小川のせせらぎを聞いて数十分、長いようで短い道のりを歩いた先に、果たして、シェリーの求めてやまなかった聖域はあった。
澄み渡った青空が、死者達の清らかな魂を祝福しているようだ。
両親の名前の刻まれた墓石は、すぐに分かった。
膝をついて、白衣に潜ませていた琥珀糖を添える。
彼らの遺骨は、本当にこの土のすぐ下だろう。シェリーは彼らを見誤らない。何より、肌を撫でるそよ風が、言いようのない懐かしさを連れている。彼らはシェリーが眠る間際まで、忘れ難い微笑みで見送ってくれた。涙をこらえたあの日の顔が、目を閉じれば今も鮮やかに蘇る。だからこそ、今シェリーの感じている彼らの思いが、それとは違うのが分かる。
ここに両親がいる。涙ではなく、シェリーを笑顔で迎えてくれている。
「…………」
幼い頃、神に捧げる祈りの言葉を、神事で聞いたことがある。覚えているのは出だしだけだが、それを唱えて、シェリーは手のひらを合わせて指を組む。
伝えきれない感謝と謝罪、ともに振り返りたかった思い出、彼らと築きたかった未来。
彼らの気配に意識を澄まして、シェリーは募らせてきた思いを向ける。
「会いたかったよ。お父さん、お母さん」
何故、こんな姿になるまで待たせたのだろう。何故、病など患ったのか。
あの時の不運に意味があるなら、教えて欲しい。いや、あの不運が巡り巡って、自分をここに引き合わせた。翡翠に出逢えた。旅に出て、多くのものと繋がれた。
「初めまして」
しめやかな声が、つと、シェリーの耳をくすぐった。
スカートの裾を押さえて屈んだ翡翠が、手を合わせた。彼女が、さっきの祈り続きを唱える。
確かに、そんな言葉だった気がする。多くの家庭教師が付いていた彼女は、こうしたことも教え込まれていたのかも知れない。
「有り難う、翡翠」
「ううん」
…──私の方こそ、有り難う。
そう続けた翡翠は、何に対してそう感じたのか。
自惚れるなら、彼女の両親に対面した時のシェリーと同じだ。
あの時、シェリーは彼女について、また一つ知れた。彼女の特別な場所に、踏み入ることを許された。
それが嬉しかった。不謹慎な感動かも知れなかったが、それだけ彼女が愛おしい。
「とても悔しかった……もう諦めようとしたくらい、お父さん達に会えなくなって、私は全部失くしたと思った。目覚めたら、世界もがらりと変わっていて」
だけど、と、シェリーは続ける。
側にモモカがいてくれた。助手達との思い出が詰まった人工知能は、彼らがシェリーを守ってくれていたようにも思う。そして彼女が、翡翠をシェリーに引き合わせた。
「大切な人に出逢えたわ。翡翠。彼女のお陰で元気になれた。泣いて私をここに繋ぎ止めてくれた。どんな時も味方でいてくれて、優しくて、それだけじゃなくて……」
こうも満たされて良かったのか。最近、生まれ変わるのも怖いくらいだ。来世など研究者として管轄外の概念だが、いつまでも自分でありたいと思えるほど、シェリーはこの人生に縋っている。彼女との日々を経て、潰えた希望も取り戻せた。
未来など、何が起きるか分からない。もしかすれば、こんな日々も、またいつか終わる。それでも、次は大切に出来る。両親の与えてくれた命と、彼女の繋いでくれた未来を。
「シェリーのこと、幸せにします」
今また両手を組んだ翡翠が、どこか照れた口調で囁いた。
「お父様、お母様の分まで、シェリーを一生大好きでいます。また、彼女と一緒に伺います」
そうだ、とシェリーは気付く。
これが最初で最後の訪問ではない。西には思うところがあっても、ここはやはり大切な場所になった。
懸念していた通りになった。シェリーは、ここにとどまりたくなっている。ここなら両親にいつでも会える。翡翠とこうして穏やかな時間の中にいられる。
それでも、シェリー達が離れ去ったからと言って、墓地は消えない。彼らはきっと、シェリーが再び彼女と訪ねるのを待っていてくれるだろう。千年も待ってくれていた彼らのことだ。
次は、花を準備出来るだろうか。
花屋など実用性に乏しい店は、どこにもない。花の咲く場所も数少なく、各地で爆撃のあった今、摘み取るのも気が引けた。
代わりに、色とりどりの琥珀糖が墓石を彩った。
シェリーが彼らを訪ねた証だ。
それから、シェリーは翡翠と手を繋いで、来た道を引き返していった。
思春期の少女の行動にも思えたが、二人して年相応の学生時代の思い出がない。
だから、これは経験だ。年頃の少女達が友情を確認し合うための儀式めいたスキンシップを、倣っているだけ。
「翡翠、……」
「シェリー」
二人の声が重なった。
互いに先を促し合う。収拾つかない交譲は、翡翠もシェリーと同じ窮地に陥ったからか。
彼女を呼んだは良いものの、言葉を用意し損ねていた。ただこの想いを伝えたい。だが、どの言葉もしっくりこない。
「えっと、もう、あとにしよっか」
「え?……うん。そう、それがいいね。気を遣っちゃうし」
言い訳がましい翡翠の言葉が、可愛らしい。
そんな風に感じていたシェリーの耳に、突然、電子音が触れた。
通信機の発信主に、ショウの名前が出ていた。