「ッくしゅん!」
盛大なくしゃみをぶちまけた後、音無は首筋から背中を這うような悪寒に、布団をきつく握り締めた。どうやら髪の毛が半乾きのまま寝てしまったのが原因らしい。震えを止めようにも身体と頭がうまく働かず、思うように動けない。
これは所謂…風邪をひいてしまったのだろう、と熱っぽい頭を働かせる。ぬるいシャワー、半乾きの髪、パジャマを着ずに下着姿のまま寝た。それらが複合し、おまけに寝不足も加算されてはどうしようもない。枕元のスマートフォンを手に取り、虚ろな視界に映るリダイヤル履歴をタップする。職場の外線電話に繋がれば、誰かに取って貰える筈だ。先程確認したデジタル時計の数字は午前8時10分。これから起きて出社したとしても、完全に遅刻してしまう。
3回コール音が鳴り響き、通話口に吐息が掛かる音がする。
「…あの、もしもし」
『桐生です』
聞こえてきた声に一瞬、心臓が凍り付いたような心地がした。偶然にしては出来過ぎているが、今はそれどころではないと努めて冷静に会話を続ける。
「すいません、えっと…人事部の音無です…今日、体調悪くて」
『その声は風邪でも引いたのでしょうね…熱は?』
「さぁ…体温計、なくて」
『…今までどうやって生きて来たのですか』
「俺、風邪なんて滅多にひかないから」
『……』
『…仕方ない…買って持って行きますから、アパートの住所と部屋の番号を教えてください。会社に着く前で良かった』
「は?え…もう、居室なんじゃ」
『…?私の携帯ですが…』
桐生の言葉を、ぼうっとしている状態で聞いていた。スマートフォンの画面を恐る恐る見ると、電話を掛けている先は確かに職場の外線ではなく、彼の個人用携帯番号だった。最後に電話をしたのは、職場の内線ではなく桐生のスマートフォンなのだと今更思い出した。
出来過ぎているのは、自分の視力なのだと音無はひとり力なく笑う。
「…はは…すいません……会社に電話したつもりでした」
『…ついでに、何か買って行きます。欲しいものは?』
「桐生さん」
『何ですか』
「……部屋は…会社の斜め前にある大きいマンションの隣、大き目の建物で、204号室です。アパートの名前は【フレスヴェルグ】」
『随分と物騒な名前のアパートですね…それで、欲しいものは?』
「生田キリオ」
『……ふざけている場合か』
「あはは…ふざけてるわけじゃ、ないんだけどな…じゃあ、お任せします。何か食べるものとか…冷たいのとか」
音無がそう応えると、力尽きたかのようにスマートフォンが耳と頬から離れていく。桐生の方から通話が切られ、音が途切れると反対側の枕元で寝ていたおねこが布団に潜り込み、音無の腕を踏んづけて脇の下で丸まった。
熱の所為かぐるぐると回転している天井が、滲んで見える。自分の欲しがっているものは、きっと手の届かない場所にあるのだろう。
生理的に流れる涙が目尻から零れ、枕を濡らした。体調が悪いと、心まで弱ってしまうのが嫌になる。
しかし息を切らした桐生光が音無美影の部屋のドアを叩くまで、そう時間は掛からなかった。
× × ×
「……何を言ってるんだ、あいつ」
音無との通話を終えた桐生は早歩きで職場へ続く坂道を登り、反対方向にある24時間営業のドラッグストアへ足を向ける。入店早々乱暴に買い物かごを手に取り、薬品コーナーで解熱剤と総合風邪薬、備品コーナーで体温計と柔らかくなるタイプの氷枕、熱さましのジェルシートを次々と放り込む。身体を拭ける大判の使い捨て
「お会計、6500円です」
「クレジットで頼みます」
「はい、こちらにどうぞ」
提示されたカードリーダーにクレジットカードを差し込む。認証されるまでの時間が惜しくなり、その間にビジネスバッグの中から折り畳みの買い物袋を取り出し、購入したものを次々と放り込んだ。
「…お待たせしました、お買い上げレシートと明細です」
「ありがとう」
