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第5話 割引券とマッサージ

「はぁっ、あ、きりゅ、さ」

 ひたすら苦しいのに気持ちいい。こんな経験、今までしたこともなかった。そして、想像すらしたことがなかった。

「っ…おい、変な声を出すな…」

「だって息が、出来な…っ!あぁっ!」

 やけに早くなる心臓が、興奮を煽っている。もっと、深く、奥にある…一点目掛けて、指先が到達しそうになった。

「桐生さんっ…俺、もう…!」

「っ、少しは口を閉じたらどうだ…!」

「無理ですって、っく…!」

 そんなこと言われたって、無理なものは無理だ。

 あれだけ魘されていた熱はすっかり下がり、俺は今、桐生さんと……。


 駅前にある足つぼマッサージの店に来ている。

 事の発端は今朝。汗が引き、すっきりとした目覚めに伸びをしていたら、珍しく桐生さんの方から連絡があった。体調はどうか、月曜日から復帰できるか等々当たり障りないことを言った後、渡したい物があるから仕事の時間外に会えないか、と言い足される。今日でもいいですか、と答えたら、考える素振りもなく二つ返事で頷いてくれた。正直、奇跡でも起きたのかと思う。午前中、行きつけの場所以外は予定が入っていないしちょうどいい、とのことだった。

 ついでに、約束していたスイーツバイキングの下見に行こうとも言ってくれる。今日はまだ病み上がりだから、バイキングは別の日に行くことにしよう、と気遣ってくれた。これはその…考えすぎかも知れないけど。

「…桐生さんと…デート…?」

 ただただ、桐生さんの行きつけの場所を俺も共有したかったのは確かだ。本当は桐生さんひとりの予約だったはずなのに、俺も一緒にいいのかと聞いたらスタッフさんが快諾してくれたとのことだった。シャワーで汗を流し、今度はきっちり髪を乾かして着るものを探していたら、おねこがクローゼットの中に掛けていたサロペットを片手でつついていた。こんなとき、おねこの直感は本当に頼りになる。少しよれたシャツの上からサロペットを穿いて、肩掛けのバッグに財布とスマホを突っ込んだらすぐに準備ができた。冷蔵庫からゼリー飲料を取り出し、念のための風邪薬と共に飲み込む。

 桐生さんが駅に着く時間を見計らって部屋を出て、待ち合わせ場所に向かうと自分の心臓が大きな音を立てる。オフの日の彼を知ることになるなんて、昨日までの俺には知る由もなかったから。桐生さんは職場でのかっちりとしたスーツと整った髪型、銀縁眼鏡、ビジネスバッグの印象がとてつもなく強い。それなのに、まさかラフなシャツにジャケットとカーゴパンツ、黒縁のオシャレな眼鏡にボディバッグと言う真反対な格好をするなんて思わず、俺はすっかり有頂天になっていた。

「きっ、きりゅさ、待ちました?」

「いや、今着いたばかりだ…どうした?」

「すいません、その…誰かと一緒に休日に出かけるの、久しぶりすぎて…」

「…おれもだから、心配するな」

 ぶっきらぼうに言葉を返す桐生さんの声は、少しだけ震えているように思えた。緊張しているのは、俺だけじゃないようだ。


  ×


 足つぼマッサージの店に着いてからは、あれよあれよとプログラムが進んだ。桐生さんが「お友達紹介30分コース」を選んだおかげで、2人とも今日から使える近所のファミレス割引券を貰う。更衣室に入り、俺は着ていたサロペットを店が用意していたハーフパンツに着替え、靴と靴下を脱ぐ。桐生さんも同じような恰好になっていて、裸足のまま桐生さんと横並びの施術台に座らせられると、台が傾いて素足がマッサージ師の目の前に出された。温かいタオルで両足を拭かれ、心地いいのも束の間に終わる。はじめます、と声を掛けられれば、たった30分なのに永遠のような時間を、マッサージ師の親指がぐいぐいと足裏を刺激した。そして何故かその気持ちよさが癖になってしまって、変な悲鳴を上げつつ今に至っている。

