかけの珈琲を吹き出しそうになって、慌てて紙ナプキンを差し出した。

「サインって、なぁ…おれはプロじゃないんだぞ」

「いいんですよ!またとない機会ですし…!」

「…なら、ちょっと待ってろ」

 キリオさんがバッグの中からボールペンを取り出して、一番上にある冊子に手を伸ばす。寄宿学校で繰り広げられる淡い恋愛模様を描いた『ルカとベロニカ』の1巻目だ。表紙をめくり、中表紙にあの原稿用紙と同じ筆跡で「生田キリオ」と書いてくれた。俺に差し出して見せてくれて、少し恥ずかしそうに紙袋の中へ再び仕舞った。

 まさか自分が追いかけてた作家から、直接本を貰うなんて思わなかった。なんていい日なんだ。

 喉がカラカラに乾いていたのでオレンジジュースをすぐに飲み干すと、ちょうどキリオさんもカップを空にしたところだった。

「そろそろ行くか」

「…あの、先に会計してきますから!…桐生さんは、ゆっくりでいいですよ」

 紙袋を抱えて席から立ち上がり、割引券を使って先に会計を済ませる。もし、ここに俺以外の生田キリオファンがいるとしたら、その名前では呼んではいけないと咄嗟に思った。

「ごちそうさまでした!」

「ごちそうさま」

「はい、ありがとうございました~」

 店員さんに声掛けて、扉を開いて店外へ。少し火照った顔に、外の風が気持ちいい。

 この辺りには飲食店の他に、比較的おおきな文具屋もある。愛用のペンとかネタを書き留めるメモ帳とか、新たな発見ができないかと探ってしまう。ついでにまたお茶しに何処かに寄れたら…なんて、贅沢すぎる願いを抱きながら歩き出した。

「そうだ桐生さん、あの」

「ん?」

「あらァ!!ヒカルくん!」

「………チッ」

 何処からか聞こえてきた声に、桐生さんが小さく舌打ちしたのが聞こえた。


×   ×   ×


 隣に並ぶ桐生さんの顔を見上げると、少しばかり険しくなっている。もしかして知っている人なのかと思い、声が聞こえた方を見た。少し派手めな、一見すると美人なひとだ。男か女なのか、外見ではよく分からなかった。

「…こんにちは。随分と久しいですが、お疲れ様です」

「っ……あ、お疲れ様です!」

 慌てて頭を下げると、桐生さんの知り合いらしき人はニコニコと俺の方を向いてから直ぐに桐生さんを見る。

「よしてよ、同じ職場だったでしょ?あの頃みたいに名前で呼んで~?」

「いえ、昔の話なので。申し訳ないのですが」

「あらっ、もしかして…!お邪魔だったかしら?」

「ええ。これから、予定がありますので。失礼します」

 話を聞こうとしないそのやたら声が低いを無視して、桐生さんが俺の手を握り早歩きでその場から去ろうとする。ちら、と顔を見上げると、桐生さんは怖い顔をしていた。

「桐生さん……?」

「音無、悪い。…嫌な思いさせたな」

「いやいや!綺麗なひとでしたね…?」

 本当は…少しだけ怖かった。あの人は俺を見ているようで、空気か何かを見つめているようだった。会話中、ずっと桐生さんだけを見ていた強烈な視線がやけに頭から離れない。もしかして…と思うけれど、詮索するのはもっと嫌だ。

 ふと、あの日の夜に電話で言っていた、桐生さんのすきな人は…どんな人なんだろうと思った。

「…前の職場で一緒だっただけだ。気にするな」

「へぇ、そうなんですか…って、なんで俺が気にするんです?そんな必要無いでしょう」

「音無」

 腹と心は重苦しいのに、気がついたら早歩きになっていた。作り笑いしてるつもりじゃないし、何か気にしている訳でもない。俺たちはただの上司と部下であり、同人作家とただのファンだ。やきもきしている自分が醜く思えてしまう。桐生さんと俺は、只々同じ職場で働いているだけの間柄。そろそろ、割り切らなきゃいけない。

 足は自然と、商店街から離れていく。文房具屋も、カフェも、俺は何を夢見ていたのだろう。無意識のうちに、俺の住んでいるアパートへと少しずつ近づいていた。桐生さんが前の職場でどんな人間関係を築いていたって、俺には何も関係がない。

「……音無、顔色が悪いぞ」

「ホントに、大丈夫ですって」

「おい、話しを」

「そうだ、そろそろ帰らないと──」

「美影!」

 桐生さんが珍しく大きな声を出して、俺の手首を掴み身体を引き寄せた。すぐ目と鼻の先に、桐生さんの整った顔がある。眼鏡のレンズ越し、じっと強い視線に見つめられて、俺は思わず呼吸するのを忘れた。

「おれは……」

「…なんですか…」

「おれは、お前を…音無美影をずっと大切にしたいと思っている。だからあんな男、気にするな」

 ?

「いま、なんて…?」

「だから、…美影を…その、」

 真っ赤な顔で俺を見る、桐生さんの言葉が上手く飲み込めない。いま、桐生さんは…何と…?

「音無は、おれを生田キリオとして好いているのだろうけど…おれはそうじゃないと、気づいたから」

「……俺は…」

 俺は、桐生さんとどうなりたいのだろう。

 失恋したばかりで傷心だった俺に、容赦なく仕事を振る上司でしかなかった。差し入れのチョコにニコニコ笑う桐生係長が可愛いと思った。風邪をひいて心配してくれた桐生さんに、兄のような頼もしさを抱いた。そして、俺に幸せな時間を沢山くれた……生田キリオにずっと憧れていた。

 その全てを独り占めできるなら…悪魔と契約したっていいとすら思う。

 だって、

「俺も…っ」

 好きです、と言いかけて、我慢していた想いと、不安が込み上げて涙が後から後から零れてくる。息が苦しくて、何も言えなくなった。慌てている桐生さんの声が、ひたすらに優しく聞こえた。

「あっ、な、どうした…?その…やっぱり、嫌か…?」

「ちが、ちがいます、だって…急だから…!」

「まぁ……なんだっていい。お前には、ずっと笑っていて欲しい。じゃないと、おねこ様が悲しむ」

 公衆の面前で、人の目なんか何も気にもしていないかのように桐生さんが俺の手を取り再び歩き出す。俺の住んでいるマンションの人気のないエントランスに入った瞬間、急に足を止め俺の身体を抱きしめた。ひゅっ、て自分が息する音が聞こえて、すぐ傍に桐生さんの鼓動を感じる。

「返事、遅くなって…ごめんな」

「え…?あ…もしかしてまだ、憶えて…?」

「当たり前だろ。嬉しかったんだぞ…かなり…」

 つい先日、仕事の帰りに駅で爆弾発言した後、怖くて一目散に逃げ帰った。長い間燻っていた気持ちを吐き出して、時期尚早だと落ち込むくらいには後悔していたのに。

 目元が涙で滲んだまま、笑いが出てしまう。少しずつ落ち着いてきて、桐生さんの腕の力が緩んだ。涙で濡れた俺の頬を、桐生さんが温かい手のひらでぬぐってくれる。

「桐生さんの好きは…どんな”好き”なんですか」

「たぶん、LIKEじゃなくて…LOVEってやつだ」

 この時間が永遠に続けばいいのにと、心から思った。

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