手早くカードとレシート類を受け取り、スーツのポケットに捻じ込む。買い物袋を持ち上げ、買い物かごをかごの山に積み上げてドラッグストアを後にする。歩きながら職場に連絡し、音無の傷病欠務と自分の午前中休暇を伝え、部下が待つアパートに急いだ。本来ならば、ここまで自分がする必要はない。しかしこれも一人暮らしの部下の為だからと自分に言い聞かせ、音無の言っていた部屋の番号まで無心で歩き続けた。『フレスヴェルグ』と書かれた所謂ブティックホテルのような外観の建物に入り、階段を上って部屋番号を確認する。ドアのチャイムを鳴らして応答を待つ。カシカシと何かを引っ掻く音に次いで、ドアの隙間から薄いカードらしきものが端を覗かせた。
「…音無?」
「うにゃん」
聞こえて来たのは猫の鳴き声。もしやこれで開けろと言うのだろうかと、ドアと地面の僅かな隙間からはみ出て来たそれを引っ張り出す。屈んだ拍子に眼鏡がずれて、肩で押し上げ使い込まれた様子のカードキーを拾い上げた。玄関の端末に押し当てると、内側からロックが外れる音がする。彼の飼い猫、おねこは想像以上に賢いようだ。早く撫でてやりたくなるが、我慢する。
「…お邪魔します」
小さく呟き、ドアノブを握って捻り、手前に引き寄せた。トタタ、と軽い足音がその場から遠ざかるのが分かる。恐らくおねこの足音だろう。
「…音無、大丈夫か」
「うぁい」
革靴を脱いで玄関を上がると、短い通路のすぐ傍にリビングへの入口が見えた。室内にはテーブル、パソコン、ソファにネコトイレ、そして大きなベッドに横たわる音無がいる。キッチンは無理矢理捻じ込まれたような狭さで、冷蔵庫がリビングにはみ出ていた。スーツのジャケットを脱ぎ、ビジネスバッグと共に邪魔にならなそうなソファの片隅に置く。
「…凄いところだな、此処は…秘密基地か何かか?」
「へへ…いらっしゃい。ようこそ、魂の
「熱出たついでに頭でも打ったのか」
半ば呆れながら音無のすぐ近くまで行くと、音無は驚いて桐生の顔を見上げた。
「何言ってるんですか。生田キリオ短編集、『魂の坩堝』冒頭ですよ」
「おまえ…そんなのよく憶えているな…。少部数発行の同人小説なのに」
「実家出る前に姉貴からそれだけ貰って、カッスカスになるまで読み込んでますから」
「……そうなのか」
くしゃみを漏らし、ベッドから無理矢理起き上がろうとする音無を慌てて制止する。ゆっくり起き上がれるように補助して、桐生が今しがた買ったばかりの経口補水液と体温計を取り出して手渡した。
「…旧式の体温計しかなかった…すまない」
「いいんですよ、むしろ申し訳ないですし…お金、また後日返します」
「いや…スイーツバイキングでチャラだ」
目を丸くして桐生を見つめると、音無はふにゃりと口元を緩め破顔した。
「へへ…憶えてくれてたんですね」
「約束は忘れない主義でな」
包装から取り出した体温計を手早く脇の下に挟ませて、荒い息をつく音無の恰好を見て桐生は絶句した。半袖のシャツとトランクスを身に着けているだけで、びっしょりかいた汗がシャツの生地を濡らし肌に張り付いている。
「…それでは悪化する筈だ…!着替えは?」
「う…そんな大きい声、出せるんすね…着替えは、そこに干してあるのが…」
洗濯物干しを指差され、そこに掛けてあるトランクスとハンガーに通されたままのシャツを取るとやや乱暴に音無へ投げ渡した。それと同時に体温計のアラームが鳴り、音無が小さい悲鳴を上げる。
「…どうだった?」
「38度2分…」
「大人しく寝ろ。汗を拭いて着替えてからな。これを使うと良い」
買ってきたものを袋から取り出し、汗を拭くための清拭シートを渡す。彼が着替えている間、他に買ったもの取り出しテーブルの上に置いて、保冷剤は外装まで剥がして冷蔵庫の方を見遣った。
「…冷凍庫と冷蔵庫、開けても?」
「ええ、良いですよ」
氷枕と保冷剤を冷凍庫に、水分補給用の飲み物とゼリー飲料を冷蔵庫に入れる。手慣れた様子で片付けると、冷却ジェルシートの箱を開封して1枚取り出し、残りは冷蔵庫に入れた。