「……音無、生きてるか…?」

「ん…はぁ…生きてます、かろうじて」

 率直な感想は、初めてなのに気持ちいい。マッサージ師たちは足裏を揉んでいる間、カーテンで仕切られた先にある客たちの顔を見ることは無い。なんでもこの店のオーナーが、産婦人科だったかの検査台から着想を得てこのスタイルになったらしい。気持ちよく寝たり、悶えたり、人目を気にせず声に出せたりできる配慮の行き届いたマッサージは、ある意味有難かった。何より桐生さんの苦悶に満ちた顔を、誰にも見せることなく独り占めできる。そして初めてだらけのことに緊張していた俺の手を、桐生さんが握ってくれていた。相変わらず、俺の手汗はひどいけど。

「…それにしても、ッ…桐生さんが足裏マッサージ、好きだったなんて…知りませんでし…た…」

「…誰にも言ったこと、ないから…な…っ!」

 はぁ、と息をつく桐生さんの口元が、とてつもなく艶かしく見える。額に汗を浮かべ、奥歯を噛み締め何かを堪える表情は…正直、色気がありすぎて、色々心配になるくらいだった。本当に誰にも見られたくない。…これを独占欲と呼ぶのだろうか。

「はーい、お疲れ様でした!終わりましたよ、桐生さん。音無さんも!」

 マッサージ師から掛けられた声に我に返って、握りしめていた桐生さんの手が離れていく。すこしだけ寂しい気がしたけど、冷静になってみればここは公共の場所だった。

「……ありがとうございます」

「あっ、…おわっ、た…?」

「はい、終わりましたよ~。もしかして、桐生さんが話していた後輩くんって音無さんのことですか?」

「えっ?」

「…まぁ、そんなものです…あの、その話は」

「桐生さん、随分とあなたのこと気に入っているみたいよ?いつか一緒に」

「どうかその話は、もう…」

 何があったのか聞こうとして桐生さんの顔を見てみたら、火照ったように頬が朱色に染まっている。もしかして照れてるのかと、自分の目を疑った。

「…桐生さん…?」

「と、にかく、マッサージは終わったから、着替えよう」

 そそくさと施術台から降りて更衣室に向かう桐生さんの背中を、俺はじっと見ることしかできなかった。


×   ×   ×


 先程まで音無と繋がっていた、手の平がじっとりと熱を持っている。

 更衣室に戻り、着てきた衣服に着替えた桐生は水道の蛇口を捻り、冷たい水で両手を冷やした。傍らに置かれたペーパータオルで両手の水気を拭き取り、自分を落ち着かせるように深呼吸する。音無に会いたかったのは渡したいものがあるからで、やましい考えなどひとつもない。それなのに初めて見る彼の私服姿や、あの声を聞いてから自分の頭の中は彼のことで一杯になっていた。これではいけないと自分に言い聞かせ、冷たいモルタルの壁に額を押し当てる。彼の好意は、自分が生田キリオだから向けられているものなのだと自分に言い聞かせた。

「…桐生さん?着替え、終わりましたけど」

「ああ。今行く」

 更衣室の外から聞こえる声に言葉を返し、身支度を整えてボディバックから財布を取り出しこの店の会員証を取り出す。会計を済ませて、外に出たらスイーツバイキングをやっている場所を下見し、渡したいものを渡して帰る。電車の中で何度も頭の中でシュミレーションしてきた筈だ。なのに何故、こんなにも緊張するのだろう。

 元々人前に出るのは得意ではなく、静かな喫茶店の片隅でゆっくりとした時間を過ごすのが好きだった。こうして誰かと待ち合わせして出かけるのは、本当に久しぶりのことだ。

 更衣室から出た桐生を待っていたのは、やけにさっぱりとした顔つきをした音無美影。彼は自分の後輩であり部下で、もうひとりの自分…同人小説家、生田キリオのファンである。そして生田が今書いている話の主人公は彼をモデルにしていた。友人でも恋人でもないし、少し距離を取った方がいいとは自覚している。それでも磁石のように惹かれてしまい、どうしようもなく情けなくなってしまう。