「着替えられたなら、これを額に」
「下は、なんとか…背中、拭いてくれませんか…」
「…いいのか」
「合意の上だし男同士なら、セクハラにはなりません」
「そうじゃない。それに同性でもハラスメントは成立する」
「俺、桐生さんなら尻ひっぱたかれても浣腸されても訴えませんから」
「この変態め…」
小さくため息をつき、桐生が新品の清拭シートを手に取る。個包装を開封し、シートを広げて音無の背中に触れた。その間音無は冷却シートの剥離膜を剥がして額に貼り付ける。
「…っ…」
「…冷たいだろ…大丈夫か?」
「いや…その…はい、大丈夫です」
額と背中に伝わる冷たさと、次いで時間差でやってくる桐生の手のひらの温度に身体が反応してしまう。鳥肌が立ち、火照る身体が更に熱を増していくようだった。いつの間にか布団に潜り込んでいたおねこが、布団から飛び出て音無の胡座をかいた足の上に乗っていた。更に身体があつくなる。
「おねこ、それじゃ着替えられないだろ」
「にゃっ」
「離れたくない、と」
「こいつの言葉わかるんですか?桐生さん」
「…ただの勘だ」
桐生が背中全面を拭き終えると、幾分かスッキリした表情を浮かべた音無は急いで洗い立てのシャツを着た。丸まっていたおねこが不服そうにその場から立ち上がり、桐生の方へと歩いていく。パジャマ代わりのスウェットを身に着けて、ふと部屋の置き時計を見遣った。
「……桐生さん…」
「ん?」
「こっち、見てください」
「……」
「もう、…10時回りますよ」
「…知ってる」
話し掛けてはいても、桐生は音無の顔が見れなかった。彼の目を見て会話すると、嫌でも昨夜の生々しい夢を思い出してしまう。払拭するように首を振り、時間は気にするな、と言葉だけ返した。視線は傍にやって来たおねこに釘付けだ。
「なんか、スーツ姿なのに敬語じゃない桐生さん新鮮だなぁ…ありがとう、ございます」
「は?」
「桐生さんが来なかったら、俺死んでたかも」
「…馬鹿な事を…大袈裟過ぎますよ。何か食べて薬を飲みなさい。ちなみにこちらは、おねこ様の分です」
レトルトパウチの猫用おやつを買い物袋から取り出して、おねこの前に恭しく差し出す。おねこはふんふんと鼻を鳴らして一声鳴くと、音無が受け取って中に入っている魚の切り身をまじまじと見つめた。そして吹き出すように笑う。
「ふふっ…いいんすか?」
「お前とおねこ様以外にやる相手がいないだろう」
「へへ…嬉しいなぁ…おねこ”様”だってさ。良かったな、おねこ」
「んにゃ」
指先でおねこの顎を撫でると、気持ちよさそうに目を細める。額に冷却シートを貼り付けた顔で音無が笑うと、釣られて桐生の口元が緩んだ。
「……変なやつだな」
「へ?」
「…いや、何でもない。…おれは午後から出勤するから、何か必要なことがあれば今のうちに…」
「桐生さん」
「なんだ」
「……手、握って貰えますか?」
いつになく真剣な表情で、音無が問い掛けた。
× × ×
いつだって俺は真面目でいるつもりなのに、大体笑ってはぐらかされる。冗談だろ、って言われるのが目に見えてるから、真面目な話をするのが苦手だ。大学進学の時も、就職先を決めた時も、小説を書こうとした時だって…いつも同じ反応が返ってきた。「そう、がんばって」と愛想笑いで誤魔化すだけで、できっこないと顔に書いてある。そんな顔をされる度、俺はその表情を見なかったことにしていた。学生時代の恋人、家族、友人からは良い奴だと言われはするけど、同時に「無謀で変なやつ」とも言われていた。そんなの自分が一番、身に染みて分かってるのに。
それでもこの人は、俺が小説を書いていることを知っても笑わなかった。
「……音無」
「はい」
桐生さんは俺の顔を真っ直ぐ見たあと、すぐに目を逸らしながら俺の手を握った。手を握る、なんて可愛いものじゃなくて、事務的な握手だけどそれで十分だった。今更だけど、俺の手汗が酷い。
「……こんなのでいいのか?」
「へへ…キリオ先生と握手した…」
「…そんなの…おれで良かったら幾らでもしてやる」
「ほんとでっ…!で、でっ……」
勢い良くクシャミしそうになって、思わず桐生さんの手を強く握っていた。それと同時に腹が鳴って、朝からろくに何も食べてないことを思い出す。いつの間にかクシャミは引っ込み、握っていた手を緩めると、音無さんは台所に視線を向ける。
「…何か食べたいものは?ゼリーだけじゃ腹減るだろう。時間が無くてレトルトしかないが…シチュー、ハヤシライス、カレー、親子丼…適当に買ってきた。米は炊けるよな…?」
「あっ…炊飯器、壊れてて…パックごはんなら棚の中に。それじゃ、桐生さんに任せます。どれも好きだから」
「ん」
指さした先にある棚を開くと、桐生さんは未開封のパックごはんをひとつだけ取り出した。
「桐生さんも食べていきます?」
「白米、貴重なんだろ?…おれはいい」
「そのパックごはんならまだ沢山あるから、気にしないで下さい。大盛りにしてもいいです…!」
自分で言っておきながら、必死さに笑いそうになる。今はこの人に、傍に居て欲しかったから。
「…ありがとう。なら、…ひとつだけ頂くよ」
桐生さんは苦笑いしながら、追加でパックごはんをひとつ取り出した。なんと言うか…好きな人が自分の部屋にいるだけで熱も朝の憂鬱も吹き飛んでいくようだ。
俺の想い人はレンジでごはんを温めている間にも、狭いキッチンコンロの上に鍋を置いてお湯を沸かしている。普段から料理をするのか、桐生さんの手つきはやけに慣れていて手際がいい。
「それにしてもこの部屋、間取りがまるで…」
「ああ…分かります?元々ラブホだったんです、ここ。開店前にオーナーが海外行かなきゃとかで売っぱらって、今のオーナーが買い取ってアパートに」
「……そうなのか」
「間取りはそのまま、台所は無理やり嵌めただけだし、玄関もカードキーだけど…家具付きで家賃は格安、おまけにペット可なんて至れり尽くせりで。風呂とトイレは綺麗で大きくて、住み始めたらこんな快適な部屋、他にはないですよ。桐生さんはラブホ行ったことあります?」
「取材でなら」
「取材…?」
「独りで行った」
自分は何を聞いてるのだろう。少し頭がぼんやりしてきて、理由もなく笑えてくる。ベッドの中に潜り込み、壁に背を預けて座った。
「取材って、小説のですか?」
「……いや…前の職場のだ」
仕事の取材でラブホに行く?どんなことをしていたのだろう。今まで桐生さんの過去を聞く機会なんてなくて、ずっと気にはなっていたけれど。
「…ご飯、作りながらでいいんで…桐生さんの昔話とか、恋バナ聞きたいです」
「地味で面白くもない話を聞いてどうする」
「聞いてみないと分からないでしょう?」
「おまえなぁ…そんなことよりも昨夜の電話…」
「昨日の電話…?どれのことですか」
忘れるわけがない。だけど自分のやらかしをいくつも思い出してしまって、どれの事なのかが正直分からなかった。本当に…この数日で穴があったら入りたいとどれだけ思ったことか。
「…いや、やっぱりいい」
「えっ、何でですか…気になりますよ…!」
「おまえの風邪が悪化する」
「えぇー?」
いつの間にか沸騰した鍋の湯に、レトルトパウチが2つ沈んでいくのが分かる。桐生さんの眼鏡が鍋から上がる湯気で曇り、真っ白になったのを見て思わず笑ってしまった。慌てた桐生さんは眼鏡を外して、ホルダーに入れてたキッチンペーパーで眼鏡を拭いている。
誰かと過ごす時間が、こんなにも心地がいいなんて久しぶりだった。怪我の功名ってやつなのだろう。時間が止まって欲しい、とこの時ほど、願わずには居られなかった。
× × ×
湯気を立てる白米を皿に入れ、ほぐしてからその上にルゥを掛ける。ひとつはカレー、もうひとつはハヤシライスだ。見た目は似ているが、味の異なるふたつの皿を持って居間にあるテーブルに置く。音無が緩慢な動きでベッドから起き上がり、その横でおねこが鼻をひくひくと動かした。