 こちらを見て何か聞いて欲しそうな音無の表情に、桐生は応えてやりたくなった。

「…マッサージ、どうだった?」

「すごい気持ち良かったです。…会員証、作っちゃいました」

 にへ、と笑って自分と色違いの同じカードを持つ音無に、桐生は思わず笑ってしまう。彼が気に入ってくれたのなら、一緒に来てよかったと思えた。

「…まぁ、おまえの家からは近いしな。ハマり過ぎて仕事さぼるなよ?」

「わかってますよ!むしろ元気になりすぎたりして」

「何言ってんだ。これ以上元気になってどうする。…まぁ、今は病み上がりだから無理するなよ」

 桐生がレジで二人分の会計を済ませる。財布を準備していた音無はきょとんとして、既に会計が終わったことに気づき店を出ようとした桐生を慌てて追いかけた。向かう先は、スイーツバイキングを開催しているホテルのレストランだ。

「桐生さん、マッサージ代くらい自分で出します!」

「二人合わせても大した額じゃない…それに、おれが支払った方が安上がりだ」

 桐生は自分の会員証である、箔押しされた黒いカードを音無に見せた。一部の常連しか持っていない特別なカードで、マッサージ料金が毎回3割引になる代物だった。

「まさか、それが噂のブラックカードってやつ…?会員になる時の説明で、数人しか持ってないって言ってた…」

「…まぁな」

「へぇ…そんなに足裏揉んでほしいんですか?」

 音無がにやにやと笑みを浮かべる顔を見て、視線を逸らせる。別にいいだろ、と呟くと、彼は桐生の右手を手に取りぎゅっと握った。

「足裏はできないかも知れないけど、ハンドマッサージなら任せてください」

 腰へ手を当て、えへんと言い切る音無の得意げな表情に、桐生は後で頼むと小声で呟いた。

 到着したスイーツバイキングを開催しているホテルのレストラン前には、土曜日と言うのもあってか既に人だかりができていた。その多くは女性だが、恋人に連れて来られたらしい退屈そうな男性や、男子学生のグループも見受けられる。

「…俺たちが来る時は、平日の夜にしましょうか」

 ホテルロビーのソファに隣り合わせで座り、レストラン前の待機列を遠巻きに見る。事前に下見をしてよかったと、桐生は声に出さずして頷いた。

「土日は混雑しているだろうからな…あとは日曜日の夜でもいい」

「へへ…なんか、嬉しいです」

 音無のはしゃぐ声が、やけに耳に残る。

「何が」

「桐生さんと次にまた会う約束ができて」

 音無の無邪気な笑顔を見て、桐生は咄嗟に顔を俯かせた。仕事でほぼ毎日顔を見ているのに、そんな事を言われたら嫌でも意識してしまうのは時間の問題だった。

「……。音無、」

「はい?」

「ハンドマッサージとやら、頼んでいいか」 

 話題を変えようと頭をフル回転させて、口から絞り出すように告げる。話題の変え方も分からなくなるくらい、音無はよく喋りよく笑う男だ。

「はい!喜んで…!」

「それ終わったら…渡すものがあるから、駅に向かおう」

「駅に、ですか?」

「コインロッカーに預けてある」

 ペンだこのできた指の付け根から、指先まで丹念に揉まれる。指と指の付け根をなぞられ、桐生は一瞬表情を歪めた。

「…桐生さん、この後どうしますか?」

「そうだな…おれはおまえに荷物渡して、帰る予定だけど」

「…そうですか」

 残念そうに笑う音無の顔を見て、何故か心が痛む。その理由が分かりきってるのに誤魔化して、桐生は腕時計の文字盤を見つめた。昼に差し掛かる時間で、先程渡されたファミレスのチケットをボディバッグのポケットから取り出して靡かせる。

「この店、確かお前のアパート近くにあったよな」

「あぁ…確かに、そうですよ。2000円で腹いっぱい豪遊できるファミレスです」

「…荷物、ロッカーから出してくるから…ホテルの前で待ってろ」

「え?」

「荷物取ったあと…良かったら一緒に行かないか…?ファミレス」

「いいんですかっ!」

 桐生の手を揉んでいた手が一瞬止まり、ぎゅっと両手で握られる。満面の笑みを見せた音無の表情に、桐生も思わず口元を綻ばせた。


(……やっぱり、おれは…こいつがどうしようもなく、気に入っているらしい)

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