「……いい匂い」
「好きな方を選べ。カレーとハヤシにしたから」
「んじゃ…ハヤシライスにします。カレー、ひとくちくださいよ」
「ん」
ふらつく足取りで棚の引き出しから、使い捨てスプーンを取り出す。ひとつを桐生に差し出して、もうひとつは自分の皿の傍に置いた。
「あっ、お茶飲みます?冷蔵庫にペットボトルのがあります」
「お前の分もいるだろ」
桐生が冷蔵庫から2本、ペットボトルを取り出して一つを音無に差し出した。キャップを開けて1口飲むと、音無はハヤシライスにスプーンを差し入れる。
「…それ食べたら、薬飲んで横になれ。明日は土曜日だからゆっくり休むように」
「わかりました…あ、カレー…スプーン…」
「…ほら」
桐生がまだ手のつけてないスプーンにカレーを乗せ、音無に差し出す。それをにこにこしながら頬張ると、桐生がそのまま持っていた手を離した。
「スプーンはそれを使え。その代わり、ハヤシ1口と等価交換だ」
「あぁ、なるほど…スプーンつきで、ですね」
桐生と同じように1口分のハヤシライスをスプーンに載せると、あーんして、と言いながら差し出した。むっとした表情を浮かべ、桐生は音無からスプーンを奪うようにハヤシライスとスプーンに噛みつき、音無の手からスプーンをもぎ取る。
「ふふっ…そんな怖い顔しないでください」
「上司をからかうんじゃない」
「じゃあ…キリオ先生だったら?」
「……」
「これもファンサのひとつですよ」
「おれはアイドルでもタレントでもないだろ」
昨日から調子を狂わされ続けているのに、桐生はそれが嫌だとは思えなかった。部下を小説の題材にしている後ろめたい気持ちもあるが、意外な程に彼と一緒にいるとリラックスしているのが不思議に思える。皿の上のカレーを平らげ、お茶を飲み干して一息つく。立ち上がり、皿を片付けるとソファの片隅に置いた上着を手にした。
「洗面台、借りるな…。そろそろおれは仕事に行くから」
「……はい」
ビジネスバッグから携帯用の歯ブラシセットを取り出して、洗面所の扉に消える。微かな悲鳴が漏れ聞こえ、音無は苦笑いを浮かべた。程なくして戻った桐生は、洗面台が全面鏡貼りだとは思わなかったと少し不機嫌そうに言った。
「だから言ったでしょ?元ラブホだって」
「あんな洗面台、見たことない…」
「ははっ!でもお陰で姿見がいらないんですよ」
「音無は何処までも前向きだな。では、おねこ様…いずれ、また」
ソファの背もたれの上、器用に座るおねこに恭しく指を差し出す。匂いを嗅いで品定め(?)した後、おねこはじっと桐生を見上げ、か細い声でニャー、と鳴いた。
「おねこ、撫でていかないんですか?」
「初見でお触りはご法度だろう」
「っ…!なんなんすかそれ…じゃ、また来てくれます?」
「……気が向いたら、な」
「いつでも待ってますよ。俺も、おねこも。仕事、穴開けてすみません。頼みます」
「ああ。…気にしないで、しっかり治してください」
玄関に向かい、来た時と同じ革靴を履いて扉を開ける。音無の足元を追うようにおねこが着いてきて、突然の来訪者を見送った。
「…行ってらっしゃい」
「うん」
後ろ手を振り、玄関の扉を開く。通路から太陽の光が差し込むが、振り返った桐生の影で見えなくなった。
「美影」
「は…え?」
身体を引き寄せられ、耳元で桐生の低い声が鼓膜を揺さぶった。
「…おやすみ。いい夢見ろよ」
しかし、それは直ぐに離れていく。
玄関の扉が閉められて、音無は暫く呆然としていた。額の冷却シートはとうに温くなり、我に返ってリビングに戻る。
「……おねこ…どうしよ」
「にゃー」
「やべ…熱上がりそう…」
ふらつく足取りで居間に戻り、テーブル上の解熱剤を手にして、乱暴に箱を開ける。カプセルをふたつ取り出し、ぬるくなった経口補水液で流し込んだ。
解熱剤が効いたのか、甲斐甲斐しい上司のおかげか、はたまたぴたりと寄り添うおねこの加護か…翌日になると、音無の体調はほぼ元に戻ったのだった。